ずーっと以前に書いた創作怪談シリーズとショートショートシリーズ
追憶の迷宮
どうやら道に迷ったらしい、と気がついたのは、もう随分前のことだった。
紗枝子は、むっつり黙ったままだった。
わたしは、なるべく平静な顔をしたまま歩きつづけた。まだ日は高い。日没までは2時間もある。地図もあるし、日も出ているから、アナログの腕時計で方位も知れる。時計の短針を太陽に向け、12時との丁度真中が南だ。時間は午後4時だった。
ハイキングに出かけようと誘ったのは、紗枝子の方だった。
わたしは、もろ手を挙げて賛成した。高校生になったはずの紗枝子との関係はギクシャクしていたからだ。娘は、母親に似て強情な女だった。しかし、だからといって、愛していないわけではない。出来るだけ、いい関係でいたいのが本音だ。
ハイキングに出かけたのも、そんな娘がめずらしく自分から何処かに連れて行って欲しいと言ったからだった。1時間ほどの高速道路と、30分ほどの一般道でたどり着いたのは、観光用の登山道だった。ハイキングというには少し坂が急だった。だから、ロープウエーを使って頂上まで上り、帰り道だけを歩くことにしたのだった。
紗枝子は張り切っていた。
「わたしが、地図を見るからね。」
そういって、わたしから地形図を取り上げた。娘と二人で出かけるのは何年ぶりだろう。どのくらい以前だったかすら思い出せないほど前だったことは確かだ。わたしは、娘のはしゃぎぶりを微笑ましく見つめていた。
もう、何年も家でゆっくりしたことがなかった。仕事が忙しいのだ。アパレル業界は不景気の影響を受けやすく、そんな中でも、わたしの勤める中小企業はすぐに首が絞まってしまう。サービス残業なんていう言葉は意識にすらのぼらないほど日常茶飯事だ。当然帰宅時間は深夜になる。妻ともろくに会話がない。日曜に出勤することも珍しくなかった。 不景気になって、仕事の量自体は減っているのだが、業績悪化をカバーするために、地道な努力、いや、そういうより無駄な足掻きをしているわけだ。とくに、私の年齢層はリストラ対象になっているから、とくにそうだった。同年齢の同僚たちの中には諦め半分で仕事をしているものも多いが、わたしにとって、この仕事は生き甲斐のようなものだ。なんとしても、業績を伸ばしたかった。
「このあたりでお弁当にしようよ。」
紗枝子は、楽しそうに笑った。わたしは、途中のコンビニで買ったおにぎりを取り出して娘に渡そうとした。
「いいの。わたしはいらないの。」
「駄目だ。ちゃんと食べないと歩けないぞ。」
そういって、わたしは紗枝子に無理におにぎりを手渡した。紗枝子は困ったような顔でそれをうけとった。
道に迷ったのは、昼食の後だった。相変わらず地図を離さない紗枝子の案内にまかせて山を降りていったわたし達は、突然地図に無い川原に出くわしたのだ。
「おかしいわ、こんな川は地図に無い。」
紗枝子は、不思議そうに笑った。
わたしも、つられて笑ってしまった。道に迷って、こんなに楽しいのは初めてのことかもしれない。
「どれ、地図を貸してごらん。」
わたしは、紗枝子の方に手を伸ばした。
「ううん。今日はわたしが地図を見る約束よ。」
紗枝子は笑ったまま答えた。
「そうだったか?父さん、忘れていたよ。」
わたしは、苦笑して言った。地図に乗っていない小さな小川を見ながら、その時は、こんなハイキングで来るような山で遭難するなどとは思っていなかったのだ。
わたしは、以前から仕事熱心だったわけではなかった。5年前、わたしは急に仕事が楽しくなった。理由はもう、覚えていない。それまで見えていなかったものが見え始めたという気がしたのだ。ただ、それ以来、家には定時に帰らなくなった。妻は、それに文句を言わなかった。強情だった妻も、5年前からふさぎ込むようになっていた。二人きりでいるのが苦しかったのかもしれない。だから、余計に仕事に打ち込んだのかもしれない。
