モノクローム
白と黒しか、色がない世界。
まばらに歩いている人も、きらきらとした街の灯も、闇から光に変わっていく空も……ビルの屋上からる景色の、どこまでも。
あたしの目には、その全てがモノクロに映っていた。
「はあ」
フェンスに寄りかかって、ため息を一つ。
「なーにやってるんだろうねー、あたしは」
苦笑いしながら、足をぱたつかせてみる。
足の下は、ビルの谷間。
吸い込まれそうなほどの真っ暗闇を、風の音が通っていく。
「退屈なのは変わらないし」
こうやって、ただジタバタして――
「どうせ、誰も話す人なんていないのにねー」
愚痴ることしか、今のあたしには出来なかった。
誰にも聞こえることのない言葉。
こんな高さから、聞こえるはずもなく。
あたしがいる世界の外に、聞こえるはずもなく――
「こんなところで、聞いてる馬鹿がいるはずもなく」
「聞こえてんぞ、コラ」
声がした方を振り向くと、目つきの悪いお子様がこっちを睨んでいた。
「あっ、囚人さん発見」
「誰が囚人だ、誰が」
うーん、両手でフェンスを掴んでるのを見ると、囚人さんっぽいんだけど。
「人のこと散々振り回しやがって、よく余裕ぶっこいてられるな……」
肩で息をしながら、お子様はあたしのほうに乗り出してきていた。
「しょうがないでしょー? 君、すっごくしつこいんだもん」
「当たり前だろが。お前を連れて行かないといけないんだからな」
「なんで行かなきゃいけないのさ」
「なんでって、それが俺らの決まりなんだからよ」
「決まり、ねぇ」
「ああ」
さも当然っていう風に、腕を組んでうなずくガキんちょ。
うーん……
「決まりっていうのはねー」
お子様には、ちゃんと教えてあげないと。
「守るものじゃなくて――」
そう言いながら、あたしはヤツのおでこに指をやって、
「破るものですっ!」
びしっと、思いっきり弾いてみた。
「ぎゃっ!」
あははっ、効いてる効いてる。
「じゃ、ばいばーいっ」
「ま、待てこのやろっ!」
あたしはそいつに手を振ると、屋上の縁に足を乗っけて、
「それっ!」
白み始めた空へと、思いっきり飛び出した。
*
目が覚めたときから、あたしはずっとこんな風に生きてきた。
いきなり空にほっぽり出されて、翼もないのにふわふわ浮いているだけ。
何をすることも無く、誰にも見えないからいろんなところに入って、いろんろな話を聞いて、そんな日々の繰り返し。
それが、あたしにとっての全て。
「よっと」
ゆっくりと、木の上に下りる。
スカートがふわっとめくれたけど、どうせ誰にも見えないから気にしない。
ぱんぱんとスカートを整えてから、あたしは枝に腰掛けた。
音もしないし、枝も動かない。
空を見上げてみると、ここからはまだ暗い闇のまま。駅前の広場には、まばらにふらふら歩いている人がいるだけで、白い空のときとは違ってほとんど何も動いていない。
――夜明け前、だっけ。
誰かがどこかでそんなことを言っていたのを、ふと思い出す。
「こんなの見てて、つまんなくねーのか」
「ぜーんぜん。おもしろいよ?」
木の下からの声に、わざとらしく応えてみる。
「はぁ……まったく、人のこと散々コケにしやがって」
「しつこいね、君も」
「誰かさんが言うこと聞かないからな」
「見ず知らずの人についていっちゃダメって、がっこーの先生が言ってた」
「誰が見ず知らずだよ、誰が」
「だって、知り合いじゃないじゃん」
そう言って、木々の間から声のほうへと顔を出す。
「ただ、あたしのことが見えるってだけで」
「まあ、そりゃそうだけどな」
ガキんちょはため息をつきながら、あたしのことを睨み付けていた。
「でも、それだけで十分だろ」
「あたしには十分じゃないもん」
「ったく、ああ言えばこう言うな」
花壇を蹴って、乱暴に座るガキんちょ。
あたしは枝から離れると、その子の隣にふわっと降りた。
「……?」
「ん? どしたの?」
「いや、逃げないのか?」
不思議そうに、あたしの顔を見るガキんちょ。
「あー」
そんなガキんちょに、あたしはにっこり笑って、
