第一章 手まり唄
双子のお婆ちゃんが引き起こす騒動をミステリー小説として書きました。
一
千葉県北西部に位置する鎌ヶ谷市。ここに江戸時代より代々梨園を営んできた塩野谷という一家がある。
所有する梨園は1㌶以上の広さがあり、その一角に構えた『庭園』には老舗旅館を思わせる二階建ての『母屋』と、それに隣接して『洋館』が建てられていた。さらに庭園内には平屋の『離れ』も建てられている。
この離れは南向きに和室が三部屋並んだ造りで、各部屋の南側には障子を隔てて渡り廊下があり、その外側には縁側が設けられていた。
その縁側の前で、七、八歳くらいの少女が、良く通る歌声で手まりをついて遊んでいた。
「うさぎの角はー、すいとうと。こちらにこんこん、この子にと。赤い子鬼の子、文交わし。ようよう考え、帰りを待つよに、したとさ」
おかっぱ頭のその少女は色白で体は細いが、その歌声は民謡の歌い手のように上手だ。
しかし、手まりには慣れていないのか、思ったようにはまりが手元に戻らず、その度にリズムが狂い歌も途切れがちになる。
そんな途切れ途切れの少女の手まり唄は、離れの中にも聞こえていた。
この離れには九十八歳になる双子のお婆ちゃんが二人で住んでいる。しかし、一人は離れの一番東側の部屋で床に伏していた。今その枕元にはもう一人のお婆ちゃんが、背を丸くして座っている。この双子のお婆ちゃんは一卵性双生児で、驚く程そっくりだった。
枕元に座っていたお婆ちゃんが、更に背を丸くして囁いた。
「そろそろお迎えが来るのかねぇ」
寝ていたお婆ちゃんが、うっすらと瞼を開いた。
「そのようだねぇ……。後の事はよろしく頼みますよ」
「わかっていますよ。どうせ私にもすぐにお迎えが来ますから、先に行って皆と待っていて下さいな」
「ええ。あの喫茶店で待っていますからね」
「それがいい。ふっふっふっ」
ふと目を見開くと、天井を見据えた。
「……面倒をかけるね」
「何を言っているのですか。どっちに早く迎えが来ても同じことですよ」
「そうでしたね。お迎えは神様仏様次第。くれぐれも、あの子が不憫にならないように、お願いしますよ」
「ええ、その為にやるのですから。ほら、また聞こえてきましたよ」
そう言って寝ているお婆ちゃんの胸の上に軽く手を置き、子守唄を聞かせるように、手まり唄に合わせて歌った。
「うさぎの角はー、すいとうと。こちらにこんこん、この子にと。赤い子鬼の子、文交わし。ようよう考え、話を聞くよに、したとさ」
そして歌い終わると同時に、穏やかな表情で息を引き取った。
二
スターウォーズのテーマ曲が流れる。
Xウィング・スカイファイターを操縦する周防新人は、敵の巨大宇宙船に対し友軍を率いて総攻撃を仕掛けた。
対する敵も戦闘機を繰り出し応戦してきた。新人達は数で圧倒的に上回る敵戦闘機の包囲網を、華麗な操縦捌きですり抜けると一気に巨大宇宙船に接近した。
何機残った? 新人が友軍機を確認すると、わずか数機しか残っていなかった。それでも意を決すると、平行して飛行していた仲間に『行くぞ!』と合図した。
しかしその瞬間、その友軍機が目の前で被弾し大破、宇宙の藻屑と消えていった。
新人は散りゆく戦友を敬礼で見送ると、スロットル全開で目の前の巨大宇宙船に叫びながら、ありったけの攻撃を浴びせた。
感傷に浸っている暇などない。
しかし突然、新人は光に包まれた。巨大宇宙船から粒子砲が放たれたのだ。
「畜生!」
粒子砲の光に包まれ、衝撃と共に激しい痛みを感じた――
見慣れた天井。ベッドからずり落ちている自分。その傍らではスマートフォンが振動しながら、スターウォーズのテーマ曲を奏でていた。
三
