別れの恋のその先に
子爵家の裏庭は、昼を過ぎると静かになる。
正面の庭とは違って、人の出入りも少ない。
厩舎の裏に続くこの場所は、昔から俺たちの遊び場だった。
「見ててくれよ」
俺は地面に落ちていた木の枝を拾い、剣みたいに構える。
誰に教わったわけでもないが、こうやって振ると様になる気がした。
「またそれ?」
少し離れたところで、彼女がくすっと笑う。
使用人の娘である彼女は、俺と同い年。
一緒に外で遊ぶせいか、いつも頬が日に焼けていた。
「毎回それやってるけど、騎士様にでもなりたいの?」
「いや、違う」
俺は首を振った。
「俺は兄貴もいるし家を継ぐこともない。だから何にも縛られずにさ。それこそ強い剣士になって、世界中を旅するのが夢なんだ。……旅をするなら、金もいるだろ?」
「だから剣の腕を磨きたいのね」
彼女が、合点が言ったように頷いた。
図書室にこもって、色んな本を読んだ。
街に出て、色んな話を聞いた。
――いつからか、それが俺の夢になっていた。
「でも、いいわねその夢!」
「だろ?」
「じゃあ、私もついて行く」
目を輝かせ、あまりにも当たり前みたいに言うから、俺は少しだけ驚いた。
「いいのかよ」
「うん。世界って、広いんでしょう? 私だって行ってみたいわ。それに洗濯と掃除の仕事なら、私もできるもの」
彼女は、誇らしげに笑ってみせた。
俺たちは、立場は違えど幼馴染という関係。
だけど、そこにはそれ以外の感情だってあった。
俺は彼女が好きで、彼女も俺が好きで。
言葉にしなくったって、そこには確かに同じ想いがあった。
彼女も一緒に来てくれる。
その言葉に俺は、嬉しさを噛み締めながら、枝を振る。
そのたびに、彼女は、
「今のは強そう」
「さっきよりもいいよ!」
と、感想をくれる。
「ところで、そんなにずっと振り続けて疲れないの?」
「全然」
答えながら、少し息が上がっているのに気づいて、俺はごまかすように笑った。
風が草を揺らし、遠くで馬の鳴く声がする。
いつもの午後。
いつもの時間。
「そろそろ戻らないと」
彼女が言う。
夕方になれば、彼女にはここで手伝う仕事がある。
「またな」
「うん」
それだけで十分だった。
明日も、その次の日も、同じ場所で会う。
世界を旅する日が来るまで、こうして笑っている。
それが当たり前で、失くなるなんて考えもしなかった。
彼女が隣にいない日常を、俺は一度も想像したことがなかった。
◆
その日は、裏庭から厩舎の向こうまで二人で競走した。
いつもなら、息が弾む程度で終わる距離だ。
先に着いた俺が振り返ると、彼女は少し遅れて立ち止まっていた。
胸に手を当てて、肩で息をしている。
「……大丈夫か?」
彼女のところへ行って声をかけると、彼女は顔を上げて笑った。
「うん。多分久しぶりに走ったから」
言いながら、深く息を吸おうとして、少しだけ眉をひそめる。
でも、それも一瞬だった。
「ほら、平気」
言葉どおりに見せようとしているのが、分かった。
俺は何も言えずに、ただ頷いた。
この日彼女が息を切らしたのは、それきりだった。
その後彼女はいつもどおり仕事に戻り、俺も部屋へ戻った。
本当に、大したことがないように見えた。
彼女自身も、そう思っていたはずだ。
けれど、それが何度か続いた。
少し走ったあと。
少し笑ったあと。
胸を押さえて、すぐに手を離す。
誰も気づかなかった。
彼女がごまかすのが上手だったからだ。
それでも、俺だけは気になった。
「念のためだから」
そう彼女に言って、俺が大人に相談した。
大げさだと笑われるかもしれないと思いながら。
結果、医者に見せることになった。
――おかしいと気づいた時には、もう戻れない場所まで来ていた。
◆
彼女が医者にかかったのは、両親と一緒だった。
俺は呼ばれなかった。
家族じゃないから、それは当然だった。
数日後、彼女はいつものように裏庭に来た。
少し息が荒いのに、何事もない顔をしている。
厩舎の裏、木陰。
子供の頃から、俺たちがよく座っていた場所。
「ねえ」
先に口を開いたのは、彼女だった。
