一、気づけばそこは
中肉中背、日本の何処にでもいるような顔付きの青年、蒼井奏多。
カナタは目を開けるなり、運動不足の体に内蔵されたバネの全てを駆使したであろう速度で飛び起きると、目を見開いて周囲を見回す。
木、木、木ーーー。
見渡す限り、カナタの周囲にあるのは鬱蒼と生い茂る木々の数々。
そんな薄暗い森の中に自分が居るのだと理解したカナタは、次に自分に起きた異変を確かめるように体を見回した。
ヨレヨレのTシャツに、黒いジャージのズボン。
自室のベッドで寝ていた時のままの服装。
一時の沈黙の後、カナタは呟くように、そして自分に問い掛けるように言った。
「ーーー夢遊病?」
自身の病気を疑うカナタは、靴は愚か、靴下さえも履いていない足を見て、自らの問い掛けを否定する。
「・・・足の裏が汚れてない。なら一体どうやって・・・・」
こんな森の中まで歩いて来たのであれば、足が汚れていない筈が無い。
と言うことは、自分が寝ている間に何者かによってここまで運ばれた事になる。
マイブームのサバイバル動画を徹夜で見続けていたから、誰かが気を利かせて連れて来てくれたのか?
そんな有りもしないようなことをカナタは考えていた。
だが、この状況こそがあり得ないものなのだから、その答えを探そうとすれば、自ずとその答えも起こり難いものとなるのは仕方のないことなのであろう。
「だけど、せめてナイフか火打ち石くらいは持たせてくれないと・・・」
いくら動画を見ながらこういう窮地に陥ったことを想像しようと、所詮はサバイバルなどしたこともないど素人の想像。
大抵は、多くの者達と共に自分や自分の想いを寄せる相手も一緒に遭難、又は無人島へ漂着し、自分だけが他者よりも良いシェルターを作り、動画で見たような罠を駆使して多くの獲物を捕獲し、想いを寄せる相手の視線を独り占めする。
大凡そんなところだろう。
同じくそのような想像しかしていなかったカナタが、見知らぬ森で道具も無しに生きて行けるほど自然は甘くない。
水を見つけ、生きて行く為の食料を手に入れつつ、獣避けのための寝床を作り上げる。
例え火を起こし、草木を刈り取る道具があったとしてもそれは決して容易なことではないだろう。
「えぇと、どうしよう・・・」
状況は理解出来ていないが、自分が見知らぬ森の中にいることはその目で見た事実。
カナタはその場に立ち上がり、周囲を見渡して歩き始める。
最も植物の密集度が低く歩きやすそうな方向を選んだカナタは、何とか情報を得ようと周辺の偵察をすることに決めたようだ。
棘のある植物や見たこともない派手な色の蜘蛛が作っている蜘蛛の巣に触れぬよう、拾った木の棒によりそれらを掻き分け進むこと数十分。
喉の渇きと、僅かな空腹を感じていたカナタは、突如として足を止めた。
「・・・狼?」
********
(あれ?狼って日本には存在しないんじゃーーー)
カナタは本能的に木陰に隠れ、体勢を低くして唸り声をあげる狼の様子を伺っている。
(というか、狼ってあんなだったかな?
思ってたより随分大きいし、角も生えてるし・・・。
夢・・・ではなさそうだし、新種とか?
いやそれより、アイツ狼に気付いてないな)
角の生えた狼は体勢を低くして木陰に隠れ、数メートル先で毛並みを整える尻尾が二本ある小さな白猫を見ている。
鋭い牙の生えた口から涎を垂らし、ジリジリと前進する狼は、間違いなくあと数秒で白猫に向かい飛びかかるだろう。
カナタは咄嗟に落ちていた枯れ枝を拾うと、それを狼と白猫の中間地点へ向けて放り投げた。
(食物連鎖?知るか、オレは猫派なんだ、よ!)
回転しつつ弧を描く枝が地面に転がると、その乾いた音が、鳥の囀りや風に揺れる木々の音の中に僅かな違和感を生じさせる。
野生で生き抜く生物達にとって、その僅かな違和感を感知することは決して難しいことではなかった。
白猫は転がる枯れ枝へ振り返り、狼はそれに気付いた白猫を逃すまいと、まだ射程圏内には少し遠いが、仕方がないとばかりに唸り声と涎を撒き散らし飛びかかる。
(逃げろーーーー!!)