JR千葉駅。総武線・京葉線・成田線の三つの路線が乗り継いでいるこの駅のホームに、電車が到着した。ドアが開くと同時に、スーツ姿の周防新人は飛び出した。
やや長めで控えめの茶髪。ファッションモデルのような体型とルックスの新人は、軽快なフットワークでホームから改札口へと向かうエスカレーターを駆け上がった。
この時間に到着する電車に乗る客は少なく、ほとんどが降りるのだ。だから瞬く間に電車から吐き出された人々で、改札口まで埋め尽くされてしまう。だからその前に改札口を抜け出したかったのだ。
改札口を出て早歩きで道行く人々を避けながら、近くの八階建てのビルに入った。更にエントランスホール奥の階段を一気に三階まで駆け上がると、通路を直進した先にある扉の前でようやく立ち止まった。
息を整えながらネクタイを正し、スーツを軽く叩くと『千葉新聞社・社会部』と書かれた扉を開けると中へと入った。
「おはようございます」
扉を開けるとカウンターがあり、その奥が二十畳程のワンルームオフィスとなっている。
中央には六台の机が三台ずつ向かい合い、一つの島をつくっている。オフィス左側の壁際にはコピー機が置かれ、さらに職員のスケジュール表と月間予定表とを兼ねた、ホワイトボードが掲げられていた。
職員は全部で七人だ。上から編集長・橘慶介、副編集長・安西勝利、以下四人は記者で、鴨居宗助、三上いちる、田村美鈴、周防新人、木下夏美と書かれていた。
右側の壁には、スチール製引き戸付書棚が隙間なく並べられ、 入りきらなかった書類が書棚の前に積まれていた。
向かって正面は、今はブラインドが下ろされているが、一面総ガラス張りという造りになっている。
そのガラス張りを背にするように、一回り大きな机が一台こっちを向いて置かれていた。
机の上には『編集長』と書かれたL型プレートがあり、眼つきの鋭い痩せた中年男性がノートパソコンに向かって、忙しくキーを打っていた。
新人の声が聞こえなかったのか、編集長は見向きもせずにキーを打ち続けている。その代わり、不機嫌そうな女性の声で返事があった。
「おそよう」
入り口のすぐ右手には、衝立で仕切られたスペースがある。テレビにソファーとテーブルがあり、さらに給湯ポットやコーヒーサーバが置かれ、団欒用の休憩スペースとなっている。
声はそこから聞こえてきた。新人が衝立の奥を覗くと、コーヒーサーバーからコーヒーを注いでいる二十代後半の女性がいた。
「〝おはよう〟じゃないでしょ新人君。今何時だと思っているの?」
新人は直立不動で敬礼をした。
「み、三上先輩。すみません。昨夜遅かったもので……」
白いブラウスに紺の膝丈スカートからすらりと伸びた白い足。ミディアムロングのストレートをわずかに茶色に染めた髪。見た目は地味な印象だが、小顔で切れ長の目をした端整な顔立ちの美人だ。
三上いちるは、カップに注がれているコーヒーを見据えたままで、視線を向けようとしない。
「言い訳しないの。今日は何時もより早い出勤だと昨日言ったわよね? みんなもう打ち合わせを済ませて、取材に出ちゃったわよ」
「はあ……」
新人は振り返りスケジュール表を見た。確かに今このオフィスにいる三人以外には、それぞれの出張先が記入されていた。そして自分のスケジュール表の白さにも、最近ではすっかり馴れてしまった。
「君ねえ、もう入社三年目でしょ? 今年入ったばっかりの木下さんの方が余程しっかりしているわよ。そんな事だから何年経っても〝新人〟扱いなのよ」
「ははは。先輩、上手いッスね。そして手厳しい」
「ふざけないのっ」
いちるがようやく新人を見た。
「す、すみません」
怒った顔も悪くない――などという考えが顔に出ないよう、すぐに謝った。
「でも先輩。いつになったら僕の名前は〝しんじん〟から〝あらひと〟になるのですか?」
