4:痛
「おはようございます」
「おはようさん」
すれ違う先輩に挨拶をしながら、楽屋への廊下を歩いていく。
それが何時もより長く感じて。
いっそこのままたどり着かなければ良いのに、と鷹耶は思った。
しかし、そうは思ってみても歩けばいずれ到着してしまうわけで。
自分達のコンビ名が書かれた部屋の前で、鷹耶は暫し立ち止まった。
和樹は鷹耶より、何時も30分以上前に入っている。
ドアを開ければ、其処に居るだろう。
2、3度軽く深呼吸してから鷹耶はドアノブに手を掛ける。
そして意を決し、そのドアを開いた。
「はよ…」
「っす…」
思った通り、昨日揉めた相手が其処には既に座っていた。
煙草を指に挟み、台本を眺めている。
視線は落としたまま、鷹耶を向く事はない。
それに、苛立ちを感じながら鷹耶は椅子を引いて和樹の正面に座った。
「鷹耶…」
暫くして、和樹が口を開いた。
視線だけで鷹耶は和樹を見遣る。
「昨日な…お前に言われた事考えてみてんけど…」
「…」
「やっぱ俺は…コンクールとかそういうの大事にしたいねん…」
睨み付ける視線が更に不機嫌になる。
普通なら、鷹耶の風貌でそんな風に睨まれれば大抵の人間は怯んでしまう。
しかしそんな鷹耶の凄みも和樹には全く通用しない。
「そんなにコンクールとか出たいんやったら…相方俺やなくてもええやろ!?」
「鷹耶…」
「俺は別に漫才師として成功せんでも良…ッ」
言い終わる前に、鋭い痛みが鷹耶の頬に走る。
鷹耶は驚きに目を見開いた。
今までどんな喧嘩をしたって、和樹が手を上げた事は無かったから。
「あんまり…悲しい事言わんでくれ…」
「和、樹…」
「俺には…」
言い掛けた台詞を飲み込んで、和樹は眼を伏せる。
そして静かに台本を机の上に置くと、そのまま楽屋を出ていった。
独り残された鷹耶はじんじんと痛む頬を左手で押さえた。
「何やねん…アイツ…」
独りごちてみても、応えてくれる相手はいなくて。
鷹耶は親指の爪を噛んだ。
和樹は鷹耶にとって不思議な存在だった。
物静かで、人を遠ざけている感じで。
しかし、和樹の周りには常に人が集まっていた。
大抵は和樹の顔目当ての女子。
男の鷹耶から見ても、和樹は美しかった。
それは大人になった今でもそうで。
少しクセ付いた黒髪。
身長は180cm程あるが、線は細くて筋肉も綺麗についていた。
二重の目は少し大きめで、長い睫毛が更にそれを際立たせる。
鼻筋は通っていて、少し厚めの唇が妙に色香を漂わせていた。
その所為で、男でも和樹をそういう目で見る輩は多い。
まさか和樹の一番近くにいる自分が、そんな風に和樹を見てるとは思ってもみなかった。
『鷹耶…は和樹が…、好きなんだな…』
レイの言葉に気付かされた想いは未だに受け入れられない。
受け入れてしまえば、もう隣に立つことすら出来なくなる気がして。
想いを打ち消すように、煙草に火を点ける。
フィルターを噛むと、舌先にじわりと苦味が残る。
それが不快で、鷹耶は舌打ちをすると点けたばかりの火を灰皿で揉み消した。
「阿呆らし…」
ふと、零れた呟きは誰も居ない部屋に吸い込まれて消えた。
「っ…は、はぁ…」
手が震えて、意識が朦朧とする。
和樹は霞む視界で必死にそれを探した。
そして、セットの隅にそれを見つける。
ふらつきながら拾い上げたのは小さな紙袋だった。
そんな和樹の行動を訝しげに思った、事務所の先輩である堺が声を掛ける。
「おい…和樹?何しとんねん?」
「っは…ぁ…」
「おま…めっちゃ顔色悪いやん!……過呼吸か?」
紙袋と和樹を見比べて堺はそう結論付ける。
そしてその答えは正解だったようで、弱々しく和樹が頷いた。
慌てて和樹の手から紙袋を奪うとそれを口元に宛てる。
背中を優しく擦る手が、徐々に和樹を落ち着かせていった。
「大丈夫か?」
「っ…は、い…」
「ちょっと休みぃ…楽屋戻るか?」
堺のその言葉に和樹は苦しげな表情で首を横に振った。
汗ばんだ額に髪が貼り付いて、倒錯した色香を感じさせる。
堺は小さく喉を鳴らした。
「じゃあ…俺らの楽屋来るか?」
「すんません…」
その申し出は和樹にとって、とてもありがたいものだ。
堺に支えられ、覚束ない足取りで舞台を後にした。




