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  作者: ありしょう
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   第三章 遺産相続

      十二


 タクシーに乗って十分程で、辺りは緑の多い風景となった。さらに進むと、舗装されてはいるが、山道らしい道に入って行った。そして数分も経たないうちに、広大な梨園が目の前に広がると、その奥には堂々たる門構えの豪邸が見えた。

 どうやらそこが目的地の塩野谷家らしい。梨園の外周道路を通り、外門の前にタクシーを止め二人は降車した。新人は目の前に広がる梨園にため息が出た。

「広いだろ?」

「う、うん。あるんだね、こういう家って」

「まあ、この辺りでも昔からある名士だ。迷子になるなよ」

「子供じゃないから」

 外門をくぐり中へ入ると、平屋建ての家屋が目に入った。その平屋の前では一人の少女が、手まりをついて遊んでいた。

 おかっぱ頭にくるりとした目で、黄色いワンピースを着た、七、八歳くらいの少女だ。


『うさぎの角は、すいとうと。こちらにこんこん、この子にと。赤い子鬼の子、文交わし。ようよう考え、帰りを待つよに、したとさ』


 今時手まりで遊ぶなんて珍しいと新人は思った。少女は手まりに夢中になっていて、新人達に気が付いていない。


『うさぎの角は、すいとうと。こちらにこんこん、この子にと。赤い子鬼の子、文交わし。ようよう考え、話を聞くよに、したとさ』


「面白い手まり唄だね。でも、うさぎに角なんてあるの?」

 突然声をかけられた少女は驚いた拍子に手元が狂い、まりが新人の足元に転がってきた。

「あっ、ごめんね。驚かせちゃったかな?」

 少女は不審そうな目で新人を見たが、隣の源次郎を見ると軽くお辞儀をした。源次郎とは顔見知りのようだ。そんな少女に新人は手まりを渡した。

「今の手まり唄ってちょっと変わっているけど、学校で教わったのかな?」

 少女は首を横に振った。

「学校じゃ誰もやらないよ。これは大婆ちゃん達から教わったの」

「大婆ちゃん達?」

 すると少女は俯いて言った。

「うん、でも死んじゃった……」 

「え?」

「この度亡くなった方だ」

「ああ、そうか」

 少女が悲しい顔をして下を向いてしまったので、なんとか取り繕うと新人はメモを取り出した。

「あのさ、僕は周防新人って言うんだ。君は?」

「結愛、塩野谷結愛」

「そうか、結愛ちゃんはいくつかな?」

「八歳」

「八歳かぁ。じゃあ学校は?」

「今日は午前中で終わり」

「そうなんだ。あのね、僕はお仕事で、童謡とか童話とか、そういうものを調べているんだ。もしよかったら、いま君が歌っていた手まり唄を、僕に聞かせてくれるかな?」

「うん、いいよ」

 結愛は人懐っこい性格のようだ。新人に言われ笑顔で頷くと、手まりをつき始めた。


『うさぎの角は、すいとうと。こちらにこんこん、この子にと。赤い子鬼の子、文交わし。ようよう考え、帰りを待つよに、したとさ』

『うさぎの角は、すいとうと。こちらにこんこん、この子にと。赤い子鬼の子、文交わし。ようよう考え、話を聞くよに、したとさ』


 新人がメモを取りやすいように気を使っているのか、結愛はさっきよりもゆっくりと、そしてはっきりとした通る声で、手まり唄を歌った。

 歌い終えると結愛はまりを抱き、ちょっと恥ずかしそうに上目遣いで新人を見た。

「結愛ちゃん、上手だね。声もきれいだし。何か習い事してるのかな?」

「民謡を習ってる」

「どうりで。ところでさ、この手まり唄の意味ってわかるかな?」

 結愛は少し考えるように視線を泳がせてから、首を横に振った。

「そうか。二番までしかないの?」

「これしか教わってないから……」

「そうなんだ。どうもありがとうね」

「あら、周防先生」

 突然背後から女の人の声がした。振り返ると新人と同世代くらいの若い女性が立っていた。控えめなグレーのワンピースに、やや茶色に染めたロングウェーブの髪が風で靡いた。

 彼女が源次郎に対して一礼したので、新人もつられて一礼をした。

「すみません。何度も足を運んでいただいた上に、集まりが悪くて」

 申し訳なさそうに言う彼女に対して、源次郎は新人を指さし大げさに言った。

「いやいや。こいつも遅刻してたものだから……」


 源次郎は、この女性が結愛ちゃんの母親の塩野谷朱里さんだと紹介した。朱里は結愛を連れ、二人を奥に見える母屋へと案内してくれた。

 案内される途中、源次郎はこっそりと新人に言ってきた。

「話したとおり、若くて美人さんだろ?」

 確かに昨日電話で、若くて美人だから惚れるなよと言っていた。

「実は、結愛ちゃんの本当のお母さんは三年前に病気で亡くなっている。でも自分の死期を悟っていたのか、娘のためにもすぐに再婚してほしいと願っていたそうだ。そこへ後妻としてやって来たのが朱里さんだ。たしか今年で三十になったと聞いているな」