新人のことを『あらひと』ではなく『しんじん』と呼ぶのは、この三上いちるだけだ。
もっとも新人は、それで気を悪くしている訳ではない。いや、むしろ気に入っているくらいだ。
「それくらい自分で考えなさい。ったく、私は新人君の教育係なのよ。新人君の素行が直接私の評価になるんだから、手加減しないからね」
「はい……」
そんなやり取りをしている二人に、奥のデスクから声がかかった。
「おい三上、それと遅刻常習犯の周防、ちょっと来てくれ」
「はい。橘編集長」
いちるは即答し注いだばかりのコーヒーをそのままにして、新人の横をすり抜け足早に橘のデスクへと向かった。
すれ違い様にいちるの香りを感じた。
新人の幼馴染で恋人の吉岡翼は看護師という職業柄、ほとんど香水など付けない。だからという訳ではないが、新人もあまり香水は好きではなかった。
しかし、いちるが付けている控え目で上品な香り……いや、いちるが付けているから、この香りだけは好きになった。
入社六年目の三上いちるは、迅速機敏な行動力と取材能力の高さで上司や先輩記者からも一目置かれている。最近、政治部への異動を希望していると聞いたことがある。
新人は、いちるの後を一歩遅れて続いた。
痩せた頬に鋭い眼光を持った白髪頭をした編集長の橘は、かつては千葉新聞社政治部のエースと言われた男で、幾つもの汚職や贈収賄に関する記事をスクープして〝剃刀の橘〟と呼ばれ政財界から恐れられていた。
――周防。〝剃刀の橘〟の下で働くのは大変だろ?――
他の部署の先輩記者からよく言われるが、以前の橘を知らない新人には答えようがなかった。それに橘自身は社会部に異動してから人が丸くなったのか、噂ほどの怖さを感じた事がない。
「急な話で申し訳ないが、県内で昔から伝わる〝童謡や童話〟について記事にしてくれないか? そいつを特集として考えている」
「子供向けの特集ですか?」
「実は昨日の幹部会でな、千葉新聞創立三十周年に合わせて特集号を増刊することが急遽決まったんだ。それで社会部にも枠が回ってきた。そこで、地元に昔から伝わる童謡や童話を次の世代の子供達に伝える、という趣旨で記事にしたいと考えている。やってくれるな?」
「はい分かりました」
いちるは、即答で快活な返事をした。
「だが今回ちょっと時間がないんだ。だから周防は三上を手伝ってくれ」
「え?」
いちると一緒に仕事が出来ると思った新人は、嬉しさのあまりに返事が遅れた。そんな態度をいちるは誤解したようで、腰に手を当てると睨むような目をした。
「何よ、その返事は。私の手伝いじゃ不満な訳?」
新人は慌てて両手を顔の前で振った。
「そ、そんな事ないですよ。先輩の〝手足となって〟身を粉にして頑張ります」
いちるは冷やかな目で新人を見た。
「せいぜい〝足手まとい〟にならないようにお願いね。それで編集長、時間がないとおっしゃいましたが?」
橘は申し訳なさを表した。
「期限は一週間後の朝までだ。それまでに入稿出来る状態にしてもらいたい。やってもらえるか?」
「一週間ですか……」
いちるは左こぶしを軽く握ると、そのこぶしを自分の口元で軽くトントンと当てた。彼女が考え事をしているときの癖だ。
「編集長、それは無理ですよ」
いちるの横で、新人が答えた。
「まずこれから情報集めをして取材先を見付けたとしても、取材は相手の都合もありますし、それが済んだら文書にまとめて、文字責了や青焼き校正から面付けを判断する作業を一週間でなんて――」
「いえ、やります。編集長、その仕事是非とも私にやらせて下さい」
新人が言い終わるよりも早く、いちるが言葉を遮った。
「え? 先輩、正気ですか? 他にいくつも抱えてますよね?」