「飽きた」
正直に言ってみた。
「あのなぁ」
頭を抱えて、ガキんちょはまたため息をつく。
「ほらほら、落ち込まない落ち込まない」
「誰のせいだ、誰のっ!」
「まあまあ」
んー、からかいがいのある子だわ。
あたしは笑いながら、ガキんちょの頭をくしゃくしゃっとした。
真っ黒な髪の毛と、黒い瞳。
それと、なんていうのかなぁ。
「えいっ」
「いてっ! って、なにするんだよっ!」
「いや、ほらね」
ガキんちょのほっぺをつねった手を離して、今度はそっと両手で顔を包んでみる。
「これが『色』なのかなって」
そう。
ガキんちょの姿は、鮮やかだった。
白と黒の、二つしかない世界のはずなのに。
「やっぱり、俺の事がちゃんと見えてるのか」
「ちゃんと見えてるって?」
「『色』って言ってたからさ」
「うん、なんか……きれい、っていうのかな」
黒いのは、髪の毛と目だけ。
ガキんちょが着ているものも、腕も、足も、顔も、「がっこー」で言ってた「色」みたいのがついていた。
「まあ、そうじゃないとこっちも困るわけだが」
「困る?」
「ああ」
そう言うと、ガキんちょはあたしの手をとって、ぎゅっと握った。
「一緒に来い」
「ていっ」
「ぐぁっ!!」
握られた手を振り上げて、ガキんちょのアゴにぶつける。
「ま、また何するんだよっ!」
「君ねー、そういう言い方はないんじゃない?」
「だ、だってしょうがないだろ!? 一緒に来て欲しいんだから」
「だったら、理由ぐらい言いなさいよ」
「理由、か」
ガキんちょが空を見上げて、ひとつ息を吐く。
「お前さ、もう一度生まれ直す気ってあるか?」
「生まれ直す?」
「そう」
よいしょっと、ガキんちょが腰掛けた花壇から降りる。
「ずっと、お前はここにいたんだろ?」
「知ってるの?」
「俺も、同じようなもんだし」
「同じようなもの?」
「そう。生まれることができなかったってヤツでさ」
苦笑して、自分の事を指さす。
「生まれることができなかったって……」
そんな……
「あ、気にすることは――」
「……もったいない」
「へ?」
間抜けな声を出したガキんちょのほっぺたを、またふにふにとつまむ。
「もったいないよ、こんなかわいい子が生まれてこなかったなんて!」
「か、かわいい!?」
「うん、かわいい」
「いや、俺、自分の顔とか見えないからわからないけど、そうなのか?」
「ま、あたしの中ではだけどね」
「あてになんねー基準だな」
「失礼だね、君も」
「お前なぁ」
あたしがほっぺをぷうっと膨らませると、ガキんちょはまたため息をつく。
「だめだよ。ため息をつくと幸せが逃げちゃうってどこかで聞いたし」
「お前のせいだろがっ! お前の!」
「ほら、怒ったらもっと逃げちゃうよ?」
「だーかーらーっ!!」
ホント、このガキんちょってば短気なんだから。
「まあ、冗談はこれくらいにして」
「最初っから言うなよ」
「まあまあ」
ゆっくりと、ガキんちょのことを見上げる。
ちょっと怒ってるけど、やっぱりガキっぽくて。
そんなガキんちょを見ていて、あたしは飽きなかった。
「でも……」
だからこそ、思い知らされる。
「生まれる前に、だめになっちゃったってことか。あたしも、君も」
お互いの身体が、ここにはないってことを。
「そういうこと」
さっきまでのじゃれ合いが嘘みたいに、重い声。
「でも、どうして知ってるの? あたしがそういう風になったって」
心にふと生まれた疑問を、それとなくぶつけてみる。
「それが、俺の仕事なんだよ」
「ガキんちょに言われても、全然説得力ないんだけど」
「うるせーなっ! それ言ったら、お前だって同じだろうが」
「それは、そうかもしれないけどさ」
そう。
ガキんちょガキんちょって言ってるけど、立ってみるとガキんちょのほうが背が高く見える。
「こう見えても、もう何十年もこの仕事やってるからな」
「お仕事って、こういう風に人を追いかけることが?」
「だから違うっ!」
ガキんちょは身を乗り出して、顔の間近で怒鳴った。
「生まれて来れなかった奴の魂を、別の身体に斡旋するっていう仕事だよ」