「そうなんだ。同い年くらいかと思ったよ」

 そんな話をしながら玄関に入って驚いた。

 玄関だけでも自分のアパートより広い。それに富裕層の定番、熊の剥製がこっちを睨み、その両隣には胸の高さほどある壺が置かれていた。

 二人は案内されるがまま、玄関を上がり廊下を奥へと進んだ。その廊下を歩く途中で、源次郎がまた小声で話しかけてきた。

「どうだ。凄いだろ」

「別に爺さんの家じゃないだろ」

「確かに。昨日、塩野谷家の人達については大体話をしたが、せっかくだからこれも知っておけ。塩野谷幸一と啓一は、この辺では有名な梨園の経営者だ。この梨園も1㌶以上ある。その梨園の一角にあるこの日本家屋は〝母屋〟と呼ばれていて、幸一夫妻と啓一夫妻の二家族が住んでいる。間取りは12LDK、延床面積は400㎡以上だそうだ。迷子になるなよ」

「だから、子供じゃないって」

「そして、この母屋に隣接して〝洋館〟と呼ばれている家屋がある。そっちは幸一夫妻の息子、龍一君の家族が住んでいる。啓一夫妻にも一人息子がいるが、今は別の場所に住んでいる。それとさっき、結愛ちゃんが手まりをついてた所、あそこにも平屋建てがあっただろ? あれは〝離れ〟だ」

「ああ……あれは離れだったの? どう見ても普通の一軒家にしか思えなかったけど?」

 新人はため息が出た。

「母屋の方は梨園で成功した幸一と啓一の二人が建てたもので、洋館の方は龍一君が結婚してから建てたんだよ」

「離れはどうなの?」

「離れは昔から松子・菊子姉妹が住んでいた。あの双子は贅沢が嫌いでな。だから離れで質素な生活をしていたそうだ」

「そうなんだ。二人は離れで質素な生活か……」

 何かが引っ掛かったが、少なくとも今案内されている母屋を見る限り、塩野谷家一族は成功者であり、上流階級の住人としか思えなかった。

 そして二人は、三十畳程もある大広間へと案内された。母屋の外見は日本家屋で、ここへ通される間に見た造りも全て和風だったが、この大広間は明らかに洋風だった。ここは〝リビング〟と呼ばれているらしいが、新人の知識にあるリビングとは、大きくかけ離れていた。

 母屋と隣接する洋館が、このリビングを共有する形で建てられていて、天井には豪華なシャンデリアが飾られ、中央の巨大な長方形のテーブルを挟む格好で、二組のソファとテーブル、大型液晶テレビのセットが、対局線上に配置されていた。

 このテーブルの長辺側に当たる所には椅子が五脚づつ、短辺側には一脚づつ、全部で十二名が着席できる。そして既に、塩野谷家の人達が着席していた。

「周防様をお連れしました」

 朱里は、テーブルの短辺側近くに用意された二脚の椅子に新人達をすすめると、テーブル席に着いた。

 案内されたその短辺側の席には、かなりの高齢と見られるお婆ちゃんが一人で座っており、新人達を見て、にっこりと笑顔を見せた。他はいずれも長辺側に五人と四人が向かい合う格好で座っていた。

 そんな中で源次郎が挨拶をした。

「皆様、お待たせしました。この度はまことにご愁傷様です。本日は故人の意思を皆様にお伝えしたくて参りました。なお故人の希望で、千葉新聞社の記者である周防新人、まぁ、わしの孫でございますが、同席させていただきます」

「はじめまして。千葉新聞社の周防新人です。よろしくお願いします」

 新人は軽く会釈をした。源次郎と新人が腰掛けると、テーブル席に腰掛けていた四十代くらいの一人の男性が立ち上がった。スーツ姿のスマートな体系のその男性は、塩野谷龍一と名乗った。そして着席している順に、家族の簡単な紹介をした。

「まず、あなた方の隣にいるのが、松子大婆ちゃんか菊子大婆ちゃんのどちらかです。現在は太陽の会の名誉会長を務めています」

 事前に源次郎から話を聞いていなければ「は?」と聞き返していたに違いない。

 今回のおかしな相続の発端になったのは、言うまでもなくこの九十八歳のお婆ちゃんなのだ。塩野谷家では〝大婆ちゃん〟と呼ばれているらしい。

 どこか申し訳なさそうに縮こまっているが、それでも気品の良さがあるのは、年齢の割りに姿勢が良く、身だしなみもしっかりしているためだろう。今着ている和服も、不幸があったばかりとは言え、場の空気を暗くしないような着こなしをしているように思える。

しかし、落ち着かないのか手をしきりに揉んでいる。

 新人は軽く頷いた。

「そちら側から順に、菊子大婆ちゃんの長男にあたる啓一叔父さん、その隣が鈴子伯母さんです」

 昨日の電話で、塩野谷啓一は七十一歳だと源次郎が言っていた。ダーク系のスーツを着ているが、痩せ気味で色白なところが、どこか陰気な雰囲気を醸し出しているように見える。新人が一礼しても、目を合わせようとすらしなかった。

