2 黄金の蜂蜜酒
「俺、異世界転生したんだよ」
飯田橋のボードゲーム・バー、グリュックのカウンターで俺は言った。
「今日もいい感じですね」
ゲームバーなのに落語好きで和服の女将が酔っぱらいの戯言と、笑って流す。正面では、小粋な服装のマスターが、頼んだヤドヴィガをワイングラスに注ぐ。
ポーランドのアピス社の蜂蜜酒の中でも、最高級品。たっぷりの蜂蜜を使い、十年、ハーブを漬け込んで熟成した一品だ。
当然、美味い。
口に含むだけ陶然となる。
馥郁たる香り。
「ふくいく」か。こんな時でもなきゃ使わない言葉だ。
「Tさんは蜂蜜酒が好きですね」
ああ、もう何年前になるかな。
クトゥルフ神話の本を書いた時に、その名前を知り、知人の紹介で飲むようになった。旅のついでに、京都の輸入元を訪ねて色々飲ませてもらった。
ああ、新しい酒だ。
いや、世界最古の酒なのにな。
さて、この一杯でも十分に異世界に行くことができるはず。
ぐびり、ぐびり。
ああ、美味い。
*
「ディオニュソス、バッカス神の勇者よ」
俺は洞窟の底で、三人の女神の前に立っていた。
彼女らはトリアイ。
地中海の古き予言の神にして、ミツバチの神。
「神たるもの、これをもって糧とせよ」
与えられたのは、蜂蜜液を水で割り、発酵させたアルコール飲料、いわゆる神の蜜酒。それは神々の糧。
ぐびぐび。ぷはあ。
そして、宇宙が幻視えた。
*
「黄金の蜂蜜酒を飲めば、宇宙が幻視えるんだよ」
そういうと、女将がクトゥルフ神話ですねと答える。ボードゲーム・バーのいいところは、こういう話の説明がいらないところだ。
クトゥルフ神話に登場する「黄金の蜂蜜酒」は、ある種のお助けアイテムである。セラエノが天空にかかる頃、この酒を飲み、石の笛を吹いて呪文を唱えれば、邪神ハスターの眷属バイアクヘーが迎えに来てくれて、宇宙の彼方でもどこでも連れて行ってくれるという。
オーガスト・ダーレスの連作短編「永劫の探求」に登場する。
「でも、どうして、蜂蜜酒なんですか?」
世界でもっとも古い古代の酒だからさ。
「ビールやワインじゃないんですか?」
確かに、ビールの原型は紀元前27世紀ぐらいまで遡る。メソポタミアの神殿経済を支えた最初の貨幣であり、穀物生産体制の根幹だ。
でも、蜂蜜酒の方が古いと、される。
なぜならば、農耕よりも先、採取生活の頃から作られていた可能性があるからだ。だから、ギリシャ神話や北欧神話に登場する酒といえば、蜜酒と約される蜂蜜酒のことだ。アムリタしかり、クヴァシルしかり。
ワインも古い。
グルジアで紀元前25世紀頃から醸造が始まったと言われる。エデンの園はグルジアのぶどう畑がモデルという説もある。それがメソポタミアからエジプトに伝わり、小アジアからギリシャへ届く。
ああ、それを届けた神こそがディオニュソス。
*
視界が切り替わる。
異世界のもうひとりの俺。
バッカスの勇者たるディオニュソス。
*
「お前に、ディオニュソスの名前を与える。
これは、若木の化身たる神名なり」
トリアイ、予言の三女神たちは蜂の羽をうならせるように告げる。
新しき樹木の神、若木の息子という名前。
日本ならば、若木比子命とでも言われたのか?
転生前の現世知識が脳裏をよぎる。
ディオニュソスは酒の神で、演劇の神で、狂乱の神。
酒そのものにして、死と再生を自ら繰り返す酒の神。
アムリタ、蜂蜜で作った神の酒は、微温くて甘すぎたが、その濃厚な甘みが脳天を貫き、俺の魂は宇宙へと飛んだ。
*
「だから、俺は酒を飲む」
二杯目のヤドヴィガがすっと出てくる。
ペイ・オン・デリバーで、店の専用通貨「ゴールド」を支払う。
普段の二杯目は、すきっとしたモダンタイプのチョーサーやバーソロミュー、あるいは、国産蜂蜜酒、会津ミードの「美禄の森」を選ぶのだが、最近、覚えた悪い飲み方を実行するために、国産ウィスキー「白州」を追加する。
ヤドヴィガ5に対して、白州1。
軽く揺らして、飲めば、神の味わい。
蜂蜜酒に強い酒精を加え、活力を加速する。
「ヤバイ」
一口飲んだ女将が口を抑える。
「ダメなお酒だわ」
ああ、だから、酒はやめられない。