第1話:その突撃、コンプライアンス違反につき
空はどんよりとした鉛色に染まり、降り注ぐ雨は鉄の臭いがした。
ここは魔王軍・第4前線守備砦。
人間界との境界線に位置するこの場所は、今まさに勇者軍の猛攻にさらされていた。
「――ひいっ、もう、もう無理だ! 魔法障壁が持たない!」
悲鳴を上げたのは、痩せこけたゴブリンの魔術師だった。
彼の指先は、過度の魔力放出によりボロボロにひび割れている。
三日間、一睡もせずに防衛結界を維持し続けた限界だった。
「……妻……子供たち……。……あいたいよぉ」
隣では、深手を負ったオークの戦士が、家族の写真が入ったロケットを握りしめ、泥の中でうわ言を漏らしている。
まともな治療薬すら配給されず、傷口からは膿が溢れていた。
彼らをこの地獄に留めているのは、忠誠心などではない。
首筋に浮かび上がる、赤黒い「絶対隷属の呪印」だ。
「何をもたもたしているか、この役立たずどもがッ!」
砦の司令室から、雷鳴のような怒号が響いた。
現れたのは、三メートル近い巨躯を誇るハイ・デーモン。
第4前線守備隊の隊長、バルガスだ。
「魔王様から賜ったこの砦を、一歩でも退くことは許されん!
魔力が切れたなら命を燃やせ! 傷が痛むなら精神力で麻痺させろ!
俺たちの若い頃は、腕の一本や二本飛んでも笑って突撃したものだ!」
バルガスは腰に下げた鞭を振るい、うずくまるオークを容赦なく打ち据えた。
「いいか、貴様らのような下級魔族を拾ってやったのは魔王様だ!
その恩を仇で返すのか? 勇者に殺されるのが嫌なら、今ここで俺が殺してやる!
どちらがマシか、その足りない頭で考えろ!」
典型的な、恐怖による統治。
精神論という名の暴力。
昭和の悪しき根性論を煮詰めたような地獄が、そこにはあった。
「……た、隊長……。俺には、村に……妻と、子供が……」
オークが血を吐きながら懇願する。
しかし、バルガスの返答は非情な一蹴だった。
「知るか! 家族など、勝利の後でいくらでも作ればいい。
今の貴様の価値は、勇者の足を一秒止める肉壁であることだけだ!」
バルガスが巨大な斧を振り上げ、見せしめにオークの首を撥ねようとした、その時。
パリン、と。
戦場の喧騒を切り裂くような、氷が割れるような涼やかな音が響いた。
「――お取り込み中失礼します。
その執行、当ギルドが一時差し止めさせていただきます」
いつの間にか、バルガスの振り上げた斧の刃を、銀色の杖で受け止めている男がいた。
黒いロングコート。
雨の中でも一滴も濡れていない、完璧に整えられた身なり。
男は懐から一通の書類を取り出し、バルガスの鼻先に突きつけた。
「貴様……何者だ!? 人間か? 勇者の刺客か!」
「いえ、私はただの事務屋です。
退職代行『アンバインド』、エージェントのゼノンと申します」
ゼノンは無機質な、しかし通る声で名乗った。
耳元の魔導通信機からは、一人の女性の声が響く。
『ゼノンさん、音声・映像ともに記録開始しました。
クライアント……オークのオークボさんの生存を確認。
ですが、著しい人権侵害と身体的虐待が見受けられますね』
「ああ、ルナ。こちらも確認した。……ひどいものだ。
換気も悪い、衛生面も最悪。何より、上司の質が『規格外』に低い」
「退職代行だと……!? 貴様、ふざけているのか!」
バルガスは顔を真っ赤にして叫んだ。
「魔王軍に『退職』などという言葉はない!
貴様、この者たちが魔王様と交わした『血の契約』を知らんのか!