 隣の鈴子は化粧が濃く、見るからに性格がきつそうに思えた。大分ボリュームがなくなった感じのショートヘアーの黒髪で、夫に習ってか黒いワンピースを着ていた。夫婦そろって愛想がない。

「その隣が従兄弟の正夫君です」

 その隣の正夫も二人に合わせて黒いスーツ姿だ。龍一と従兄弟であるが故に色々と比べられて、少し捻くれた所はあるが決して悪い奴じゃない、と源次郎が言っていた。新人に対しても軽く一礼をした。

「そして太陽の会の現会長、遠藤道徳様です」

 いかにも高級そうなスーツを着こなす、この人物が遠藤だ。午前中、太陽の会を訪れた時には不在だったのだろう。昨日の電話では気さくな印象を受けたが、こうして直接会ってみると、実業家独特の雰囲気を醸し出し、近寄りがたい人という真逆の印象を受けた。

 しかし、こうして家族と一緒のテーブルに同席しているあたりは、塩野谷家との繋がりの強さを感じた。

「そしてこちら側の端から順に、松子大婆ちゃんの長男で私の父、塩野谷幸一です」

 紋付袴姿の塩野谷幸一は、啓一とは目元が良く似ている。源次郎と同じ今年で七十二歳になるが、体格がよく色黒のせいか、年下の啓一より若く見える。源次郎の話によると、以前はそれ程きつい性格ではなかったらしいが、知人の借金の肩代わりをする羽目になり、性格が変わったという。

 そして啓一同様に、初対面の相手でも関係なく目を合わせようともしない、無愛想な態度だった。

「その隣が母の時子です」

 時子も一度だけ新人を見たが、興味無さそうな態度は幸一同様で、無愛想だった。化粧が濃く髪を茶色に染めパーマをかけた姿は、田舎の飲み屋のママのような印象だ。着物も幸一に合わせ喪服を着ている。

「隣が妻の朱里と娘の結愛です」

 朱里はほとんど化粧をしていないにも拘らず、目鼻立ちの通ったかなりの美人だ。

 隣で結愛ちゃんが手を振ったので、新人も思わず手を振り返して微笑んだ。父親には似ていないから前妻に似たのだろう。先ほど手まり唄を教えてもらったから分かるが、素直でいい子だ。

 龍一は父親の幸一に似ているが、性格は温厚そうだ。

 一通りの紹介が終わると、明らかに自分たちは歓迎されていない雰囲気だと感じた。初対面でも分かるくらい、あからさまにこの家族は二つに割れていて、その事を隠そうとすらしていないからだ。

