Mar
ちょうど彼が、分厚いスエットから薄手の長袖に部屋着を変えた日だった。
「倫子、再放送やってる!
覚えてるこのドラマ?」
ビールを飲みながらテレビを見ていた彼が、そう声をかけてきた。
「あ、これ!」
ずぼらな私でさえも、一回も見忘れたことがなかったそのドラマは、
2年前二人で絶対みると決めていた30分という短編のカップルのお話し。
直人がはまったのが見るきっかけだったけど、毎週絶対二人で見ると決めていた。
「え、最終回じゃん!
もう、早く気づいてたら1話からずっと見てたのに。」
彼がはぁとため息をこぼす。
私も一緒に見ようとタオルでぬれた髪をふきながら、台所にコップを置いて彼の隣にすわった。
「結局これどうなって終わったっけ?」
「倫子忘れたの?」
「いや、なんとなく覚えてるけど、セリフまでは覚えてないから……。」
直人がおつまみとして食べていた奈良漬を、私はつまんだ。
「あの喧嘩の後、二人で話し合いをして仲直り一度はしたんだけど、
女の人が仕事で海外行くことになって、
結局1年間距離置くことになったじゃん、覚えてない?」
「あ!」
彼の言葉で思い出した。
そうだテレビの中の彼らは、1度大きな喧嘩をしてそのあと仲直りした。
だけど彼女の中のわだかまりは取れなくて、
ずっと彼に相談できずにいた、海外にお仕事することを一人で決めたんだった。
「彼は彼女が自分に相談してくれなかったことで、
ようやくこのままじゃいけないって、本当の意味で気付くんだよね。
それで、彼も彼女に日本に帰ってくるまでの1年間、距離を置くことを決意した…。
直人あってる?」
「あってる。
あ、ほら帰ってきたよ。」
直人の言葉の後、CMから開けると空港から場面ははじまった。
画面の中の彼はスーツに身をつつみ、出口で彼女を待っている。
すらっと髪の毛を胸の下まで伸ばした彼女が出てきた瞬間、
彼らはどちらからともなく駆けあって、数秒見つめ合う。
涙を目に浮かべた彼女。
抱擁も、言葉を交わすことも、何もしない。
ただ見つめ合うだけ。
それでもその目が二人の気持ちを物語っている――――。
「ただいま。」
「おかえり。」
二人はようやく言葉を交わすと、抱き合った。
空港の大きな窓から差し込んでくる光が、二人のこれからを導いてるみたいに、彼らを照らした。
そこから場面は変わり、後半に入ると
彼女が海外に行く前と変わらない彼らの日常が始まる。
夜ごはんを向かい合いながら食べている二人。
醤油とってと言わなくても彼女が彼に手渡したり、
彼女がご飯をこぼしたことに彼が微笑んだり、
一つ一つのしぐさが幸せにあふれている。
私はそこに何か通じるものを感じて、
思わず直人の顔をのぞき見したのだけれど、直人はドラマに必死みたいで私の様子に気が付かない。
でも彼の、ドラマに真摯に向き合っている横顔が少しおかしくて、
私がぷぷっと思わず笑ってしまうと、さすがに直人は私に気づいて、なんだよと照れながら私を軽く小突く。
何でもないよ、そう返事しながら私はまた笑う。
テレビの中の彼女が笑うように。
「なあなあ、俺のパンツ知らない?」
ご飯を食べ終わったテレビの中の彼が、お風呂に入ろうと彼女に下着の場所を尋ねた。
「え?洗って今日たたんだよ?
そこにない?」
彼女はたたんだ衣服のタワーに指をさした。
「あ、あった。」
「しっかりして。」と言いながらも笑う彼女の表情は、未熟な蕾が花びらをきれいに広げた花のようで、彼はそんな笑顔にやられたのか彼女に近づいてキスした。
「お風呂入るんでしょ?早く行っておいで。」
照れた彼女はごまかすようにわざと彼を突き放す。
彼ははーい。とおどけた口調でお風呂場に向かう。
しかし途中、彼はドアの前で立ち止まって
「なあなあ。」
「何?」
「俺のパンツ洗うの嫌じゃないの?」
唐突にそう切り返した彼に、彼女は吹き出すように笑った。
「なんで嫌なのよ。
同棲始めたときからずっと洗ってきたんですけど。」
「まあそうだよね~。」
「そうだよ。」
変なのとくすくす笑う。
「じゃあさ。」
「なーに?」
時計の音だけがチッチと音を立てる。
「これからも俺のパンツ洗ってくれますか。」
一瞬驚いた彼女の表情、
そこから視点は彼女の口元に移動すると、
ふわっと緩んでドラマを終わった。
「あー、このセリフね!思い出した!