「あっせん?」
「さっき言っただろ? 生まれ直すって。つまり、新しく生まれてく魂の入れ物――まあ、『赤ちゃん』って奴だな。それに、さまよってる奴の魂を案内するってわけだ」
「そんなの、初めて聞いたけど」
「ほとんどの奴は知らないさ。俺たちは、生まれ直す奴をすぐそこへ連れていくんだから」
言われてみれば、あたしと同じように身体が透けた人たちと会っても、すぐにいなくなっていった。
「だから、みんなどんどんいなくなっていったのか」
「そういうことだ。もっとも、お前みたいに長くいた奴はかなり珍しいけどな」
「珍しい?」
「ああ。お前の場合は特殊っていうか……まあ、とりあえずついてくればわかるさ。どうだ? 来てみるか?」
「興味があるといえば、あるんだけど……」
「けど?」
「その……先に誰かがいるとか、そういうのってないの?」
「ああ、心配ない。ひとりの『赤ちゃん』に用意されてるのは、一つの魂だから」
「そうなんだ」
「で、どうする? 行ってみるか?」
静かに笑って、ガキんちょがあたしに手を差し出す。
「そうやってる時点で、選択権は無いと思うんだけど」
「一応、希望は聞いておかないとな」
むぅ、生意気な。
一瞬そう思ったけど、むしろ可愛らしくも感じられたあたしは、
「じゃあ、案内してくれる?」
その差し出された手を取って、同じように笑ってみせた。
「ああ、わかった」
ガキんちょが頷くと、あたしの体ごとふわりと浮かんでいく。
そのまま高く舞い上がって、視界を遮るものが無くなったところで水平方向へと飛び始めた。
目の前に見えるのは、黒よりも白が多くなってきた空。
まるで闇を溶かすように、光がどんどん広がっていって……吸い込まれるような錯覚に襲われる。
前を行くガキんちょの透き通るような姿も、まるで光っているかのよう。
――「色」があるだけで、こんなに綺麗なんだ。
初めて見る光景に、あたしは思わず見とれてしまっていた。
「そろそろだな」
「えっ?」
可愛らしい唇が動いたと思ったら、ガキんちょは少しずつ高度を落としだした。
その先に見えるのは、大きな建物。だけど、ほとんどの窓には灯りがついてない。
「ここなの?」
「ああ」
小さく頷いて、そのまま突き進むガキんちょ。あたしたちはそのままガラスを通り抜けて、部屋の中へと入っていった。
「よっと」
「えっ!?」
そこは、ベッドが置いてある真っ暗な部屋。
「まあ、そういうわけだ」
ここにいるのは、優しく笑うガキんちょと、
「……すぅ」
ベッドの上で眠る人。
「うそ」
二人の顔を見比べるうちに、あたしの体が震えていた。
「どうして……この人にも『色』があるの?」
ガキんちょと同じように、ベッドで眠る人の顔にも『色』があったから。
「ね、ねえ。この人も、あたしたちのお仲間さんなの?」
「あー、違う違う。さっき言っただろ? 赤ん坊がどうこうって。そのお腹のなかに『赤ちゃん』がいるんだよ」
「これが……」
「ああ。平たく言えば『母親』になってくれる人だ」
「そうなんだ」
返事しながら、あたしはその人の顔を覗き込んだ。
深く閉じている目に、少しだけ開いた唇。
そこから聴こえる、呼吸音。
――ああ、ほんとだ。
この人は「生きて」いるんだ。
あたしたちができないことを、この人はできるんだ。
「この人の子供に、あたしがなるっていうこと……なの?」
「まあ、そうだな。身も心も、この人の子供になる」
こうして喋っている途中でも、この人から目を離すことができない。
どうしてなんだろう。
「あたし、この人のこと知ってる気がする」
「そりゃそうだ。もっとも、向こうは全く知らないがな」
「どういうこと?」
「当たり前だろ。俺たちゃ、生まれて来られなかったんだから」
「ああ……そっか」
「ほとんどの人間は、生まれてこられなかった身体はともかく、魂のことまでは知らないさ。俺なんかよりずっと長くお役目をやってた人は、そう言ってたな」
「なんだか、人間って薄情なんだね」
「しょうがないさ、そういう生き物なんだから」