 着ている服が、幸一夫妻は和服で啓一夫妻は洋服ということも、その表れであろう。

 そんな状況は源次郎も承知のようで、能面のように感情を殺した表情をしていた。これが弁護士周防源次郎なのだと、新人は初めて知った。

 出席者の紹介が済むと、源次郎は咳払い一つして立ち上がり、事務的な口調で言った。

「それでは、遺言書を開封して、読み上げたいと思います」

 朱里と結愛は小声で何かを話しているが、他の人たちの顔には明らかに緊張が走った。

 そんな中、源次郎により遺言書が読み上げられた。


一、まずこの遺言の執行者を以下に定める。

  住所:成田市郷部一三二二

  氏名:周防源次郎

二、塩野谷家の者は協議の上、代表者を一名選出すること。

三、代表者は、この遺言書が読み上げられてから四日後の正午までに、この度亡くなった

  者の名前を、塩野谷家の総意として執行者に書面で提出すること。

四、執行者は、代表者から受け取った書面を責任をもって封印・保管し、この遺言を読み

  上げてから四日後の正午過ぎに、塩野谷家の全員と太陽の会会長を一堂に会した場で

  開封し発表すること。

五、執行者は発表後、事前に手渡してある封書も開封し、そこに記載されている事項を読

  み上げること。

六、代表者が亡くなった方を言い当てられた場合、亡くなった方の名義の全財産は通常の

  法定相続とするが、その総額の一割は『太陽の会』に寄付すること。

七、代表者が亡くなった方を言い当てられなかった場合、遺留分のみの相続となり、それ

  以外は『太陽の会』に寄付すること。

八、以上のことが公正に執り行われるよう、執行者は新聞記者を一名同席させて執り行う

  こと。


  平成二十七年○月×日


    住所 千葉県 鎌ヶ谷市 ○×一丁目一―一    塩野谷 松子


「これと全く同じ内容の遺言書がもう一通ございます。遺言者は当然、塩野谷菊子様でございます」

 源次郎は二通の遺言書を、みんなの前に示して見せた。どちらも手書きで、押印もされている。それを見た家族の反応は、差こそあれ動揺しているのは明らかだった。

 朱里はこれから起こる事態を察知したのか、結愛を連れて退室した。源次郎も今後の展開をまだ幼い結愛に見せたくないのだろう、退室を黙って頷き認めた。

 そして予想通り、塩野谷幸一が怒り心頭の面持ちで声を荒げた。

「こんなふざけた遺言なんて無効だろ」

 顔が頭部まで真っ赤で、まるで茹で蛸だ。

「どっちかを言い当てろだと? 人を馬鹿にしているのか」

「そうよ。馬鹿にしているのかしら?」時子が同調した。

「そもそも通常の相続って、今回の場合だと誰が相続人になるのですか?」

 一人冷静に龍一が源次郎に尋ねると、みんなが一斉に源次郎を見た。源次郎は咳払いをしてから答えた。

「今回のケースですと、相続人になるのは被相続人の子、つまり幸一氏か啓一氏と言うことになります」

 皆の視線が今度は二人に注がれる中、啓一が源次郎に尋ねた。

「どちらか一人だけですか?」

「法律上、そうなります」

 源次郎の答えに、時子があからさまな表情で悔しがった。

「二人のお世話をしていたのは私よ。私にだって少しくらいもらう権利があると思いますけど?」

 すると鈴子が、嫌み混じりの口調で言い放った。

「まあ図々しいわね。お世話なんて全部、朱里さんに押し付けていたくせに」

「あなたなんて何もしていませんよね?」

「何ですって」

「二人とも落ち着いてよ」

 龍一が間に入ったが、一触即発の状況は変わらない。

「とにかく、二人のお世話をしていたのは私達ですからね。相続人が誰であっても、何もしてない人に分けてやる義理はありませんわ。そうですわよね? 周防先生?」

「いや、お世話をしていたかどうかは――」

 鈴子が、源次郎の言葉を遮った。

「あら、随分な言い種ですこと。じゃあこの場ではっきりと明言出来るでしょ? 亡くなったのはどっちなんですか? え?」

「そ、それは……」

「なんだ? 付きっきりで世話していたのに、そんなことも分からないだなんて、どれだけ粗末に扱われていたんだかな」

 啓一が横やりを入れた。

「おだまり。何もしてない人が偉そうに」

「時子の言う通りだ。どっちにしろお前らは何もしていないだろ」

「何もしていないとは何だ。じゃあそっちは何かしたのか?」

「さっきから言っているだろ。二人のお世話をして、梨園をここまで大きくしたんだ」

「自分一人の力な訳ないだろ。梨園には俺だって随分貢献したぞ」

「お客さんの前で、もう止めませんか」

 再び龍一が仲裁に入った。やれやれといった表情の龍一だったが、話のタイミングを見計らって割って入ってきたあたりは、すっかり慣れた様でもあった。

「何よ龍一。貴方はどっちの味方なのよ?」

「母さん、親族同士がこんな事で揉めなくてもいいだろ?」

「こんな事とは何だ、こんな事とは」

「父さんも少しは冷静になれよ。今は亡くなったのが松子大婆ちゃんなのか、菊子大婆ちゃんなのかが分からないのが問題なのだろ? これ以上問題を広げずに解決しようよ」

「何ですか? それなら龍一さんには見分けがついているのかしら?」

 鈴子が冷ややかな目で言った。

「い、いえ。それがさっぱり自信がないです。すみません」

 潔いにも程があるだろと、新人はツッコミを入れたくなったが、誰も分からないということだけは、これでハッキリとした。

「あの、すみません。ちょっとよろしいでしょうか?」

 新人はどうしても訊きたかった事を質問した。龍一に言わせればお客さんではあるが、よそ者である新人を見る幸一・敬一夫妻の目は、共通して冷たかった。

「皆さんはこれまで、どのようにしていたのですか? 名前くらい呼びますよね?」