二人が好きなお笑い芸人のネタのセリフなんだったっけ?」
「そうそう。二人らしいよなあ。」
「本当だね。」
最後の奈良漬を私は食べてしまう。
「倫子?」
ドラマを見ていた時と同じ真剣な表情の彼。
「何?」
上ずる私の声。
えっとえっと、このタイミングで?
ドラマに触発されて、もしかしてもしかして…
直人、直人、まさかまさか
「俺のパンツずっと洗ってくれる?」
想像していた通りの言葉。
ドラマで彼が彼女に告げたセリフ。
でも違うのは…
「もう緊張して損した!そんな笑いながら言って!」
私は彼の肩を軽めにたたいて、感情をぶつけた。
「ごめんごめん。」
反省してるのかしてないのか、彼は変わらずふざけた調子でそう言う。
「ドキドキした?」
「してました。」
なんて言えるはずもなく。
「してないですー。」
って言って、私はごまかすように視線をよそに向けた。
「したくせにー。」
彼はねえねえと私の肩をツンツン何度も何度も懲りずに。
「もう、うるさいよ!」
耐えきれなくなった私は笑いながら、彼を見た。
「したの?」
「もう!したよ、ばか。」
私は彼に抱き付いた。
「…可愛すぎかよ。」
今度は彼が照れたみたいで。
ドキドキした?
と今度は私が彼をからかい始めた。
すっかり乾いた髪を、テレビを見ながらくしでといていた。
「倫子、寝るよ。」
「はーい。」
寝室から聞こえてきた、ベッドに横になっている彼の声。
私はテレビを消して、隣に転がる。
寝室の明かりはまだつけたまま。
二人で向き合って、寝る前の小さな談笑。
特別な日じゃなきゃ、
今じゃ腕枕はしなくなってるのだけど、今日はなんだか彼に甘えたくて。
「…左腕くださいますか?」
お仕事で疲れているであろう彼を気遣いながら、恐る恐るそう言ってみた。
「ばか、どうぞ。」
照れ笑いしながら彼は私に腕をのばす。
「やった。」
なるべく体重が腕に乗らないように、腕を首に挟む形にして私は頭を乗せた。
「直人の腕好きだよ。すぐ寝れそう。」
「腕だけかよ。」
「腕だけ。」
彼の突っ込みにくすくす笑う。
「俺は二の腕好きだよ。」
「あ、ばか。」
私の二の腕をふにふにと触る彼。
「もう、嫌い。」
「ごめんごめん。」
それでも触ることをやめない彼に、
「もう」といいつつ、私はおかしくってまた笑う。
「痩せなきゃなあ。」
「え、十分倫子細いじゃん。」
「じゃあなんでふにふにするんだよ。」
「ごめーん。」
あーおかしいと言いながら、私たちは笑いあった。
いつも寝る前はこんな感じで、
適当に思ったことを話して、何も頭で考えることなくお互い話し合う。
他愛ない時間、でも大切な時間。
とってもとっても幸せな時間。
「お仕事お疲れさま。」
「……お疲れさま。倫子は優しいなあ。」
「そうかな?」
彼が優しく私の頭をなでる。
「うん。俺の癒し。」
「変なの。
でも私もね、この腕枕が癒し。」
彼の腕に左手で触れた。
「そんなに好き?」
「うん。大好き。」
「ふーん、じゃあさ。」
彼は撫でる手を止めた。
「腕枕これからもずっと俺にさせてくれる?」
「え、いいの?いいの?お願いします。」
自分でも目がキラキラしていることが分かるぐらい、
彼の言葉は魅力にあふれていて、私はぺこっと頭をさげた。
「…意味わかってないね。」
「ん?腕枕でしょ?」
私の返事に彼はため息をはぁとついた。
「あーもう倫子の天然、ばか、あーほ。」
私の方に向けていた体をよそに向けていじけた彼。
「え?え?」
「だから!」
振り返った彼は耳までほんのり赤い。
「なんで照れてるの?」
きょとんと私は尋ねた。
「あーもう!」
彼は私を勢いよく抱きしめる。
ぼそぼそっと本当に本当に小さな声で
10文字程度の言葉を。
彼はすぐに離れて、またよそを向く。
私は私でいっぱいいっぱいで、何が何だかわからなくて。
「……直人、もう1回言ってくれない?」
なんて、、無茶ぶりを…。
「はー?」
案の定、若干呆れた様子の彼が振り返ってきた。
私は手で顔を覆って、隙間から彼の顔をのぞく。
「倫子の返事聞いたら。
……で?」
詰め寄る彼。
「えっと…。」
なんて言えばいんだろう。
ドラマじゃセリフなんかなかった。
なんでセリフなかったんだろう、あったら勉強になったのに!