だがカナタの心の声とは裏腹に、白猫は動こうとはせず、カナタの投げた枝をジッと不思議そうに眺めているだけだ。
「おい、逃げろよ!!」
しまったーーー。つい大声を上げてしまう軽率な自分を恨むカナタ。
だがその甲斐あってか狼は、もう一度跳躍すれば白猫へその爪が届くであろう地点に到達しながらも、咄嗟に斜め後ろへと飛び退き、状況を把握しようと声の主へ視線を飛ばした。
狼と目が合ったことで、再び後悔の念を強くするカナタ。
まじまじと見てみれば、やはりデカい。
カナタの知識の中にある狼とは比べ物にならぬ大きさだ。
ヒグマ程はある体躯とヘラクレスオオカブトのように聳える二本の角。
白猫と比べれば動きも鈍そうで、肉の量も多いカナタへ完全に標的を変更した巨大狼は、唸り声を上げ一歩、また一歩と近づいて来る。
カナタも本能的に後退り距離を保とうとするが、土中から飛び出した木の根の一部に足を取られ、尻餅をついてしまった。
そこへ賺さず、飛び掛かる巨大な狼。
鋭い牙が迫るのを見たカナタは、諦めたように目を閉じたーーーー。
「ミャー!!!!」
小さな白猫の決死の鳴き声。それが聞こえた瞬間だった。
カナタの目前にて、凄まじい稲光と雷鳴が巻き起こったのだ。
空気が爆ぜたような爆音と共に、凄まじい振動が大気を伝わりカナタを震わせる。
体験したことの無いその衝撃を受けたカナタは、瞬時にそれを雷の仕業だと確信した。
信じ難いことだが、たった今、自らを喰らおうとしていたあの巨大狼へ、落雷が襲いかかったのだ。
目を閉じたまま数秒待ち、自分を貫こうとしていた牙が到達しないことを確認したカナタは、ゆっくりと目を開け狼の居た場所を見るーーー。
「・・・マジかよ」
捉えたのは、黒く炭化した狼。
毛は焼けて無くなり、剥き出しになった皮は黒く焦げ、毛の焼けたような臭いを放ち絶命している。
カナタは命が助かったという安堵を感じる間も無く、その信じ難い光景を前に絶句し、そして思い出したように白猫を見やった。
「ミャー」
すると、まるで何事も無かったかのように、甘えた声でカナタを見て鳴く二本尾の白い子猫。
その気の抜けた鳴き声を聞いたカナタはどこか拍子抜けしたように、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「ミャーって・・・・、ははは、分かってんのかお前?俺たち、もう少しで死ぬとこだったんだぞ?」
尻餅をついたまま苦笑いを浮かべるカナタへ、ひょこひょこと近付く子猫は、甘えたように頭を撫で付ける。
その仕草に応えるように、カナタも又、子猫の頭を撫でてやった。
「おおぉ、何つぅフカフカさだ。毎日シャンプー後にコンディショナーも欠かさずやってんのかお前?
この毛並み、たまんねぇな」
その時、二本ある尻尾から電光が走ったことに、カナタはまだ気付いていないーーーーー。
***********
俺の名は蒼井奏多。
只今、絶賛遭難中の二十三歳、独身。
職業、人生サバイバー。深い悲しみと苦しみで溢れるこの世界を強く生き抜くことを生業としている。
そんな俺がこの森を少し探索する内、幾つか気づいたことがある。
まず、この森に入って以来、妙なことが続き過ぎている。
第一に、俺はどうやってこの場所へ来た?
気づいた時には此処に居たが、足の裏は汚れていなかった。
つまり歩いて来たわけではなく、誰かに連れて来られたと言うことになる。
誰が、何の目的で、どうやって?そんなことは知らん。
知らんが、俺が幻覚でも見て無い限り、誰かの意思で連れて来られたことは確実だ。
幻覚を見ていない事にも確信がある。
何故なら、俺は自分のことが全て分かるからだ。
俺は人生サバイバーで、趣味は料理と読書とネットの徘徊。最近は、自給自足のサバイバル的な動画にハマっている。
料理男子はモテる。そんな話をどこかで耳にして以来、いつか部屋に遊びに来た女子に振る舞おうと、料理の腕を密かに磨き上げて来たのは俺だけの秘密だ。
うむ、やはり俺の思考に変わった様子はない。俺には冷静な判断が下せると、そう冷静に判断したのだから確信出来る。
此処には、誰かの意思で連れて来られたのだ。それで決まりだ。何故なら、冷静な思考能力を持つ俺が、そう結論付けたからだ。うむ。
第二に、見た事もない動植物が多過ぎる。
角の二本生えた巨大な狼が、鱗や牙のあるダチョウが、翼の生えた豚が、クマを食べる食虫植物ならぬ食獣植物が、そして、尻尾が二本あり、放電する白猫がーーーー、果たしてこの世に存在するのだろうか?
第三に、俺ってこんな能力持ってたか?
ひょんな事で気付いたんだが、どうやら俺は触った物の形を変えられるようだ。
石をナイフの様に、木を靴の様に、大きな葉っぱを服の様に・・・・・。
触れてイメージすれば、物体はその通りの形に変わる。中々に便利な力だ。
第四に、この白猫ーーー、何で俺に付いてくる?
いや、今の所は付いて来てもらえて非常に助かっている。
次々に現れる猛獣を、放電によって追い払ってくれるんだから当然だ。
だが、何故、俺に付いてくる?