「難しいかもしれないけれど、やり方次第で不可能ではないわ」
「そうか、助かるよ三上。周防もちょっとは見習え」
「はい……」橘に言われ、新人は下を向いてしまった。
「そうと決まれば早速行動よ。まずは情報集めと取材先探し。新人君、早速検索して探すわよ」
「はーい」
「もっとシャキッとしなさい。シャキッと」
県内に伝わる童謡や童話について取材し、一週間という期間内に入稿までしなければならない。さっそく準備に取り掛かろうとしたが、いちるは取材で木更津に行くため、今は他に案件を抱えていない新人が、いちるの帰りまでに準備をすることになった。
いちるが手際よく支度をして出て行くと、新人は自分の席に着き雑用から片付け始めた。
この社会部で下から二番目に位置する新人の席は、出入り口のカウンター側で、今年入社したばかりの木下と向かい合って座っている。
新人の左隣がいちるで、いちるの前が新人より一つ先輩の田村美鈴の席だ。そしてデスク側に座るのは、ベテランの副編集長、安西勝利と、安西とコンビを組んでいる鴨居宗助という席順になっている。
受け持つ担当がないからといって決して暇なわけではない。新聞社である以上、朝刊と夕刊に載せる記事は、定刻までに仕上げなければならない。メールのチェックから始まり、庶務的な担当業務という〝雑用〟をこなしていると、あっという間に時間が経ち、昼過ぎになってようやく時間が取れた。
橘は午後から会議のため席を外したので一人留守番をすることになった新人は、とりあえずサンドウィッチを頬張りながら、県内の童謡や童話に関連するサイトを検索した。
新人はこれまで、童謡や童話に対して漠然としたイメージしか持っていなかったため、童謡や童話に子守唄や手まり唄も含まれるという事を、この時初めて知った。
「〝あんたがたどこさ〟なら誰でも知っている有名な手まり唄だな……この手まり唄は正式には肥後手まり唄といい、このような問答唄は幕末から明治初期に生まれたものである。しかし熊本弁ではなく関東弁が使われているので川越説もある……か」
新人は片っ端からサイトを検索しているうちに夢中になりすぎて、会議から戻ってきた橘に話しかけられるまで、その存在にすら気が付かなかった。
「その集中力を普段から出せればいいのにな」
「え? あっ、編集長。戻られていたんですか? あっ、もうこんな時間。ついつい童謡や童話そのものの検索に夢中になりすぎて、肝心な取材先をまだ見つけていなかった」
「まあ、そう慌てるな。そもそも童謡や童話とは何か、を知らなきゃ取材なんて出来ないだろ? 取材には予備知識が必要不可欠だからな」
「そうですよね」
取材先を探すのと平行して、昔から伝わる童謡や童話にまつわる話を調べていると、いつの間にか外が暗くなっていた。そして退社時間を過ぎた頃になって、いちるが取材先から戻ってきた。
「ただいま戻りました」
「おう、お疲れ。先方はどうだった?」
「はい、明日の分も含めて、すべて終わりました」
「もう済んだのか? さすがだな」
「ありがとうございます。すぐに原稿に取り掛かります。でもその前に、これいかがですか?」
いちるは手にした袋を二人の前に差し出した。
「何ですか? あっ、もしかして」
いちるの手にした袋のロゴを見て、新人はピンときた。
「二人とも食事まだだろうなと思って、駅前の〝大好き屋〟で買ってきました」
「おお、さすが気が利くな。ちょうど腹ペコだったところだ。どれ遠慮なく頂こうか」
駅前テナントビル一階にある牛丼屋『大好き屋』は、五十代の夫婦が切り盛りしている個人経営の店だ。その味は口コミで広がる程で『たかが牛丼、されど牛丼。一度食べたら忘れられない牛丼!』という店のキャッチコピーは決して誇大ではなく、実際に大勢のリピーターが常連客として通っている。