「聞いてほしいことがあるの」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
嫌な予感を押し殺して、俺は頷く。
「私、病気なんだって」
……あまりにも、彼女は軽い言い方だった。
「もう、治らないらしいの。半年くらいで……終わっちゃうんだってさ」
言葉が、頭の中でぐるぐる回る。
それが意味を結ぶ前に、彼女は続ける。
「あと三ヶ月もしたら、一気に悪くなるみたい。だからね、覚悟してほしいって」
彼女は、少しだけ笑った。
作り物みたいな笑顔で。
その瞬間、分かった。
彼女は、無理をしている。
胸を押さえながら、息を整えながら、それでも平気なふりを続けている。
俺は、どうしていいか分からず、唇を噛む。
そうしたら、彼女が言った。
「そんな顔しないで? 私は大丈夫。ちゃんと全部、受け入れてるから」
違う。
大丈夫じゃない。
……そう言いたかったのに、喉が動かなかった。
彼女はやっぱり笑っている――本当は、今にも泣きそうだった。
でも、それを俺に気づかれたくなさそうだった。
だから俺は、気づかないふりをした。
「……そっか」
それしか言えなかった。
他になんてかければいいか、分からなかった。
屋敷に戻る時間になって、俺は立ち上がる。
「私はもうちょっとここに残るね。今は、一人になりたくて」
彼女は俺から視線を外す。
俺は頷いて、その場を離れた。
屋敷に戻ると、廊下の奥から声が聞こえた。
抑えきれない、嗚咽。
「あの子は……まだ十二歳なのに……!」
足が止まる。
「どうして……どうして、あの子が……」
彼女の両親だった。
二人とも、この屋敷で働いている。
……泣いていた。
周囲の使用人たちが、慰めるように、そっと声をかけている。
二人言葉で、ようやく現実が形を持った。
たまらず、走った。
さっきの場所へ。
木陰の下で、彼女は一人、膝を抱えていた。
肩が小さく震えている。
俺に気づいて、彼女は顔を上げた。
もう、笑っていなかった。
次の瞬間、俺は彼女を抱きしめていた。
考えるより先に、体が動いた。
「……っ」
彼女の体が、強張ってから、崩れた。
「……怖い……」
初めて聞いた声だった。
恐怖と絶望が入り混じった、そんな声。
「本当は……すごく、すごく怖いっ……」
俺にしがみつく腕に、力がこもる。
「どうして、私なの。もっと……生きたかった……。もっと……一緒にいたかったのに……あなたと……!」
何も言えなかった。
ただ、強く抱きしめることしかできなかった。
二人で、ただ泣いた。
世界は何も変わらないはずなのに。
それでも、彼女だけが切り離される、その現実に。
◆
それからしばらく、俺たちは普段と変わらないふりをして過ごした。
裏庭で話し、並んで歩き、短い時間を重ねる。
泣いたことには触れなかった。
――あの日の涙は、二人だけのものにしておきたかった。
ある日、彼女がぽつりと言った。
「私、一つだけ心残りがあるんだ」
本当は一つじゃなくて、もっとたくさんあったんだと思う。
それでも彼女は、そのたった一つを俺に教えてくれた。
「実はね……お嫁さんになってみたかったんだ」
一瞬、胸が詰まった。
俺の動揺を感じ取ったのか、彼女は慌てて付け加える。
「ち、違うの! ただ……そういう未来があったら、どんな感じだったのかなって」
彼女はそう言って、地面に視線を落とす。
俺は、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「じゃあ、お嫁さんになる?」
彼女が顔を上げた。
目を見開いて、固まる。
「……え?」
「君は、お嫁さんになってみたかったんだろう?」
彼女の唇が、かすかに震える。
「それに……俺も」
少し息を吸ってから、続けた。
「君を、お嫁さんにしたい」
彼女は何度か瞬きをして、言葉を探しているみたいだった。
「でも……私、もう……あなたと一緒には……。それに、この年で結婚なんてできない……」
「分かってる」
彼女の言う通り、まだ子どもの俺たちは、正式に結婚できるわけじゃない。
