1-02. 仕事納め
近所のコンビニで惣菜パンを買って、会社に戻った。
まだ昼休みは終わっていなかったが、パンをほおばりながら、エクセルのデータをチェックする。
なんだか数値がおかしいな。……ああ、やっぱり。セルの数式が壊れている。
「何、弁当やめたの?」
給湯室から戻ってきた同僚が、デスクにカップ麺を置いて話しかけてきた。
たぶん、数式を壊したのはこいつだなと思ったが、黙って打ち直した。
「ははーん。さては、カノジョと別れたか?」
「そんな……居たことないっすよ、恋人なんて」
「ごめんごめん。クリスマスも、残業させちゃったもんなあ」
「はは……いいですよ。定時で上がっても、行くとこないですし。残業代もらえる分、会社に居たほうがマシっていうか」
クリスマスの残業は、この同僚のデートのために引き受けたものだった。
クリスマスにプロポーズして、年末の帰省で両親に紹介する計画だと言っていたが、うまくいったのだろう。
「年末は? 実家帰るの?」
「いや……。新幹線代、もったいないですし。帰っても、グチグチ言われるだけなんで」
「あ~、分かる分かる。イトコの誰それは結婚したのに、お前はいつまで独り身なんだ~ってやつね」
「まあ……そっすね」
さすが、言われない側に回った余裕がにじみ出ている。
相槌を打つのも面倒になって適当に返事をすると、彼はスマホをいじり始めた。
やがて三分のアラームが鳴り、カップ麺のフタが開く。ずずっと麺をすする音を横に聞きながら、データチェックを続けた。
このまま彼女と結婚して家庭を持ったら、いつものカップ麺が愛妻弁当に変わったりするのだろうか。
保温ボトルの麦茶を喉に流し込みながら、何となく、そんなことを考えた。
◇ ◆ ◇
「……」
なんとか定時で仕事を納めた後、俺はふたたび、あの路地の前に居た。
この通りは、ここ数か月間、毎日のように訪れていた。
会社で自炊弁当をチンして、近所の公園で食べる。それが近頃のルーティンで、ここは公園へ向かう通り道だったのだ。
とはいえ、通りのビルの隙間のさらにその奥など、一度も気にしたことはなかった。年末の静けさがなければ、泣き声に気づくことはできなかっただろう。
あの昼間の出来事は、夢だったのだろうか?
もちろん、普通に考えれば夢に決まってる。でも……。ちらと見た保冷バッグの中に、今朝入れたはずのタッパーがない。それは事実だった。
「きっと、待ってるって……言ってた、んだよな」
ここで待っているから、また来てくれ。
あの少年の地面を指さすジェスチャーをそう解釈するのは、自意識過剰なのだろうか。
ともかくだ。人通りが少ないとはいえ、こんなところでずっと立ち止まっていては、変な目で見られるかもしれない。
一応周囲をうかがい、誰も俺のことなど気に留めていないのを確認した後、ビルの隙間に入っていく。
細い路地を進み、右に曲がると、果たして――あの穴は、まだ平然とそこにあった。
「あるんだ」
と思わず口に出た。
やっぱり無かった、夢だった、自意識過剰だった、ははは……とかつぶやきながら、スーパーで適当に買い物をして帰るつもりだったのに。普通にあるのかよ。
「……」
いや、しかし、あったとしてもだ。こんな怪しげな穴に入ろうだなんて、どうかしてる。
穴を遠巻きに眺めて、向こう側を観察した。
この、ヨーロッパ風の路地裏は、いったいどこにあるのだろう? 東京じゃないのは確かだ。地球上かどうかも分からない。いわゆる、異世界ってやつかもしれない。
そりゃ、異世界だなんて非科学的だとは思う。でも、じゃあ目の前の現象を科学で説明できるかと言われれば、少なくとも俺はお手上げだ。
もし、安易に向こう側に入り、帰る前に穴がなくなったりしたら、どうするんだ? 一大事じゃないか。
……いや、そうだろうか? と思い直した。
まあ、俺自身は大変だろうけど。きっと俺が居なくたって、会社も、街も、地球も、何事もなかったかのように回っていくだろう。
でも、もしかしたら。あの少年はあの場所で、俺を待っているかもしれない。
東京よりずっと寒いあの街の、風が吹きすさぶ路地で、カラのタッパーを抱えて、冷たい石畳に座っているかもしれないのだ。
じっと穴を見つめた。
これがアニメなら、異世界に通じる門……みたいなものは、向こう側が揺らいで見えたり、輪郭が不安定だったりするのがお決まりだ。
入った主人公たちは退路を断たれ、異世界を冒険し、世界を救ったりすることになる。
もしこの穴がそういう類のものだとしたら、俺は安易に踏み込んだが最後、二度と帰ってこられない可能性もあった。
しかしこの穴には、いっさい揺らぎが見当たらない。普通に百年前からここにありましたが、とでも言わんばかりの、静かな存在感を放っている。
「……」
だいたいだ、俺が異世界に行ったとして、アニメみたいな大活躍なんてできるわけがない。
俺は、生粋のモブ人間だ。村人Aのセリフさえ貰えない人生で、いまさら、物語の主人公になれるわけがない。
「…………まあ、居ないかもしれないしな」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
とりあえず、昼間にあの少年が居た場所まで行ってみよう。居なければ、予定通り、スーパーに寄って買い物をして、アパートに帰ればいいだけだ。