いちるが湯飲みにお茶を入れてきた。待ちきれない新人は「頂きます」と言うと同時に蓋を開け、微かに上がった蒸気を一気に吸い込んだ。
「子供かっ」いちるのツッコミに橘も珍しく笑い、それぞれが箸を進めた。
「それにしても今日一日で取材が済むなんて、流石だな。予定では明日もあったんだろ?」
「ええ。それは先方のご理解があったおかげです。予め色々と準備をしていただいてくれて、本当に助かりました」
「でも二日間の予定を一日で済ませるなんて、本当にさすがですね」
新人はお世辞じゃなく本心から、いちるを尊敬していた。
「別に早ければ良いというものではないわよ。記者にとって大事なのは、十の取材から十以上の結果を持って帰ることなんだから」
「ほう、三上もずいぶん頼もしくなったな。俺からも政治部へ推薦しておくぞ」
「ありがとうございます」
「でもそうなると問題が一つある」
「なんですか?」
「こいつの面倒を誰が見るのかという問題だ」
橘といちるの冷たい視線が新人に刺さった。
「ぼ、僕ですか? やだなぁ。僕だって先輩に三年も鍛えらたんですよ。それにもう独り立ちしているも同然じゃないですか。ねえ?」
いちるは大きくため息をついて、首を横に振った。
「全然だめ」
橘も深く頷いた。
「同感だな」
「ははは……」
新人はひきつった笑い顔のまま固まった。その時にふと、以前からいちるに聞いてみようと思っていた事を思い出した。
「そう言えば、どうして三上先輩は政治部を希望しているんですか?」
「ん? そうね……」
いちるは箸を置き、やや俯いたが、真剣な眼差しになった。
「権力者達の不正を見逃したくないから、と言えば格好つけ過ぎだけど、でもそれが一番の理由よ。権力を持つ者を厳しい目でチェックして、不正を暴いて弱きを助ける。それもマスコミの役割だと思うの」
「やっぱ格好いいッス、先輩」
「そう、ありがとう。でも感心ばかりしてないで、新人君はどうなの? 一体どういう記者になりたいの?」
「それは俺も聞いてみたいな」
橘も興味があるようだ。
「いや、どういう記者というか、今はとにかくやらなきゃいけない事を全力で頑張っていくしかないです。記者としては、正しい情報を迅速に伝える事が使命だと思っています」
「何だそれは? まあお前らしいと言えばお前らしいが」
「そうですね、でもそうやって頑張っていれば、そのうち見付かるんじゃないかな。自分の進むべき道が」
「ですよね? 自分でもそう思います。あっ、ところで編集長はどうして社会部へ」
「俺か? そうだな。二人の話を聞いといて、自分の事を話さないのはいかんな」
二人とも箸を置いたので、橘は付け加えた。
「そんなに畏まるな。食いながら聞き流してくれればいい。ほら、食え」
とりあえず箸を進めた二人に、橘はゆっくりと話し始めた。
――子供の頃から橘は『政治とは何か?』を考える少年だったそうだ。そして権力者達が口にする自由や平等などという言葉は、世間一般のそれと大きくかけ離れているものだと悟っていた。
橘が十一歳のとき。日本を、いや世界を揺るがす政界の汚職事件が起きた。ロッキード事件だ。そのころ大人に対する一種の憎悪を抱いた橘はこの事件が切っ掛けで、政治と言う世界に蠢く何かを垣間見たような気がしていた。
だが、そんな感情は抑え込み、周囲と変わらぬ行動を取るように務め、何事もなく学生生活を送り普通のサラリーマンになった。
しかし、社会人一年目の年、またしても日本を騒然とさせた汚職事件、リクルート事件が起きた。その時、加熱する報道と溢れ過ぎる様々な情報の波によって、彼自身の正義がようやく眠りから覚めたのだ。