そう言って、お互い苦笑する。
「それでも、こうやってまた生まれるチャンスはあるわけだから……幸せっていえば幸せな生き物なのかもな」
「……うん」
こうやって引き合わせて貰えるだけ、幸せなのかもしれない。
この人の寝ている顔を見ていたら、そんな思いが浮かんだ。
「だけど、いいのかな」
「何が?」
「あたしが、また生まれても」
「当たり前だろうが。じゃなかったら、こんなところ連れてこねーよ」
「だったら」
あたしは、ガキんちょのほうを振り向いた。
「だったら、君は?」
「えっ?」
「君は、また生まれなくてもいいの?」
「しょうがないさ。俺の順番は、まだまだ先みたいだからな」
「先って……」
「そういう決まりなんだ、しょうがない」
あたしの言葉に、きっぱりと言ってみせるガキんちょ。
「まったく。ガキんちょのくせに、大人っぽくしちゃって」
「この世界に長くいれば、お前がいろんなことを知っているように嫌でもそうなるさ。それに、待つのには慣れてる。同じ境遇の奴はいっぱいいるし、退屈はしないさ」
「それは言えてるかも」
今までに会った子たちのことを思い出して、あたしは思わず笑った。
――その時だった。
「……うっ」
「えっ?」
女の人のうめき声と一緒に、その人の身体が光り出す。
「始まったな」
「ど、どういうこと?」
「あうっ……あぁぁぁぁぁぁっ……」
お腹を抱えるように、女の人が自分の身体を力強く抱きしめる。
「『生まれる』んだ」
「生まれる?」
「ああ。そして『生まれ直せる』時間だ」
「これが……」
あたしたちが話している間にも、お腹の光は強くなっていく。
「で、でも、時間ってどうすればいいのさ」
「問題ない。この光がお前の姿を認めてくれれば、それでいいんだ」
「それだけ?」
「ん、それだけ」
「なんだか、あっけなくない?」
「人間ってのは、生きる時も死ぬ時もあっけないもんだ」
「そっか……でも」
「ん?」
あたしはガキんちょに向き直って、
「今度は、ちゃんと生まれないとね」
そう、にっこり笑ってみせた。
「そうだな」
ガキんちょも、にこっと笑う。
「また、会えるといいね」
「俺はてめーみたいなじゃじゃ馬に会いたくない」
「ううっ、そんなこと言わないでよ」
いたずらっぽく笑うガキんちょのおでこを、軽くはじく。
「冗談だって、冗談」
「あははっ」
「まあ、てめーの弟になったら苦労しまくりなのは確実だがな」
「ちょっとー!」
そんなことを言いながら、笑い合うあたしたち。
その間にも、光の粒が少しずつあたしの身体に絡まっていった。
「……そろそろ、ほんとに時間かな」
「そうだな」
ガキんちょの姿が、光のせいでだんだん見えなくなっていく。
「最後に、言っておきたいことでもある?」
「言っておきたいこと、か」
ガキんちょはちょっと考えるようにした後、そっとあたしの耳元にくちびるを寄せた。
「――――」
「えっ」
その呟きを聞いて、思わずガキんちょの顔を見直す。
「あははっ」
まるでイタズラに成功したような、ガキんちょの笑顔。
最後にそれを見た瞬間、あたしは溢れ出る光に包まれていった。
――妹に、よろしく。
――もう一人の妹へ。
『お兄ちゃん』の言葉を、心にしまって。
*
風で、カーテンがゆっくりなびく。
その隙間からこぼれる陽の光が、この白い部屋を明るく照らす。
苦しみから解き放たれたあたしに、それが安らぎをもたらしてくれた。
――思わず、うとうとしそうなぐらい。
白い籠。
白い毛布に包まれた、小さな赤ちゃん。
あれから、二十年ぐらい。
やっと、生まれてきてくれた子。
小さく息を吸って……小さく、吐く。
血の通った肌が、この部屋には鮮やかだった。
ああ。
生きてるんだね。
あたしも、この子も。
苦しんだからこそ、そう思う。
苦しんだから、あたしがいて、この子がいる。
そう思えば思うほど、あたしはこの子が愛おしくなる。
――ごめんね。
あたしは一言つぶやいて、女の子をそっと抱き上げた。
――ずっと、待たせちゃったね。
――『お姉ちゃん』。