わたじごく
ーー私は柔らかな地獄の中に居ました。
私が生まれて暫して、かかさまは狂死したのだとととさまから聞きました。
何でも、流行病でかかさまの故郷が見る影も無くなってしまったのを機に、気を病んでしまったらしいのです。
ととさまは云いました。かかさまは大層お優しい方だったと。
物心つく前に死んでしまわれたので私に記憶は御座いませんが、きっとそうだったのでしょう。だって、かかさまの事を話すととさまのお顔はあんなにも優しかったのですから。
それにととさまはこうも云うのです。私の“わた”という名は、綿のように、柔く、暖かい子になって欲しいとの願いを込めてかかさまが付けてくれた名前なのだと。
正直、私はこの名前を好んではいませんでした。けれどととさまが嬉しそうに何遍も語り聞かせるものだから、喜ばないのも気の毒かと、長い間“わた”という名を大層喜ぶふりをしていました。
さて、少々お話は変わりますが、ととさまは町では指折りのお金持ちで、少し過保護なところがございました。
かかさまが死ぬまでは、私はかかさまとお外に出ていたようなのですが、かかさまが死んでからは週に一遍、ととさまと一緒に庭を歩くのみとなりました。
私がもっと外を歩きたいと強請ると、ととさまはいつも決まって困ったような顔をして、私の頭に手を置いては、申し訳なさそうに撫でるのです。ととさまに理由を訊ねると、お前の身体は虚弱だからと。そう、件の顔をしながら云うものだから私まで困ってしまって。終いには、私はお転婆を辞めました。
そして私は大人しく部屋に戻ると、綿の海に溺れるのです。比喩ではございません。私に与えられた部屋には固いもの、ざらついたものなど一切ないのです。四方八方を布と綿とで囲まれているのです。なんでも、ここはかつてかかさまが使っていた部屋であるらしいのですが、死ぬ前は大層暴れられたようで。せめても自分を傷付けてしまわないようにと、ととさまが部屋を布と綿で満たしたのだそう。
ととさまのお気遣いは素晴らしいものだと思いましたが、ずっと暗く、夏は熱が籠ってしまうので困りものです。
ただ、虚弱な肉体では外出そのものが負担になるのではそうも言ってはいられません。
それに、私の虚弱は相当に酷いものらしく、食事をまともに取れたためしがないのです。
幼少のみぎりより、私はお粥や、ととさまが咀嚼した後の食事を口移しで漸く飲み込めるような具合で。それすら時たまえずいたり、咳き込んでしまう始末なのです。そんな食事が嫌になって、食事そのものを拒絶したこともあったのですが、そうしますと、ととさまは眉を吊り上げて、声を荒げるのです。お前は虚弱なのだから、出された食事は必ず摂りなさいと。摂らねば死んでしまうぞと。肩を掴み、強引に席につかせ、唇に指をかけ、そして強引に舌をねじ込み食事を摂らせるのです。口腔を蹂躙するかのような感覚に眩暈を覚えながら私は食事を受け取ります。以来私は食事を拒否することはなくなりました。ととさまはその変化を快く思ったのか、頻りに頭を撫ぜるのです。そのカサカサと乾いた感触は、どこか不快でした。
ある日のお散歩の際、鳥を見ました。親鳥です。口に蚯蚓を咥えて、巣へと帰って行きます。
巣の中には数羽の雛がいて、親鳥は雛達にその蚯蚓を分け与えます。その様が何となく、ととさまと私に重なりました。
そしてふと、疑問が浮かぶのです。私は、いつまで雛なのかしら。私は所詮部屋から出たことのない小娘です。けれど、自分の肉体が少しずつ、膨らみを帯び、肥えて行くのは分かります。それが成長というものだということも。では成長の果てには何があるのでしょう? 雛はいつか大きくなってもこうして餌を強請るのでしょうか。
そんな事を考えていると、人にぶつかって尻餅をついてしまいました。
私とぶつかったその人は、小麦色のこんがりと焼けた肌をした、私と同年代くらいの、見窄らしい着物の男の人でした。
