声に囚われて 中島 早希の場合
「ねえ、kissしよう」
目を見開いた先輩の顔をマジマジと見つめた。
この時、なんであたしはあんなこと言ったのだろうか。
完全に感情のコントロール出来なくなっていたのは確かだ。
「お前、本気か?」
「別にイヤなら良いよ」
「今更やめると言っても、止めないからな」
先ほどずっと好きだった男と別れた。それもただ別れたわけじゃない。結婚の約束までして、両親に挨拶に来る日まで決まっていた。
それなのに、酔って譲りの女と一晩過ごして子供出来たとか。
しかも別れ話をしにきた男の後ろにいたのは、この間まで友人の彼氏を寝取って揉めていた女だった。
「本当に、彼の子?あなた二ヶ月前まで、あたしの友達の彼氏、寝取ったじゃない」
「それは、本当か?」
「それはその女に聞いたら?」
お腹に子供が居るのが本当かどうかわからないけど、もしいるのなら…案外誰の子がわからないから、手当たり次第父親になってくれる男を捜しているのかもしれない。
そんな女に引っかかった彼を、本当に好きだったのだろうか。
その場で醜い言い合いを始めた二人を見ていたら、何もかもがイヤになった。
――バカみたい。
こんなにも簡単にそう思えたことが、余計に腹が立った。
自分にも、彼にも。
「さよなら」
2年間の思い出はものの10分で崩れ去った。
別れって、こんなにも簡単だったのか。
男、見る目ないな。あたし…。
フラフラと歩いていたら、懐かしい場所に来た。
なんでここに来たのだろう。
ほんの数年前まで通っていた高等学校。表の校庭では部活の真っ最中で元気な叫び声が聞こえる。サッカー部と野球部かな?フェンス越しに女の子達が応援しているのが見える。
なんだか微笑ましい。
裏って今はどうなってるのだろう。ここで告白されて付き合った二人は結婚する、なんて噂があって一時期ここで告白したりされたりすることが、流行っていた。
そんな私もその中に混じっていた一人だ。
ただの噂だって、わかってるけどね。夢見るのは楽しかった。
恋に恋してまっすぐだったあの頃の思い出は、甘酸っぱい。
今のように、辛み成分なんてなかったから。
もう、恋なんて出来ない。
「中島?」
不意に声を掛けられて振り向くと、部活で一緒だった先輩が居た。
「先輩?どうしてここに」
「それは俺の台詞、俺はここで臨時講師をしてるんだ」
「へえ…意外」
「まあ、そうかもな。お前は?」
「あたし?あたしは…」
振られたからやけくそで彷徨っていたらここに来た、なんて言えない。
紅く染まった空から、闇が支配を始める時間。
逢魔が時。
寂しさと悲しさとやけくそで、ただ一人になりたくなくて魔がさした。
気がついたら、誘っていた。
今ならわかる、あたしがなんで魔がさしたのか。
建物の壁に押しつけられて、噛みつくようにされたkiss。私が抵抗しないと分かると、啄むようなkissが繰り返された。
―――やられた。
あたしはこの時既に、彼に堕ちていたのだと思う。
こんなに気持ちいいkissは、初めてだった。
その時はこれでさよならだと思っていたのに、彼はkissまでしておいて今すぐさよならとか、お前どこの悪女だと更に自分を刻み込むように、キスの雨を降らし始めた。
「足りない」
耳元で囁かれる声に、子宮が疼く。
この声が、あの頃は好きだった。
今思えばあの声優さんが好きなのも、先輩の声に似ていたからかもしれない。
唇の形も、厚みも、舌も気持ちいい。
この時だけはあの男の顔すら忘れていた。
あたしの目の前には、部活で憧れていた先輩しか居ない。
今はただ、欲望に忠実な女であってもいい。
明日にはきっと違う自分が居る、そんな気がするから。
「まさか、逃げられると思ってないよな?早希」
耳元で喋らないで。
「俺の声、好きだろ」
なんでバレてんのよ!
「お前の声も、もっと聞かせろ」
「せ、先輩!」
「名前、呼べ。そして堕ちろ、…こうやって、囁いてやるから」
止められることのないkissに、クラクラしてくる。
こんなにkissしたこと、今までにあっただろうか。
――あったとしても、止めたくないkissはなかった。
「早希…俺にしろ」
もはやこの声は毒でしかない。耳から入ってきた毒は全身に回って、あたしを狂わせる。
「こうされるの好きだろ?」
抗えない。
抗えるわけがない。
kissされた時ですらあの男を忘れていたというのに、目を瞑っているkissの合間に声を聞かせるとか、凶悪な男だ。
「誰か来る」
「俺は構わないよ。お前を彼女だと紹介できるから」
どこまでが、本気?
「それとも、人前が好きだとか?」
「そんなわけないでしょ!」
耳舐めないで、囁かないで、リップ音響かさないで!
「いや、か?」
ダメだ。どれだけの色んな言い訳を並べても、誤魔化しようがなくなっている。脳内を占めているのは、この男のことだけだ。10分前まで、恋なんてしないって宣言したのに。
「いや、じゃない。直也」
「やっと素直になった」
誰かの息を呑む声が聞こえたけど、もう気にならなかった。
もしかしたら、彼のことが好きな女の子だったかもしれないけど、こんな凶悪な男は無理だから諦めなさい。
本当に悪い男。
私の人生、紆余曲折しすぎてない?
10分で振られて、10分で堕ちるとか。
どこの三流ドラマ?
事実は小説より奇なりとは、よくいったものだ。
kissから始まる恋があっても、いい。