一度入れば、魂が消滅するまでこき使われる。それが魔界の常識だ!」
「常識、ですか」
ゼノンは眼鏡のブリッジを指で押し上げ、冷たく笑った。
「その常識は、私たちが持ち込む『法の正義』によって本日付で失効しました。
ルナ、魔王軍規律・第4章第8項を」
『了解です。――「全軍の兵士は、軍の存続に寄与する活動において、適正な休養と安全を保障されるものとする。これを著しく逸脱する運用は、魔王の名において禁じられる」。
……つまり、バルガス隊長。あなたの命令は、魔王様の軍規そのものに違反しているんですよ』
「……な、何をデタラメを! そんな条文、聞いたこともないわ!」
「あなたが読んでいないだけでしょう。
もっとも、古い価値観に縛られたあなたには、文字よりもこちらの方が理解しやすいかもしれませんが」
ゼノンが指を弾いた。
瞬間、周囲にいた魔物たちの首筋から、赤黒い鎖が実体化して空中に引きずり出される。
「なっ、隷属の呪印を……可視化しただと!?」
「これより、不当拘束の強制解除を開始します」
ゼノンが手に持った杖を地面に突き立てた。
眩い白光が砦全体を包み込み、パリン、パリンと、何かが砕ける音が連鎖する。
魔物たちの表情から、霧が晴れるように「絶望」が消えていく。
重くのしかかっていた呪縛が、物理的に消滅したのだ。
「あ……。体が、動く……。自分で、動かせる!」
「呪印が……消えた……!?」
「おのれえええええッ! 貴様ッ、我が軍の大切な『備品』を勝手に解放するなッ!」
激昂したバルガスが、再び斧を振り上げる。
今度は、ゼノンを真っ二つにするためだ。
「死ねええええ! 物理的に辞めさせてやるわッ!」
「……ルナ。物理的交渉への移行を申請する」
『承認されました。ゼノンさん、派手にやっていいですよ。
ただし、オークボさんの再就職先への紹介状、汚さないでくださいね』
「承知した」
ゼノンの動きは、バルガスの目には止まらなかった。
斧がゼノンの体を通り抜ける寸前、彼はバルガスの懐に踏み込み、その巨体の中心にある魔力核を指先で突いた。
「――術式解体。アンバインド・フィジカル」
ドォォォォォンッ!!
衝撃波がバルガスの体内を駆け抜けた。
鎧が弾け飛び、強靭な筋肉を誇っていたデーモンの巨体が、まるで糸の切れた人形のように後方の壁へと叩きつけられる。
「が……はっ……。な、なんだ、今の……魔法……?」
「いいえ、ただの『強制執行』です」
ゼノンは倒れ伏すバルガスを見下ろし、裂かれた『離職票』を魔法で修復して胸元に置いた。
「これで、彼ら32名は正式に自由の身です。
これ以上の干渉、および家族への報復は、当ギルドに対する宣戦布告と見なします。
……魔王軍を相手にするのは、少々骨が折れますが。
我が『代表』は、あなたよりもずっと話が通じない御仁ですので、ご注意を」
ゼノンは振り返り、呆然としているオークボに手を差し伸べた。
「オークボさん。お迎えの時間です。
あなたの娘さんが、村の入り口で待っていますよ」
「あ、ああ……。……ありがとうございます、ありがとうございます……!」
大男のオークが、子供のように泣きじゃくりながら、ゼノンの手を取った。
数時間後。
砦が勇者軍によって陥落する直前、そこには一人の兵士も残っていなかった。
残されていたのは、バルガスの叫び声と、
「退職完了」のスタンプが押された、山のような書類だけだった。
夕闇の中、ゼノンはルナの通信を聞きながら、戦場を後にする。
『ゼノンさん、お疲れ様です。オークボさん、無事に家族と合流しました。
報酬の「奥さん特製の干し肉」、拠点に転送しておきますね』
「ああ。……少し、砂埃を被ってしまったな。次はもう少しスマートにやりたいものだ」
『ふふ、無理ですよ。ゼノンさん、そういうブラックな現場を見ると、すぐ熱くなるんですから』
「……否定はしないよ」
こうして、一人の父親が「地獄」から救われた。
だが、これはまだ始まりに過ぎない。
世界には、まだ数えきれないほどの「辞められない地獄」が溢れているのだから。
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