その人は私を助け起こすと少し顔を赤らめながら頭を下げます。ととさまは顔を青くしたり赤くしたりと忙しなかったですが、私が彼を許してあげるように云うと、不承不承といった風ではありましたが、彼を手酷く扱う事はしませんでした。
私とととさまはそのままお屋敷に戻ったのですが、いつまでもいつまでも、あの男の人のゴツゴツとした手の感触が忘れられません。少し怖いような、それでいて生を感じるような、ととさまには感じなかった不可思議な感触でした。
そのことを思うと何だかぽっと頬が熱くなるのは何故なのでしょうか。その熱さをどこか心地良いとさえ思ってしまうのは、何故なのでしょうか。
それから、彼とは度々顔を合わすようになりました。当然ながら、私が視線で彼の横顔を追うだけの一方的なものではありましたが。それでも、ついつい、はしたないと分かっていても視線で彼を追ってしまうのです。これは私の病なのかと少し不安になりましたが、ととさまに云ったらまた心配させてしまう気がして、喉奥にきゅっと秘しておきました。
そんな折、急な雨に降られました。空はあんなに明るいのに。私が不思議がっていると、ととさまは、あれは狐の嫁入りだと云いました。
嫁入りとは何でしょうと、訊き返しますと、ととさまは慌てた様子で日照り雨の言い間違いだったと云います。
どうして、晴れの日の雨は狐の嫁入りなのでしょう。嫁入りとは何なのでしょう。
私は気になって気になって仕方なくなってしまいました。
なので、私は一時だけ元のお転婆娘に戻ろうと思い立ちました。
ととさまの書斎には沢山の本があるそうです。遠い昔にととさまが自慢していたのですからそうなのでしょう。きっと、この本の中には嫁入りとは何か書かれているものもあるに違いありません。
私はこっそりと部屋を抜け出して、上の書斎に忍び込みました。
するとどうしたことでしょう。書斎の窓の外に、件の彼の姿が見えたのです。
私は堪らなくなって、嫁入りのことも忘れて邸宅を飛び出しました。彼と直接会って、話してみたくなったのです。ああ、かかさま。お転婆な私をお赦し下さい。でも、知りたい。どうしても知りたいのです。
私が彼に声を掛けると、彼は心底驚いた様子でした。
丁子屋の蚕の姫君が、何故一人で此処に。
彼はそう云いました。
蚕の姫君と聞いて少し首を傾げましたが、丁子屋は屋号だったので私のことのようです。
蚕は美しい絹糸を作るのだと、ととさまが云っていましたが、やはり、とんと合点いきません。
しばらく沈黙していたでしょうか。見かねた彼は立ち話もなんだからと近くの茶屋に私を連れ出しました。
彼は慣れた様子でどっかりと腰掛けに座ると、お団子を頼みました。暫くしてお団子が出されると、彼は串に刺さったお団子を頬張り、美味しそうに表情を綻ばせます。
一方の私は控えめに口を開けて待っていました。公の場で大口を開けるのははしたないと思ったからです。ただ、私が口を開けていると彼は不思議そうにこちらを見ます。そして問うのです。食べないのかと。
私はお団子を食べたことは一度もありません。その存在をととさまから聞いたことはありましたが、お前に飲み込ませるには難しいからと遠ざけられていたからです。私は偏食家でした。
もう少ししたら、彼が美味しそうにお団子を食べているのに焦れてきて、控えめに舌を出すと、彼は段々と顔を青褪めさせました。
君、もしかして、食べさせて貰わないと食べられないのかい。
私はこくりと首を縦に振ると、彼は変な目で私を見るのです。それはまるで、恐ろしいものを見たかのような。いえ、私に対してではなく、私の中の何かに対して恐怖するような。何とも奇妙な視線でした。
彼は恐る恐るといった様子で串の一本を手に取ると私の口元へと持っていき、自分で食べてごらんと云いました。