公式の記録にも残らない。
それでも。
――俺は、彼女と一緒にいたという証を残したかった。
――彼女が、幸せだったと覚えていられる時間を、作りたかった。
「……でも」
彼女は、不安そうに俺を見る。
「本当に、いいの?」
「いいんだ」
即答だった。
「俺が、そうしたい」
しばらくして、彼女は小さく頷くと、久しぶりに、花のほころぶような笑顔を浮かべてみせた。
「……ありがとう」
それから二人で、町へ行った。
指輪を探すためだ。
小遣いなんてそんなに持っていない俺たちは、宝石店には入れない。
ふと屋台が並ぶ通りで、子ども向けのおもちゃを売る店の前で、彼女が足を止めた。
「ねえ、これ、どう?」
彼女が指差したのは、色のついた石が嵌め込まれた指輪だった。
石は本物じゃないし、作りも簡単だ。
「つけてみるかい?」
店主に差し出され、彼女は指輪を指にはめると、ぱっと顔を明るくした。
「……きれい」
その笑顔だけで、十分だった。
◆
盛大にするつもりなんて、最初からなかった。
二人だけで、いつもの場所で。
それで十分だと思っていた。
そこに向かう途中、彼女は少し緊張した顔で指輪を握っていた。
おもちゃの指輪でも、今日はそれが何より大事だった。
――なのに。
木陰に足を踏み入れた瞬間、俺たちは同時に立ち止まった。
人が、いた。
俺の両親。
彼女の両親。
屋敷で働く使用人たち。
そして、簡素だけれど、明らかに『式の場』と分かるように整えられた空間。
彼女が、目を見開いた。
「……っ」
俺も、声が出なかった。
しかも、見知らぬ男性が一人、穏やかな表情で立っている。
「牧師様よ」
いつの間にか近くに来ていた母さんが、言った。
「急だったけど、事情を話したら来てくださったの」
混乱したまま隣を見ると、彼女も同じような顔をしていた。
「……私たち、誰にも言ってないのに」
着替えを促されるように、すぐさま彼女は自分の両親に奥へ連れて行かれた。
俺も、母さんに肩を掴まれ、反対の奥へと連れられる。
「母さん、どうして……」
小声で聞くと、母さんは少しだけ困ったように笑った。
「最近のあなたたちを見ていれば、案外分かるものよ。それに……」
一瞬、言葉を選ぶように間を置いたあと、続ける。
「指輪を買っていたでしょう。二人で。……あの通りは、うちの使用人もよく通るもの」
どちらかが伝えたわけでも、問い詰められたわけでもない。
ただ、大人たちが気づいて、俺たちに黙って準備をした。
それが、答えだった。
俺が着替えを済ませると、彼女も戻ってきた。
白いウェディングドレスに身を包んだ彼女は、俺がこの世界で見てきた何よりも、きれいで、尊いものだった。
息を呑んで立ち尽くす俺の視線を受けて、少し照れたように彼女が笑う。
牧師が前に立ち、静かに式は始まった。
流れは、普通の結婚式と同じ。
誓いの言葉に、指輪の交換。
細く小さな指にあの指輪を通すと、彼女は息を詰めて、それから微笑んだ。
誓いのキスを促され、俺は一瞬だけ迷ってから、彼女の額にそっと唇を触れさせた。
彼女が、少し驚いた顔をしてかららすぐに笑った。
周りから、祝福の声とともに拍手が起こる。
彼女が、俺を見上げる。
「……ね、私きれい?」
俺は頷いた。
「ああ」
未来はなくても、嘘じゃない幸せが、確かにここにあった。
◆
結婚式から、どれくらい経ったのか。
季節の匂いが少し変わった頃、彼女は体調を崩した。
本当に唐突に。
朝、いつものように裏庭へ向かおうとして、途中で膝をついたと聞いた。
胸が苦しくて息ができない、と。
その日から彼女は、ベッドから起き上がれなくなった。
いつもの場所へも、もう来られない。
同じ家に住んでるのに、距離だけが遠くなった気がした。
俺は時間がある限り、彼女の部屋へ足を運んだ。
許される限り、毎日。
ベッドの上の彼女は、初めのうちはまだ笑えた。
苦しそうに眉をひそめる日も多いのに、俺の顔を見た途端、無理に口角を上げる。
指には、あの指輪があった。
俺も外さなかった。
「……おそろい、だね」
声は細くて、風が吹けば消えそうだった。