 すると龍一が申し訳なさそうに説明してくれた。

「いやあ、お恥ずかしい話になりますが〝本人が名乗る〟か〝黒子があるか〟だったんですよ」

「黒子?」

「ええ、松子大婆ちゃんには右頬に小さな黒子がありました。だから今まではそれでよかったのですが……」

「何か問題でも?」

「亡くなってから分ったのですが、実はその黒子は〝付け黒子〟だったのです」

 そう言って龍一はこの場にいる大婆ちゃんを見た。大婆ちゃんは事の重大さがわからないのか、新人と目が合うとニコッと笑った。

 そしてこの部屋にいる間、ずっと揉んでいた手の平を広げて見せた。何やら小さな黒い物を持っている。

「あっ」

「付け黒子です。ずっとこんな調子なんです。そして自分が誰なのかも分からなくなってしまいまして……」

 龍一が半ば諦めた口調で言うと、大婆ちゃんは手にしていた付け黒子を右頬に付けて、ニコッとした。これでは黒子で判断することができない。

「……わかりました」

 新人も半分同情する気持ちが芽生え、質問はもうありませんと言う意味の言葉を添えると、再び幸一が口火を切った。

「遺産は全て家長である俺が管理する。そもそも今回亡くなったのは、俺のお袋だ。息子の俺が相続するのが当然だろ」

再び幸一夫妻VS敬一夫妻の毒舌合戦が始まってしまった。

「今どっちが亡くなったのか分からないって話をしていたのだろ? それにいくら騙されて借金があるからって、欲張り過ぎだろ」

「貴様だって、こっそり始めたリサイクルショップが失敗して、咽喉から手が出るほど金が欲しいくせに」

「ああそうだよ。だから俺は絶対に諦めないからな」

 事あるごとに衝突してはその都度、龍一が落ち着かせるという繰り返しで、このままだと、亡くなった方を言い当てるなど無理に思えてきた。

「どうしても相続人は一人じゃなきゃ駄目なんですか? 先生?」

 啓一から指名を受けた源次郎は、ゆっくりと答弁した。

「遺言にも書かれていましたが、今回のケースで法律上の相続人は、該当する方がお一人だと言うことです。ただし、遺言書とは故人の意思でもありますが、法的要件や型式を欠いたり常識的に考えてもおかしな遺言は無効になるケースもあります」

「ほら、やっぱり。じゃあ今回のこのめちゃくちゃな遺言は無効ですね?」

 啓一は安心したように、急に機嫌が良くなった。

「めちゃくちゃ? 無効? 私が何時そんな事を言いましたか?」

「え?」

 啓一のにやけ顔が固まった。

「この遺言には何の問題もございません。ちゃんとここに書かれているではないですか。言い当てれば通常の法定相続となり、言い当てる事が出来なくても遺留分は保証すると」

「そ、それって、ど、どう違うんだ?」

「言い当てれば、一割を太陽の会に寄付しても相続人が残った九割を相続できます。ですが言い当てる事が出来なければ、太陽の会と半分にして相続することになります」

 ここまで大人しく存在を消していた遠藤に、幸一と啓一夫婦の厳しい視線が向けられた。

「何で半分もこの人に渡さなければならないのですか?」

 時子の質問に、いささか機嫌を損ねて遠藤だったが、じっと無言を通した。その代わりに源次郎が答えた。

「遠藤氏個人にお渡しするのではありませんよ。でも本来なら、それくらいの事があっても不思議ではないですね」

「それはどういう事でしょうか?」

 龍一の問いに、源次郎が一つ呼吸をおいた。

「戦後途絶える寸前だった塩野谷家を全面的に支えたばかりか、太陽の会をここまでにしたのは、遠藤五平さんと道徳さんの力があったからこそだとは思いませんか?」

 新人には何の話か分からなかったが、幸一も啓一も夫婦揃って何か思い当たるのか、俯いてしまい静かになった。そのタイミングで遠藤は口を開いた。

「それはもう過ぎたことです。今更恩着せがましく言うつもりは有りません。ただ名誉会長の意志は極力お守り頂きたいと思います。それと、他人の私が口を挟む事ではないのですが、そもそも皆さんは相続の内容を把握されているのでしょうか?」

 今日はじめて、直接遠藤の声を聞いた。電話での応対とは違う。そして冷静に塩野谷家の状況を分析していた。

「そう言えば、どうなっているんだ?」

 幸一が呟いた。

「何だよ、偉そうに言っておいて、そんな事も知らねえのかよ」

「うるさい。だったらお前は知っているのか?」

「俺は……」

「知らねえじゃねえか。俺は、これまでずっと、良い梨を作ることに人生を捧げて来たんだ。だから財産なんて見向きもしなかった。まさかそれが裏目に出るとはな」

 自分は財産に関心がなく梨園一筋だったと、そうアピールしたいらしい。見かねた源次郎がため息を一つついた。

「財産の目録ですが、ここにあります」

 遺言には財産目録が付されていた。それによれば、この梨園の所有権も、これまで堅実に貯えてきた預貯金も、驚くほどきれいに松子と菊子は分け合っていた。

 源次郎は、土地については法務局で登記簿を調べたから間違いないと付け加えた。預貯金額は二人で二億円近くあり、また梨園以外にも、新鎌ヶ谷駅周辺に土地を所有していたことも話した。

 さらに皆を驚かせたのは、かつて浅草にあった塩野谷家の跡地も二人が名義を持っており、現在は立体駐車場として存在し、その収入もあったのだ。

「この様にして、お二人は仲良く分け合ってきました。浅草の立体駐車場を含めて換金しますと、およそ六億円程になるかと思われます」

「六……」

「ただし、今回の相続分は亡くなった方の分だけですので、三億円程が対象です」

 幸一と啓一両夫妻の目付きが変わったのを、新人は見逃さなかった。当たれば二億七千万、外れても一億五千万円は手にできる。予想していなかった額に、塩野谷家の面々は黙りこんだ。