「やっぱりおあずけ?」
黙ったままの私に彼はおずおずと弱気に聞いてくる。
なんか言わなきゃ、早く、はやく。
でも言葉は全然でなくて。
だから、だから
手をはずして、
私は指でその答えを―――。
口元を緩めて。
****
会社からの帰り道、私は一歩一歩小さな歩幅で帰っていた。
大事にしてくれた人に、大切にしたい人のことを電話で話していたから。
「本当に大丈夫?
あなた抜けてるんだから、頼りっぽ無しじゃ駄目よ?」
「もう分かってるよ。」
相変わらず、電話するたびにそう言われる。
もう一歩、私また大きく成長しようとしてるのに、いつまで言われるんだろう。
感慨にふけながら、私は言葉を紡いだ。
「ちゃんと二人で仲良くしてるから。
じゃぁまた週末挨拶に行くからね、日にち決まったら教えるね。」
「私たちは後回しでいいから、直人君の方を優先させるのよ?
私もお父さんも何も言わないから。」
「分かってる。」
直人は許さないと思うけどな、そう思いながらも私はそのまま聞き流した。
ピンポンパンポーン
「あ、ごめん電車くるからそろそろ切るね。
家につくし。」
プルルルルルル―
警笛音が激しく響き渡る。
「うん、わかった。
体、気を付けてね、無理しないのよ。
直人君もお体大事に。」
「はーい。じゃあね。」
「あ、倫子!」
ガタンガタンガタン――――
私の横を通りすぎる電車。
「おめでとう。」
プープー
電車が通り過ぎるまで、
私はその場に立ち尽くしていた。
****
玄関のカギを開けると、食欲をそそられる良い匂いに迎えられた。
「おかえり~。」
開いているリビングの扉の向こうから、彼の声も出迎えてくれる。
ごはんをしてくれているようで、水道のジャーって音と、火を使う音も聞こえてきた。
私は返事もせずに、靴をそろえて足早に彼のもとに駆けた。
鞄を勢いよくその場に落とすと、私は彼の背に抱き着く。
「うわ!どしたの!」
ふいなことに、彼の口からすっとんきょんな声が飛び出した。
「うん、ちょっと抱きつきたくなってね。
ただいま。」
ぎゅっとまた腕に力をこめる。
「……そっか、なら仕方がない。」
なんで?と理由を聞かず、彼は手にしていたトマトをまな板の上に置いて、私の手に触れた。
「さっき電話しといたよ。
いつでもいいから、うちは後回しでお願いだって。」
「俺もさっき電話で同じこと言われた。
あんないい子、いただくんだからって。」
「…。」
私は彼の背にぐりぐりと頭をすりつけた。
「何、どうしたの?」
私はそれを続ける。
「嬉しいの?」
動くのをやめて、私は上下に1回頭を擦り付けた。
「倫子は本当、可愛いね。」
彼は私の腕の中で向きを変えた。
顔を近づけて、私の表情を見つめてくる。
「あ、あんま見ないで。」
恥ずかしさから彼の胸に顔をうずめた。
「だーめ。」
すぐに彼は私を体から離すと、そのままあごをくいっと持ち上げて、私に表情を近づけた。
き、キスする時の距離で見つめられるなんて、、
「っ。」
「ん?」
「そんな、そんな……」
「何?」
愛しそうに私を見ないで。
「あっ。」
私に覆いかぶさるように直人は唇を奪った。
それが触れるだけの、優しいキスだった。
触れたところから彼の熱が伝わってくる。
頬がだんだんと赤く染まっていくのが自分でも分かった。
首に口づけを落として、彼がまた私の瞳をのぞく。