言われるがまま原型そのままのお団子を口に入れて噛んでみると、まぁ、なんて甘くて幸せなお味がするのでしょう。少し弾力、いえ、これは粘性、でしょうか。それがあるので咀嚼に難儀しますが、それでも噛めないことはありません。そして何よりも甘くて美味しいのです。なんだか、気持ちまで明るくなるようで、人目憚らず一気にお団子を口に含むと口の中が圧迫されて、危うく喉につまりそうでしたが、彼がお茶を差し出してくれたので助かりました。やはりはしたない行いはすべきでないと、そうかかさまから云われたような気がしましたが、これは気分の高揚のせいです。私が悪いわけではありません。
初めての喫食に気分を良くしていると、茶屋にととさまが入ってきました。
私は気分がとても良かったので、上機嫌に、一人で物を食べられるようになったと、虚弱が治ったかもしれないと云いました。
そしたら、ととさまは。どうしてか、感情の一切が抜け落ちた能面のようなお顔をして。カサカサした手で、強引に私の手を引くと、肩を怒らせながら家の方へ足を向けました。
私が嫌がると頬をぶってきて。とても痛かったです。
ああ、かかさま御免なさい御免なさい。私は、わたは悪い子です。ほんの気の迷いだったのです。もうこのような事はしません。一人で外を出歩くような真似はしません。だから、どうか、どうか、お赦し下さい。
私は祈りました。
けれど何遍赦しを乞うても駄目でした。その日の晩は、ととさまに涙が出るほど舌を舐られ、口内を弄られ、歯肉を撫でられ。幸せの味がぼやけるほど、濃い血の味が口の中に広がりました。
それからどれほどの日を経たでしょうか。私の部屋には鍵がかけられ、週に一度の外出も許されなくなりました。与えられる食事も味の薄い粥のみとなり、私の生活は一層味気なくなってしまいました。私はただ哀しむばかりで一日を浪費します。部屋の中に充満する綿ばかりが微かな慰めではありましたが、今の私にはそれが脈打つ肉塊のように見えて、薄気味悪く感ぜられるのでした。
そんなある日のことです。いきなり部屋にととさまが入って来ました。まだ怒っているのやもと思って肩を震わせましたが、ととさまのお顔はまるでお地蔵様のように穏やかなものでした。
ですが、私はととさまの手に持つお盆の上の物を見て小さく悲鳴をあげました。
それは、彼の生首だったのです。
ととさまは云います。この男はわたを誑かした悪い男だと。だから大鉈振るって直々に殺してやったのだと。そう、どこか誇らしげに。
それからととさまは、如何に彼が愚かだったのかを語りましたが、正直云ってあまり覚えておりません。ただ、並べられた悪句を聞くのは耐えられなくて。とても哀しくて。
私は、ととさまの口を抑えました。
何も聞きたくなかったのです。
ととさまはそれでも彼への罵倒を止めませんでした。なので、綿で丹念に口を塞ぎました。柔らかく、暖かなもので満たされれば、悪句も止まるだろうと思って。
するとどうした事でしょう。
ととさまの身体からは段々と力が抜けて、熱がなくなっていき、そして硬くなって行きました。
暖かく柔い綿が、こんなに人を冷たく、硬くするだなんて知りませんでした。
ただ、ととさまの口からはもう悪句が出ることはなくなったので私は少しだけ安心しましたが、お盆から溢れた彼の首と目が合ってしまい、とてもやるせない気分になりました。
そこで私は、彼の首を胸に抱くと、そのまま邸宅を飛び出しました。
可哀想な彼を、弔ってあげたいと思ったのです。
まだ血の滴る首を持って往来を彷徨い歩いていると、男の人達が私を取り囲みました。
私は、志半ばで捕まってしまったのです。
それから、私は牢に繋がれました。
牢の中は暗く、汚く、隙間風が吹きます。
けれども。柔さや暖かさとは程遠いこの仄暗い牢屋の中を。
私は殊の外気に入っているのです。