「おおよその事は分かりました。しかし、どっちが亡くなったかという正解は……もしかしてそれが〝事前に手渡してある先生宛の封書〟に書いてあるのですか?」

 龍一が聞くと源次郎は頷いた。

「私も内容は見ていませんが、そうだと聞いています」

「それじゃあ先生、役所への届け出とかはどうすればいいのですか?」

 さらに龍一が質問した。

「すでに医師による自然死の確認は出来ています。ですから今回の場合は死体検案書という書類を添えて、死亡届を提出することとなりますが、死亡届けは亡くなられてから一週間以内に提出していただければ問題ありません。しかし、その前に死体検案書の方にも名前を記載しなければなりませんから、名前がわからないと書類の発行が出来ません」

「じゃ、じゃあ、こうしよう。と、取り合えず亡くなったのは、お袋の松子ってことにしてだな――」

 幸一が苦し紛れの提案をするが、源次郎はあっさり却下した。

「もし、亡くなったのが菊子様でしたら?」

「そ、その時は訂正して……」

「不審に思った役所の人が警察へ通報すると思いますよ」

「じゃあどうすれば……」

「言い当てるしかありませんね。四日後までに」

「うう……」

 一同黙り混んでしまった。


      十三


「どうだ、遺産相続の場に立ち会うなんて初めてだったろ?」

「ああ、何時もあんな感じなの?」

「弁護士が間に入るという時点で、話がこじれているか、そうなる事がわかっているという事だからな」

「それもそうだけどさ。はぁ……なんで家族なのにあんなに揉めるんだ?」

 新人はため息と愚痴をこぼした。

「あれくらいならまだ大人しい方だ。以前わしが立ち会った遺産相続のときなど、親兄弟で取っ組み合いの喧嘩になったわ」

「そんなに人を変えるんだ? 相続って」

「皮肉な事だが相続するものが何もない方が、遺族の関係はギクシャクしないな。むしろ借金を残した場合の方が、遺族は一致団結するもんだ。その証拠に相続放棄の手続きは意外に早く話がすすむ。しかし今回のように、それなりの額の遺産があって遺族の財政事情が悪いと、今日以上の修羅場になる」

「成る程ね。あと話に出ていた遺留分ってなんだっけ?」

「なんだ? そんな事も知らんのか? じゃあ、わしの全財産の一億円は、先週知り合ったばかりの〝架純ちゃん〟に全額相続してもらうぞ。お前には一円も渡さん」

「え? 一億? 架純ちゃん? な、なんだよそれ。知り合ったばかりの赤の他人が、そんなに大事なのかよ?」

「ほら、そうなるだろ?」

「え?」

「だから、そんな事をされたら困るだろ? だから、遺留分って制度があるんだ。遺言で誰かに相続させたくても、正当な血縁者を差し置いて、第三者に全額を相続なんかさせていたら、混乱のもとだからな。わかったか?」

「ああ、そう言えば習ったような気がする」

「全く。もっと勉強せい」

「わかった。一億円の有効な使い方を勉強しておくよ」

「嘘じゃ」

「? 今度はなに?」

「一億円なんかあるわけなかろう」

「なんだよ、そっちも嘘かよ」

「当たり前だ。弁護士なんてそんなに儲かる職業じゃない」

「その台詞、これから司法試験を受ける人たちに聞かせてやりたいよ」

「試験を受けるくらいの人なら、弁護士が儲かる仕事じゃないって事ぐらい知っていて当然だ」

「そうなんだ。医者や弁護士っていったら、高額所得者の代表的職業じゃん」

「儲かっているのはほんの一部だ」

「ところで話変わるけど、あの遠藤ってどんな人なの? あまり童話とかに興味があるようには見えないし、それに戦後に塩野谷家を支えたとか、あと〝五平〟って名前も初耳だったけど?」

「そうだったな。まず彼は、塩野谷家の遠い親戚に当たる人だ。ただの有志の会だった太陽の会を、あそこまでにしたのは彼の力だ。経営手腕に関して間違いはない」

「へえ、実は童話にも興味があったのかな?」

「過去に本を自費出版したことはあったらしい」

「作家を目指していたの?」

「わからない。ただ〝資産を継ぐなら塩野谷姉妹を助け、塩野谷家の再興に協力するように〟と、彼の祖父に当たる遠藤五平の遺言があったそうだ。かなり昔の話だ」

「えっ、また遺言?」

「そうだ。まあ、遺言とまでは言わなくても、親戚やら隣近所がお互いに協力するというのが、昔は当たり前だったんだよ」

「今と違って、人と人の結び付きが強かった時代だったからでしょ。じゃあ他にも塩野谷家再建に協力した親戚がいたの?」

「いや、親戚は遠藤家だけで、他にはおらん」

「いない?」

「そう。戦時中、都内を中心に大規模な空襲があったのは知っているだろ?」

「東京大空襲だろ? 歴史で習った」

「歴史か……。まあええ」

 源次郎は一瞬だけ何かに想いを馳せたように遠い目をした。

「当時塩野谷家は、浅草に家を構えていた。しかし、東京大空襲で二人の姉妹以外は、近所にいた親戚も含めてみんな亡くなってしまった。二人も大火傷を負い、生死の狭間をさまよい続けて何とか命を取り止めたが、頼れる人は皆亡くなっていた。そんな時、岩手の遠い親戚筋にあたる遠藤五平さんが、塩野谷家の再興に力を貸したんだ。まあ五平さんというのは、当時の岩手でかなりの財力をもった人物でもあったからな。その五平さんには息子がいたが、五平さんより早く他界した。だから孫に当たる道徳氏がその後を引き受けたという事だ」