「……倫子ちゃん、真っ赤。」
くしゃっと顔を崩して、彼は悪戯に笑った。
「こういうときだけ、ちゃん付けはずるいよ。」
ぽすっと彼の胸を頭でたたく。
「ごめんごめん。」
ポン、と直人は私の頭を撫でた。
「さて、おなかもすいたことだし、一緒にごはんしよう。
このまま倫子とじゃれてたい気持ちもあるけど。」
にこっとほころんだ彼の表情に、私も破顔すると
そのままつま先をたてて彼にもう一度唇をあてた。
「あ、こら。」
そう怒った風に言っても、照れは誤魔化しきれてないよ、そう思いながら、
私は彼の耳元にささやいた。
「直人くん、だいすき。」
****
二人で作った夕食を食べ終わった後、
珍しくお皿を片づける前に彼が話を切り出し始めた。
「倫子、話があるんだ。」
一瞬、別人かと思えた。
いたく真剣な表情で、はっきりと彼の言葉が耳にすっと入ってきた。
「……えっと、お皿片づけてからにしない?」
彼の雰囲気に飲み込まれそうになりながら、私は穏やかに彼に告げた。
「あ、うん、そうだね。」
彼がごめん、と短く笑って私のと自分の食器を洗い場にさげた。
私もお醤油とお茶をそれぞれしまって、いつもより急ぎめに4枚のお皿とコップを洗った。
その間も彼は私の隣で黙ってそれを見守っていた。
一通り段取りがつくと、また私たちはテーブルの前に座った。
テレビは今日はつけていなかった。
「それでどういうお話かな?」
「うん、あのね倫子。」
直人の言葉の後、間が少しあいて、彼はポケットに入れていたらしい“それ”をテーブルの上に置いた。
「それって。」
記憶に新しかった。
彼にもうそのことを聞こうとは思わなかったけれど、
仲直りしてからも、私は頭の片隅でその中身のことを考えていた。
ちらっとそれを見ると、リボンをつけた熊が私に優しく笑いかけていた。
「話してくれるの?」
直人はうなずいた。
それから彼は私の中のわだかまりを溶かすように、言葉を選んで話し始めた。
「まず、謝らせてほしい。
ごめん、説明するの遅くなって。いっぱい不安にさせてごめん。
あの日、寒い中外に駆けださせてごめん。」
「うん。」
「改めて、これは玄野からバレンタインの時にもらったケーキの中に入ってたものです。
でも好意とかそういうのが書いてあるんじゃないんだ。」
「玄野の友達に、ウェディングの仕事をしてる人がいるらしくて、
その相談をいろいろ聞いてるうちに仲良くなって。」
「……うん。」
「だから、この手紙もそういう関連のものっていうか。
まず倫子さんに告げることからでしょ!って書いてあるむしろ背中を押される手紙で……。」
彼はぐしゃぎゃと後ろ頭をかいた。
「それであの時は手紙の内容説明できなかったの?
私にまだ告げてなかったから。」
こくんと彼はうなずいた。
「俺はなんだって言えるし、手紙見て。
実際確認しないと不安だと思うし。」
彼が手紙を手に取り、封を開いた。
「ううん、いい。」
私は手に触れ、彼の動きを制した。
「直人のこと信じてるから、大丈夫。」
「倫子……。」
「ありがとう、説明してくれて。
私のために玄野さんを通して、お友達さんに相談までしてくれて、
すごいうれしい。
本当ありがとう。
直人、ありがとう。」
私は彼がいつもするみたいに、くしゃっと笑った。
「あーもう。」
彼が私をがばっと抱きしめる。
「怒っていんだよ?