以前は娘とわたしはよく、ハイキングや釣りに出かけたものだった。まだ娘が小学生のころだ。母親とは、仲が悪かったわけではなかったが、わたしと娘はとてもウマがあっていたのだ。休日になると大抵二人で遊びに行った。もともと体は丈夫な方ではない妻は、4,5回に一度くらいしか一緒に出かけなかった。わたしと娘は、お互いを信頼できる遊び相手だったのだ。
あのころも、ハイキングにはよく出かけたものだった。小さいころから、屋外で飛び回るのが好きだった紗枝子は、わたしに一人前だというところを見せたくて一生懸命地図を覗き込んだり、へとへとになるまで歩いたりしたものだった。そして、そういう時には、学校のことをよく話してくれた。たわいも無い話だったが、わたしは時々相槌を打ちながら聞いていた。楽しい会話だった。内容がどうということよりも、話をしてくれる紗枝子とハイキングをしていることが楽しかったのだ。紗枝子も楽しんでいるように見えた。小学校を卒業し、中学生になったころはどうだっただろう・・・
「ねえ、お父さん。やっぱり分からないわ。」
紗枝子はついに降参した。地図と木々に囲まれた山道を見比べることに飽きてしまったらしい。
「ははは。じゃあ、わたしが交代しよう。」
わたしは、地図を受け取りながらあたりを見渡した。新緑が濃かった。目標になるような地形は見渡すことが出来なかった。
「だいたいの見当はついているかい?」
わたしは娘に尋ねた。
「ううん。全然。ごめんなさい。」
紗枝子は、幼い表情で笑ったまま言った。こういうところが、かわいいのだと思った。ただ、その笑顔だけで全てを許してしまいたくなるところが。
とにかく、地形的な特徴がある場所まで移動するのが、こういう場合必要だった。やみくもに地図上で見当をつけるのは正しくはない。素人が勘を頼りに山道を歩くなんて無鉄砲すぎるというものだ。わたしは来た道のほうへ歩き出した。
しかし、覚えのある見晴らしのいい丘へは出ることが出来なかった。そんなはずはないと思ったのだが、途中で道を間違えたのかもしれない。わたしは、紗枝子に詫びながらまたもと来た道へと歩き出した。
「わたしたち、親子そろって方向音痴ね。」
少し疲れて来た紗枝子は、それでも笑顔のまま言った。
「ああ、そうだな。」
わたしは、それだけ言うともくもくと歩きつづけた。
だが、やっぱり丘へは出ることが出来なかった。それどころか、あの、地図には存在しない川原へと出てしまった。
「あら、ここはさっき来たところだわ。」
紗枝子は疲れきった様子で座り込んだ。わたしも、
「仕方ない、休憩するか。」
と独り言のようにつぶやいて座り込んだ。
さらさらと、水の流れる音が新緑に吸い込まれていく。木漏れ日が、川面に反射してきらきらと輝いた。
川、といっても、小さな小川だ。地図に乗っていなくとも不思議ではない。2,3日前に降った雨が流れている、そんなようにも見えた。
不思議なリズムで反射する川面を見ながら、仕事に打ち込むようになった理由はなんだったろうか、わたしはそんなことを考えていた。道に迷っても娘と話すのは楽しいのに、何故仕事ばかりしていたのかが分からなかった。何故、娘と一緒に過ごさなかったのか。中学に上がってから、紗枝子は少し家に閉じこもるようになったかもしれない。勉強もしなくてはいけない年になったからだ。そして、いつの時からか、わたしはぱったりと紗枝子を遊びに誘わなくなり、仕事に打ち込むようになった。
それは何故だったのだろう。確かに、妻がふさぎこむようになって、家にいることが息苦しかった。二人きりで、ただ黙って食事をすることが耐えられなかった。考えたくない嫌なこともいろいろと思い出してしまう。そういえば、妻は何故ふさぎこむようになったのだろう・・・。
「そろそろ、行く?」
紗枝子は、わたしに声をかけた。わたしは、ふと、我に返って娘の顔を見た。昔のままの紗枝子だった。5年前と何も変わらないままの紗枝子だった。
その時、思い出した。
妻がふさぎこむようになった理由。押し黙ったまま二人きりで食事をするようになった理由。わたしが仕事に打ち込むようになった理由。
