プロローグ 『約束の炎』
燃え盛る炎は、まるで生き物の舌のように手当たり次第、全てを燃やし尽くしている。
辺り一面、焼け落ちるまでそう時間はかからないであろう。
その獄炎の中に、二つ程の人影が今にも消えてしまいそうな不安定さを残し、揺れていた。
一つの大きな影は身動き一つせず横たわっている。そしてもう一つのそれよりも少し細い影は、恭しく血だらけのもう一つの影を守るように座していた。
───魔王様が倒された。
腕の中で冷たくなっていく魔王様を、私は何も出来ずにただ眺めていた。
出血は留まることを知らず、腕をすり抜け床にシミを滲ませる。
貴方の最後の大勝負の為に、床掃除を欠かさなかったというのに。今の貴方には愚痴の一つも言えないではないか。
貴方の為に整えた銀白の御髪は、こんなにも乱れ、汚れている。
貴方の為に新調した服は、もう跡形もなくボロボロで修復は不可能だ。
貴方の為に用意した食事は、もう炎に焼かれケシカス同然になってしまった。
「……早く、早く起きてください。今ならまだ怒りませんよ、魔王様───いえ、ルノワール」
もうお互いの立場上何百年も呼んでいない、呼んではいけない名を、小さく密かに男は呼んだ。しかし祈りにも、哀願にも満たない小さな希望が叶うことはなかった。
口の中には鉄を思わせる独特の血の味が混ざり、少しむせ返る。
この名を呼んだのは一体、いつ振りだろうか。未だ主従関係では無く、無礼にも友として接していた時であったか。
しかしこの声は、もう本人に聞こえることはないのだろう。
炎は二人を囲むべく盛炎と姿を変え、二人を包み込んだ。打ち払おうにも魔力は枯渇状態、着ていた装備も全て朽ち果ててしまった。
さらに腹中には、風穴が大きく空いてしまっている。助かる筈もない。
「ルノワール、大丈夫ですよ。第98代魔王補佐役の名にかけて、最後までお供致します」
物の輪郭がボヤけてきた視界は、もう自分の死期が近いことを悟っていた。
役に立たなくなった瞳を閉じ、情報と感情が交差混濁する脳内へ意識を向ける。
怒り、悲しみ、虚無、悟り。全てが津波のように、たった一つしか思考できない脳へ襲いかかってくる。
なぜこんな目に、貴方が合わなければいけない。
なぜ勇者共に、貴方が負けなければならない。
なぜ、貴方が幸せになる世界が来ない。
なぜ、勇者共しか幸せになれない世界しか来ないのだ。
─────冗談じゃない!
理不尽、不条理、不公平などでは表せない程の、言い表し難い、暗く醜い感情。
それは、特定の誰かに向けての感情ではない。言うなれば世界に、運命に、存在するかも解らない神なる存在に向けての殺意であった。
男は最後の力を振り絞り、魔王の手を握る。
もう温もりなど感じられなくなり、ダラリと力の抜けた冷たい手。大好きだった、愛していた掌だ。
血の気の失った手の甲に唇を押し当て、男はニコリと微笑んだ。
「ルノワール、どうか見ていてください。私は世界を……いいえ貴方を、必ず───
貴方が幸せになる世界へ連れて行きます」
そこで意識はプツリと切れた。