「なるほどね」

「おお、そうだ忘れてた。もし今後、塩野谷家から連絡があったら、必ずわしに連絡しろよ。絶対に自分一人で引き受けるなよ」

「なんで?」

「わしらは中立でなければならない。こっちにその気がなくても、どちらかに肩入れしたと思われると、それだけで話がこじれる事がある」

 個々に会ってしまうと、他の家族にいらぬ懐疑心を抱かさせることになりかねない。だから、塩野谷の案件は塩野谷家でしか聞かないし、話さない。そうすれば少なくとも自分の訪問を、他の家族も目にする事が出来ると考えたのだ。

 もっともその後どんな話をしたのかについて、家族間で会話がされるか否かまでは関与できない。それが源次郎なりの線引きでもあった。

「俺のところに連絡なんて来るとは思えないけれど、あったらすぐに知らせるよ」

「ああ、それだけは絶対に忘れるな。わしも用件は電話じゃなくて、必ず塩野谷家に赴いて受けることにする」

「必ず出向くの? 徹底しているね」

「隠れて話し合っていたとか思われたら、無用な誤解を招くからな」

「そういうもんなんだ。どっちにしても四日後にまた会うのか。今から湯鬱だよ」

「こういう揉め事も、社会勉強だと思って付き合えばええ」

「ったっく。人を巻き込んどいて、よくそういう台詞が出てくるね。流石弁護士だ」

 諦め顔の新人に、源次郎は笑いながら言った。

「ハッハッハ、伊達に人生七十二年もやっとらんからな」


      十四


 夕食後の塩野谷家。結愛はいつものようにリビングのソファで、ジョージの切り絵を読んでいた。何度も繰り返して読んだため、表紙の角がボロボロになっている。

 それでも結愛は、目を輝かせながら読んでいる。ページを捲る度に笑顔になったり、ドキドキ顔になったり、時には悲しそうな顔をしたりと、そこまでこの絵本に感情移入が出来るのは『実の母親』が残した絵本だからかもしれない。

 そんな結愛の姿を見る度に、朱里は嫉妬に近い感情に支配されそうになる。がしかし、その直後には、そんな感情を抱いた自分を否定し反省する。そんな事の繰り返しだった。

 そして必ずあの日の記憶が甦る――

 塩野谷家に嫁いでまだ日が浅い頃。結愛が幼稚園へ行っている間にリビングの片付けをしていた朱里は、表紙が汚れている絵本を見付けた。結愛がよく読んでいる絵本だとは知っていたが、物語の内容は知らなかったので、一冊を手にしてみた。中も所々が折れ、汚れがある。

 この絵本が結愛にとって、どれ程大切な物なのかを知らなかった朱里は、この汚れた六冊の絵本を捨てようと、他の古雑誌と一緒に紐で縛って、翌朝のゴミ出しで捨てるつもりで玄関に置いたのだった。

 それだけではない。朱里は、一緒に出掛ける良い機会だから、新しい絵本を買ってあげよう、と本気で考えていた。そして、どこに買い物に行こうか想像を膨らませて、浮かれた気分になっていた。

 実の親子でないことに対する気後れから、どうやって結愛と関わっていこうかと、思い悩んでいた時でもあった。

 しかし、幼稚園から帰ってきた結愛が、玄関脇に置いてあった雑誌の中からジョージの切り絵を見付けると、いきなり大声で泣き叫んだ。普段は滅多な事で動じない朱里も、この時ばかりは動揺を隠せなかった。

 そしてなかなか泣き止まない結愛に、朱里は謝り続けた。新しい同じ絵本を買ってあげるからと言っても泣き止まず、結局落ち着いたのは、夕飯の準備に取りかからなければならない時間を大幅に過ぎた頃だった――


 そんなことを思い出しながら、朱里は食器を洗っていた。あの絵本は、実の母親からの最後のプレゼントだった、ということを後で龍一から聞かされた。

 他に代用の効く代物ではなかったのだ。

 しかし、別にこの一件があったからと言って、結愛との関係が悪くなったということは無かった。朱里も結愛もぎこちなさは残るもが、確実に母娘になりつつある。朱里はそう感じていた。

 朱里は結愛を寝かしつけると、今夜は遅くなると連絡があった龍一を、リビングで待つことにした。

 一人でリビングにいると、冷蔵庫にあったワインのことを思い出した。決して高価なワインではなく、スーパーで安売りしていたワイン。コルクを抜きグラスに注いだ。

 銀座でホステスをやっていた頃は、一本数万から数十万円するワインを平気で口にしていた。もちろん、気前の良さと下心を兼ね備えた客から貰うことがほとんどだったが、それはそれで、ワインの味が分かるようになったと自負している。この安売りワインはどうだろうと一口飲んだ。

