渡名の儀式と下り籠
「私の手に、あなたの手を乗せてくれますか?」
「ハイ!」
女児の小さな手が、ひと回りもふた回りも大きい手にちょこんと乗る。
女児はニンマリとして、相手の顔を見る。
附名術者も微笑みを浮かべ、女児を見つめる。
「名づけ師」、オ・クメンは気丈であった。
彼が眠りから還って第一に発した言葉は、「この状況は一体」と問う困惑でも、「私の手がない」と叫ぶ驚愕でもなく、「『未名』の子に魔名を授けなければ」であった。
「ではこれより、『仮名』授け……『渡名』の儀を行います」
「ハイ!」
治療のため、「下り籠」でサガンカからサガンヤに降る最中、美名とクミは、「名づけ」をしてもらえる予定であった女児のことを話した。
彼女は「魔名」を望んでいるわけでなく、「サメ」という、自分だけの名を「名づけ」られることを望んでいるのだ、と。
ゆらゆらと揺れる籠の中で、深い呼吸の中で、「名づけ師」は頷いた。
「居坂に響く名を授かる準備はいいですか?」
「はぁい!」
「……ふふっ。元気がいいですね」
クメンの右の手の接合回復は、やはり不可能であった。切り口の損傷は少なく、受傷すぐであればもしかすれば、とは他奮術者も言ったが、時間が経ちすぎていた。
サガンヤの他奮術者が首を振るのを見ると、附名術者は言った。「では、傷口を塞いでいただけますか。すぐにまた、サガンカに戻らねばならないので」。
「あなたの旅路を、あなたの『仮名』と共に歩んでいく準備はいいですか?」
「はい! カワイイので!」
「……ふふっ」
戻りの「上り籠」の中で、クメンは美名に謝った。
サメの「仮名」授けは片手さえ残っていれば為せるが、「魔名」授け――「ア行・命名」――には両の手が要る。サメに「魔名」を授けてやることもそうだが、美名に「名づけ」てやれることも、自分にはもうできない、と。
美名はただ、黙って頷いた。
「では、あなたの名を教えてください」
女児に「仮名」を授ける儀式は、「児童窟」の広間内で始まった。
向かい合って座る、「名づけ師」と「未名」の子。
広間を埋め尽くすようにサガンカの者が参集している。
当然、美名とクミもふたりを見守る。「未名」の兄、サタナの隣で見守っている。
主役の女児は、精一杯のオシャレなのか、「児童窟」でただ一着の、それも長年、子どもたちに受け継がれてきたがために大分ヨレヨレになっている白絹の織服を、満面の笑みで着こなしていた。
白絹の女児は、サタナを見る。
自らの父母を見る。
美名たちを見る。
そして――広間の入り口の隅の方で、憚るように見守っていたスッザを見る。
スッザは、今回の所業を許されたわけではない。本来であれば、上ってきた美名たちと入れ替わりで籠に乗せられ、事情を聴かれるため、サガンヤに降りなければならなかったのだ。
だが女児は、集まったものの顔を見回して騒いだ。「スッザはどこ? スッザがいないと、イヤだ」。
スッザは泣き腫らした赤い目で女児の目線に応じると、ひとつ、小さく頷いた。
女児はそれに笑顔を浮かべ、附名術師に向き直る。
「サメ! ワタシの名前は、サメです!」
「……よろしい。……『ア行・渡名』……」
術者の詠唱で、彼の左手がボンヤリと光を放つ。
そこに乗せている自身の手が光っているようで、女児はまたひとつ、笑った。
「……よき旅路をゆく、よきヒトのため、よき名よ、響け。この者の名は、『サメ』……」
*
「スッザ……」
籠乗り場で、クミは短髪の少年に声をかける。
美名とクミとオ・クメンは、「下り籠」でこれからサガンヤに降りる、スッザを見送りにきたのだ。
籠にはすでに、今回の首魁、ム・ヂルノも乗せられている。
「……偉そうなこと言っちゃって、悪かったわね……」
「……」
「アナタが……アナタたちがどんなふうに神様を信じてるか、どんなにサメを憐れんだのか、私には判らないけど……」
クミは少年の瞳を、真っ直ぐに見据えた。
案じていた女児の「名づけ」を見届けた彼の瞳は、もう赤くはなかった。
「……どんな神様だとしても、同じ神様への信じ方にどんな違いがあったとしても、それを暴力の理由にしたり、盾にして正当化したりしちゃいけないと思うわ……」
「……はい」
クミを肩に乗せた美名も、一歩前に出る。
「……殴っちゃって、ごめんなさい」
「……美名さん……」
「……正直、怒りに任せて、アナタのこと殴ったわ……」
スッザは頬に手を当てる。
クミは知っている。この銀髪の少女が「怒りに任せて」平手を打てば、あの程度では済んでいなかったであろうことを。
「……私も、魔名教の詳しいことや、アナタたちの信仰はよく判らないけど、サメやサタナたちのお兄さんとして、恥ずかしい真似だけはしないで」
「……」
「……アナタと、あの子たちの心には、ウソをつかないでほしい」
「……はい」
夕暮れの薄闇の中、空を舞うようにして籠が下っていく。
逆光がため、紅い空に薄墨を垂らしたようなその陰色は、美名とクミの心中にも後味の悪い黒ずみを残していった。