当時勤めていた会社を辞めると、フリーのジャーナリストという肩書きで、事件の真相を暴こうとした。
そんな橘に風当たりは強かったが、様々な壁にぶつかりながらも一筋の光る糸を手にして手繰り寄せ、別件ではあったが大物政治家の贈収賄の証拠を掴み、大々的なスクープに成功した。橘はこの時『新聞記者は歴史の第一人者だ』という言葉を実感したという。
そして独自の視点で切りかかる取材方法から『剃刀の橘』という渾名がついたのだ。
このとき、全面的に橘をサポートしていたのが、今の千葉新聞社社長の黒磯健吾で、社長に就任した黒磯に重役に就くよう勧められたが、橘はこれを辞退した。そしてより見識を深めたいと政治部から社会部への異動を申し出たのだった――
「二人とも、なんか格好いいッスね」
「そう思うなら、早く目標を見付けろ」
「そうよ。がむしゃらにやってみないと、何も見付からないわよ」
「はい。頑張ります」
橘の話してくれた内容は、新人が当時テレビとかで見たことのある話だった。そんな事件解明の一翼をこの人は担っていた……。そう思うと何だかとんでもない話を聞かされたようで、新人は一人興奮が覚めなかった。
気合いを入れ直して取材先の検索に入り、ようやく探り当てたのは、鎌ヶ谷市内で童話作家等が集り組織した『太陽の会』という民間の出版会社だった。
この太陽の会は、所属している童話作家らが作った作品を出版する他にも、全国各地に昔から伝わる童謡や童話を研究しているらしい。
もう遅い時間だったが、電話をして取材をしたい旨を伝えた。すると、突然の話にも拘らず明日の午前中に取材が出来ることになった。
「よっしゃー。先輩、鎌ヶ谷に〝太陽の会〟っていう童話などを主に扱っている出版社があって、さっそく明日の午前に取材出来そうです」
いちるが手を止め新人を見た。
「そうなの? 良かったじゃない。あ、でも明日の午前か……」
「何か都合が悪いのか?」
橘も手を止め、ディスプレイから視線を向けてきた。
「はい、すみません。今日順調に片付いたので、明日の午前に別の取材を前倒しで入れてしまいました。ですから明日は朝一で富津の方へ行かないと」
新人は振り返ってスケジュール表を見た。確かに明日、いちるの予定には富津へ出張と書かれていた。帰ってきて直ぐに記入していたのだ。
「そうか、それなら仕方がないな」
いちるは軽くうなずくと、新人を探るような目で見た。
「な、なにか?」
いちるに見つめられ、新人の鼓動は急に早くなった。
「新人君ってさ、今まで一人で取材したことあるわよね?」
「も、もちろんですよ」
当然だと言わんばかりに新人は胸をそらした。
「だが、記事として扱われたことは一度もないよな?」
橘が釘を刺す。
「はい……」
「安西と鴨居は引き続き福岡だし、田村は静岡、木下は大阪へ出張だろ? 時間もないし先方の都合もある。おい、周防」
「はい」
「今日はもう仕事を切り上げていいぞ。その代わり、今からの時間は全て童謡や童話の勉強に使え。そして明日の取材はお前一人で行ってこい」
「は、はいっ」
突然の単独取材を命じられた新人は、その場で直立不動になり、敬礼をした。いちるはそんな様子を見て吹きだして笑い、橘はやや呆れた表情で付け加えた。
「でも、もしショボい取材なんかしてきたら、どうなるかわかってるよな?」
「え? ど、どうなるんですか?」
「給料が半分になると思え」
「そ、そんなぁ」
「だったら今から必死になって勉強して、きっちり取材してこい」
このあとすぐに、新人は同じフロアにある資料室に立て籠った。この資料室はちょっとした図書館並みに書籍が揃っていて、職員なら誰でも利用できる。新人はその中から、明日の取材に必要な童謡や童話に関する書籍を選び出し、予備知識を詰め込んだ。