「ふーん、悪くないわね」

 一杯目のグラスをあけた。上機嫌になり二杯目を注ぐと、目線の高さでグラスをくるくると回して微笑んだ。

 すると、ワインの涙で滲んだグラス越しに、あの絵本の表紙が目に留まった。朱里は少し躊躇ったような表情をしたが、グラスを置くと立ち上がり、ゆっくり本棚の前に歩寄った。

 絵本にそっと手を伸ばしたが、触れる直前で手を止めた。

 あの日以来、この絵本には触れていなかった。いや、触れないようにしてきた。洋子の思いが詰まったこの絵本を避けてきたのだ。鼓動が大きく波打ったが、それでも意を決して絵本を手に取ると、繁々と見つめた。

 全六冊からなるこのジョージの切り絵。最初の一冊目は、今から八年前に発売されたものだ。それから年に一冊づつ出版されて五年後、今から三年前に最後の六冊目までがそろった事になる。

 そしてあの二年前に比べて、さらにどの絵本もボロボロになっている。それでも結愛は大切にして、楽しそうに読んでいる。

 朱里は椅子に座り、ゆっくりと絵本を開いて読み始めた。

「この切り絵が風に飛ばされて、冒険に出るのね」

 主人公のジョージが作ったとされる切り絵が、挿絵として印刷されていた。サッカー選手がボールを蹴っている躍動感ある絵だ。

 朱里は次第に物語に引き込まれていった。

 切り絵を最初に拾ったのは妊婦だった。そしてその切り絵をお守りとし、無事に女の子を出産した。するとその出産を見届けるかのように、切り絵は風に飛ばされていった。

 二冊目で切り絵は、もうすぐ幼稚園に入園する女の子に拾われた。母と娘の二人暮らしで、様々な事情を抱えてながらも、現実と向き合って生きていく展開になっていた。

 この絵本は、このように切り絵の目線で物語りが語られて、一冊一冒険で完結している。

 三冊目では、小学校に入学する女の子の手に渡り、四冊目では思春期の少女の元で、受験やいじめと言った問題に直面する話になっている。

 どこにでもある家庭の問題を取り上げた話だったが、切り絵は拾われた先々で大切にされながら、徐々に人の心が宿っていく。

 そして四冊目には、別の切り絵があった。一冊目の切り絵以外では、これが初めてだ。

 波打ったような模様の上に、カモメのような鳥が飛んでいる。これは海をイメージした挿絵だろうと朱里は思った。

 そして五冊目。結婚を間近に控えた女性の元へと切り絵は渡って行く。朱里は読む手を止め、表紙や裏表紙を見た。

 四冊目以降、どことなく作風が変わったように思えたからだ。しかし、作者は結愛の母、新田洋子のままだ。

 気のせいか……。

 再び読み始めた。結婚を控えた女性の、幸せや悩みが上手に表現され、そんな女性の背中を押すのが、切り絵の役目となっていた。幸せなゴールを見届けた切り絵の冒険は進み、朱里は六冊目を手にした。

 様々な人の手に渡り、手にした人に勇気を与えた切り絵だったが、今回は切り絵を拾った女の子の母親が、切り絵を捨ててしまうという展開だった。

 朱里は衝撃を感じた。二年前に自分がしたことを今も責められている。そう思わざるを得なかった。朱里は、絵本を閉じた。

「いつまで私を苦しめるのよ。いい加減にして……」

 そんな台詞が口から出たが、すぐにそんな自分を叱咤した。

「違う……。私もここから前に踏み出さないと」朱里は絵本を開き、読み出した。

 捨てられた切り絵は、ホームレスの男性に拾われた。これで少しホッとして先に進むと、また一枚の切り絵があった。

 一目で『母親と娘の後姿』とわかるシルエットだった。きっと切り絵を拾った女の子と捨ててしまった母親だろう。こうやって挿絵にしているということは、この先の話は良い方向に向かうのだろう。

 朱里の予想通り、拾われた切り絵は路上で古い雑誌と一緒に売られていた。そこに一人のビジネスマンが通りかかって足を止めた。

 マイケルという名のサラリーマンだったが、男性からその切り絵を買い取ると、どこで手に入れたのかを尋ねた。

 更にマイケルは、様々な人に切り絵の事を尋ね歩き、切り絵が来た道を辿ると、ついに切り絵と共にジョージの元へとやって来た。

 そしてこのマイケルは、ジョージの生き別れた本当の父親だったということが明かされて、親子の再会というハッピーエンドで物語は終わった。

 そして最後のページには、片手を上げた男性のシルエットの挿絵があった。


 子供向けの絵本にしては、内容が難しいのではと思いながら、そんな絵本を結愛はいつも読んでいるのかと感心した。

 自分も何か結愛に残せるものがあるだろうか? そう考え出したとき、龍一が帰ってきた。少し涙目になった朱里は、お帰りの言葉よりも早く龍一に抱きついた。




   続く

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