俺を食おうとしてるのか?あんな雷撃を食らったら俺なんか即死なだけに恐ろしい・・・。
だが食うならとっくに食ってる筈だし、そもそも俺なんか食わなくてもさっきの熊とか豚とか食えばいいだけだ。
とりあえず、一緒に行動しても大丈夫なはず。
ーーーーだよな?
というか、こいつが居なきゃ何回死んでるか分からんし、とりあえず助けてもらえる内はそれに縋ろう。多分、この子猫ちゃんは恐ろしく強い。
それに毛並みは最高だし、可愛いし。
この数時間、森を歩き周って薄々気付いたことがある。
馬鹿馬鹿しい。実に馬鹿馬鹿しいんだが・・・、最早そうとしか考えられない。
もしかして此処はーーーー。
「ーーーー異世界」
そう、おそらく此処は、俺の居た世界とは別の世界。
俺は遂に、異世界召喚なる物を体験してしまったようだ。
それにしてもーーーー。
「迷ったな」
元々、何処に居るのか分かって無いんだからこの表現が正しいのか分からんが、少なくとも方向感覚が狂って居るのは確かなようだ。
何故なら、歩き続けた俺のーーーーいや、俺達の前には、黒焦げの狼が横たわっているのだから。
「ミャー」
ん?子猫の様子が今までと違うな。
疲れたのか?
座り込んで、黒焦げの狼をーーーー。
「ーーーーそっか、腹が減ったのか?」
「ミャー」
そっか、そういや俺も何も食わず歩き周ってたからなぁ。
腹減った。
うぅむ。
この狼、食っても大丈夫だよな?まだ腐って無さそうだし、何ならもう焼けてるし。
うむ、背に腹はかえられん。
「よし、食うか!」
「ミャー!」
********
「ふぅ・・・、案外美味かったな。筋っぽくて硬いが、思ったほどクセも無いし、中々良質な肉だ。
物の形を変えられるお陰で、石で作ったナイフやフォークを使えるのも嬉しい点だな。
作るのにちょっと時間が掛かるのが厄介だが、まぁ仕方ないだろ。
つか、ありがとな。お前が居なけりゃ今ごろ俺は飢えに苦しんで、小さくて気持ち悪くて毒があるかどうかも分からん虫を食う羽目になってただろうよ」
「ミャー」
「そっかそっか、ありがとな」
この頭を擦り付けてくる仕草と毛並みの良さが何とも堪らん。
やはり、ケモミミストの俺からすれば猫耳獣人娘とかウサ耳をお目にかかりたい所ではあるが、今は遭難中の身。
コレだけで十分幸せだ。
「にしても、食ったら喉が渇いたな・・・」
ん?これはーーーーー、水の流れる音?
「あっちに小川でもあんのかな?行ってみるか」
「ミャー!」
変だな。さっきこの辺りを通った時は水の流れる音なんて聞こえなかったが・・・。
まあこの際そんなことはどうでも良いか。
この茂みを抜ければ川があるはずーーーーーー、あれ?おかしいな。
小川が見当たらん。もうちょい先か、しゃーねぇな。
・・・・・・
・・・・・・・
・・・・・・・おかしい。
進めど進めど、川が無い。
確かにこっちから水の流れる音が聞こえるんだけどな。
まあ良いさ。飯食ったおかげか知らんが、今はかなり体力も回復して身体の調子も良い。
体が軽くて、まだまだ走れそうなくらいだ。
おっ!見えた!
何だ、やっぱあるんじゃん!
小さな小川だが、水は綺麗そうだ。
本当は煮沸した方が良いんだろうが、今はそうも言ってられん。
方法は知ってても火起こしなんてやったことねぇし、そんな簡単なもんでもねぇだろ。
つか喉が渇いてそれどころじゃねぇ。
まあ綺麗そうだし、一回くらい大丈夫だろ。次からはちゃんと煮沸するさ。
ゴクゴクゴク・・・・。
「ぷはぁ、うめぇぇぇ。
な?」
「ミャー!」
飲みっぷりからして、こいつも随分喉が渇いてたらしいな。
「あはは、焦んなくて良いからゆっくり飲めよ」
俺ももうちょい飲んどくか。
ゴクゴク、ゴクゴクゴク、ゴクゴクゴク・・・・・・と言うか待てよ?
あんだけ離れた場所から、何でこんな小さな小川の音が聞こえる?
俺ってそんな特殊能力持ってたか?
それとも、これも物の形を変えられる力的な、異世界召喚時に宿った能力の一つなのか?
だが、それなら始めに狼と出会った時やその後に小川の音が聞こえなかったのは何でだ?
それに、その辺で虫が動く音や、彼処にいる獣の匂いまで感じる。
どういう訳で・・・・。
「ミャー、ミャー!」
ん?そんなに必死に鳴いてどうしたんーーーーーーーーーーー?
えっ・・・・・?
嘘だろ?
何で俺の脚がーーーーー。
毛むくじゃらなんだ?
これって、もしかしてーーー、
「さっきの狼の脚ーーーー?」