その日、紗枝子はいつもどおりに中学へ出かけていった。次の日曜にハイキングに行こうと朝食の時に話した。だが、それには行かなかった。登校中に紗枝子は交通事故にあったからだ。
紗枝子が交通事故で重傷だという連絡を受けたのは電車の中だった。まだ持ち始めたばかりの携帯電話が、背広の中で鳴ったのだ。わたしは、周りからの冷たい視線を感じつつも、何処か誇らしげに携帯電話を取り出したのだ。5年前、携帯電話は、今ほどには普及していなかった。
だが、その電話からは恐ろしい言葉が流れたのだ。
わたしは、すぐに電車を乗り換えて病院に向かった。集中治療室に入っている娘を見ることは出来なかった。医者からは危険な状態にある、とだけ聞かされた。わたしと、遅れてやってきた妻は顔を見合わせて押し黙った。
だが、紗枝子は一命を取り留めたのだ。大変な手術だったようだ。まだ、意識は戻っていないという紗枝子の顔を見て、わたしと妻は涙を流して安心したのだ。不思議と、すぐに起き上がりそうに見えたのだ。医者が言うにも、外傷はひどくないのだという。ただ頭を強打したために、しばらくは体に障害が残るかもしれないと聞かされた。
なのに、紗枝子は起き上がらなかった。意識が戻らないままだった。死んでいるわけではないのだが、ベッドに横たわったまま眠りつづけていたのだ。そしてそれから5年間も。
今日の朝、紗枝子は突然にわたしの前に現れて、何処かに連れて行ってと言ったのだ。わたしは、なにも疑問をはさまずに請合った。わたしは、考えればつらくなる紗枝子のことを、忘れようとして5年を過ごした。死んではいない娘のことを、朝早くから仕事に行って夜遅くに帰って来ることによって、何もかわらず普通に生活しているのだと思うようにし続けていたせいだろう。いつしか、そう、信じていた。娘は毎日元気に生活している、と。
娘は押し黙ったまま、わたしの前を歩いていく。新緑が傾きかけた日に哀しげな光を反射していた。いくぶん影の薄い娘は、ただ押し黙ったまま歩きつづけていく。もう、地図も見ない。さっきまで迷っていたのが嘘のように歩いてくのだった。最初から帰り道を知っていたように歩いていく。
ただ、ひたすら前だけを見て歩く娘は、少しずつ大人びていくように見えた。そして、少しずつ痩せていくようにも見えた。まるで、長い間ベッドに寝かされていた病人のように。日は、どんどん傾いて、あたりが赤く変わっていく。
その時、わたしには、今日紗枝子が現れた理由が分かったような気がした。そう、紗枝子は衰弱しているのだ。5年間という長い間、ベッドに寝たきりの娘は、この世から去ろうとしているのだ。そして、わたしに一緒に来て欲しい、と願っている。
どんどんと歩いていく紗枝子はやつれた病人のような姿からは想像もつかないほどの早いペースで歩いていった。わたしはついていくだけで精一杯だった。ずうっとついていくつもりだった。あたりは、木々に遮られて夕日が差し込まなくなってきていた。もう、足元すらも薄暗くて見えなくなってきていた。時々、わたしは小道に伸びてきている根に足をとられてふらついた。だが、紗枝子は全く危なげなく歩いていくのだった。もう娘の後姿を追うよりほかに無かった。その姿もシルエットになった。
紗枝子は、突然立ち止まった。
わたしは、娘の背中を見たまま声すら掛けられなかった。ただ、二人とも押し黙ったままだった。
どのくらいの時間、そうして立っていたか分からない。ほんの一瞬だったか、それとも5年だったか。紗枝子は突然振り返った。5年前の、元気な紗枝子だった。
「お父さん。ちょっと、行ってくるね。」
わたしは、面食らって言った。
「わたしも、ついていこうか?」
紗枝子は、笑って言った。
「ううん。やっぱり一人で行くから。」
そういうと、すうっと紗枝子は歩き出した。わたしは、一瞬の間ぼうっとしていたようだった。あまりの唐突さに、驚いていたのだ。我に返って、わたしは一歩を踏み出した。そして踏み出した一歩が、それまでの土の感触ではなくアスファルトのそれだということに気がついた。
そこは、登山道の入り口だった。