それでも言葉にしてくれたのが嬉しくて、俺は笑って頷く。
「当たり前だろ」
泣きたくなる瞬間は何度もあった。
息をするたび、胸が痛むと言われた日。
水を飲むだけで咳き込み、指先が冷たくなっていくのを感じた朝。
それでも、俺は泣かなかった。
――彼女の前では。
泣いたらだめだ。
本当に泣きたいのは彼女の方なのに。
俺が泣いてしまったら、二人の幸せな時間も、そこで終わってしまう気がしたから。
代わりに俺は、握る手に力を込めた。
俺の灯火を、少しでも彼女へ渡すように。
日に日に、彼女は弱っていった。
食べられる量が減り、起きていられる時間が減り、声が小さくなる。
命の火が、少しずつ消えていくのが分かった。
どうしようもなく、分かった。
彼女は、言葉を出せなくなった。
目を開けているだけで精一杯で、息も浅い。
俺が呼びかけると、かすかに視線が動く。
それだけで胸が締めつけられた。
その時、彼女が震える唇を、わずかき動かした。
「……ねえ」
聞き取れるかどうか、ぎりぎりの声。
「……もう一度、あそこに……行きたい」
俺は迷わなかった。
彼女を抱き上げると、驚くほど軽かった。
胸に抱えた体は、折れそうで、壊れそうで、怖かった。
「大丈夫。行こう」
それでも俺は、震えそうになる自分の体を無理やり抑え、歩き出した。
木陰に辿り着くと、風が草を揺らしす。
ここは、いつもと同じ匂いがした。
なのに、同じじゃない。
俺は腰を下ろして、膝の上に彼女を乗せた。
彼女は、力を抜くように俺に身を預ける。
「覚えてるか」
俺は話しかけた。
幼い頃の剣ごっこ。
旅に出るって言って、彼女が「私もついて行く」と笑ったこと。
指輪を選んだ時、彼女が「きれい」と言ったこと。
皆の前で結婚式を挙げたこと。
彼女は何も言えない。
それでも、呼吸が少しだけ穏やかになった気がした。
気づけば彼女は幸福そうに、ただ目を閉じて、俺に体重を預けていた。
「……眠ったのか?」
安らかな顔だった。
せめて夢の中では、苦しまずに幸せな気持ちでいて欲しい。
そんな想いから、俺は彼女を起こさずにいた。
ふと彼女の頬に、触れる。
……冷たい。
手を取る。
脈が、ない。
息が止まった。
ああ、と思った。
だから、彼女は言ったんだ。
もう一度、ここへ行きたい、と。
それが最後のお願いだったのだと、ようやく分かった。
俺は彼女を抱きしめた。
力を入れたらやっぱり壊れてしまいそうで、でも離せなくて、震える腕で抱いた。
泣き声が、喉の奥で潰れた。
涙が落ちて、彼女の髪に染みた。
俺はそっと顔を寄せ、結婚式では触れなかった場所に、短い別れを落とした。
◆
あれから、六年が経った。
俺は十八になった。
もう子どもじゃないと、世間から認められる年齢だ。
剣の腕も、それなりに磨いた。
望めば、この国でも名誉ある騎士団に配属できるだろう、と何度も言われた。
誘いも、一度や二度じゃなかった。
けれど、俺はすべて断った。
剣を振る理由は、まだ失くしていない。
ただ、それをこの場所に縛りつけるつもりはなかった。
石が積み上げられた、静かな場所の前に立つ。
刻まれているのは、名前だけ。
ここには何度も来た。
季節が変わるたびに、風の匂いが違うことを教えに。
俺は目を閉じる。
裏庭の木陰で、笑っていた顔。
指輪を見て「きれい」と言った声。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
ここにくるのは、今日が最後だ。
俺は立ち上がり、首元に手を伸ばす。
服の下で揺れる、小さな重み。
その先で、二つの輪が重なる。
子どものサイズだ。
指にはめることは、もうできない。
でも、手放すこともない。
一緒に過ごした証を握りしめ、空を見上げると、雲がゆっくりと流れていく。
世界は、きっと広い。
まだ見たことのない景色が、いくらでもある。
風が、草を揺らす。
「それじゃあ、約束通り。……一緒に行こうか」
返事はない。
けれど俺は踵を返し、歩き出す。
――彼女と話した夢の続きを、確かめに行くために。