なんだよ、それ!私の心配返してよ!って。」
ふるふると私は首を振った。
「怒らないよ。
そんなうれしいこと言われたら、誰だって怒る人いないよ。」
ずずっと私は鼻をすする。
「私謝らないとなあ、玄野さんに。
すっかり恋敵だと思ってたから。
直人、ありがとうございますって、今度伝えてね。」
彼はハハハっと笑ったかと思うと、抱きしめる腕にまた力をこめた。
「……お前っていうやつは。」
「何?」
彼が私に口づけを落とす。
「本当、一生かなわないや。」
****
くしゅくしゅと泡の音が聞こえてきた。
ポタン、天井からしずくが落ちてきた音も。
「それにしてもなんであんな怖い顔で、
玄野さんのこと話し始めたの?」
「え、怖い顔してた?」
「してましたー!こう眉間にぎゅっとしわが寄って。」
本当はそんな表情してないのだけど、
このぐらいの意地悪…いいよね?
「だって帰ってきてからの倫子の様子がおかしかったから、
玄野のこと気にしてるのかなあって。」
彼がきゅっとシャワーの栓を開けた。
「……ばか。」
「え?何か言った?」
「何でもないですー!」
私は足場にある少しの段差に座って、お風呂場のドアに寄りかかった。
彼が使うシャワーの音がしばらく続く。
目を閉じたまま、私は黙って聞いていた。
きゅっと栓の音がまたすると
「あーさっぱりした。」
彼の声がまた聞こえてくる。
「倫子もおいでよ、一緒に入ろうよ~。」
コンコンと背中にノックされる。
「恥ずかしいもん、やだ。」
私が先にお風呂に入ろうとしたときに、
彼が無理やりお風呂場に入ってきてからというもの、
彼の熱烈なアタックから逃れず、今の構図ができあがっている。
一緒に入ろうと聞かない直人に、
私はお風呂場で彼の話し相手になるということを条件に、
直人とお風呂に入ることから逃れた。
直人が乱入してきた時にはもうズボンをを脱いでいたおかげで、
私は今、太ももにかかるぐらいのTシャツをワンピースみたく身にまとっているだけ。
「直人、早く上がってきて、風邪ひいちゃう。」
ズボンをまた履いてもいいのだけれど、
また脱ぎ直すというのも厄介なもので……。
「……倫子、今淵に座ってんの?」
「そうだよ。」
背中でバンバンとドアを軽く押した。
真ん中を押すと、扉が開いてしまうタイプのため、本当に軽く。
「ふ~ん。」
ちゃぽんと彼が湯船につかる音が聞こえる。
そのとき私は油断していた。
彼が湯船に入ったと思って。
「あ、お風呂浸かった…
ってぎゃあ!」
勢いよく開かれたドアに、私はごろんと背中からお風呂場に転がった。
彼が手で私を支えてくれて、頭をゴツンと打つ羽目にはならなかったけれど。
「も、もう!直人!」
私は眼を閉じたまま、彼に向き直って言葉を荒げた。
「倫子、眼開けても大丈夫だよ。」
「開けません。」
彼の体をまじまじと見れるほど、免疫はまだついていない。
「いいから開けて。
けがしてないか心配だし、顔ちゃんと見せて。」
「っ。」
彼のやさしさに、しぶしぶ目をゆっくり開けると、
ちかちかした光が目の前に広がり、それが溶けるにつれて彼の表情が開けていった。
「タオル当ててるから、眼開けても大丈夫でしょ?」
いつの間に持って入っていたのか、
彼の腰には白いタオルがまかれていた。
それでも、
「上は、丸見えだからだめだよ…。」
ぼそぼそと告げた私の声に、彼は一瞬固まってハハハっと笑った。
「あーあ、服濡れちゃったね。」
「…直人のせいだもん。」
私は彼の頭を軽く小突いた。
「じゃあいいよね。」
「え?」
ふわっとそのままお姫様だっこされたかと思うと、
「きゃっ!」
ザブンとお湯が大きく揺れた。
「直人、ちょっと……もう!」
「濡れてたんだからいいでしょ?」
耳元で彼が意地悪にささやいた。
そのままぎゅっと彼が私を後ろから抱きしめる。
「倫子と初お風呂。」
「もう……。」
背中が少し濡れた程度だったTシャツが、見る影もなくずぶぬれへと化していた。
振り返って彼の表情を見ると、すっかり口元は緩んでいる。
「しょうがないなぁ。」
ぼそっとつぶやいて、
左手ですくったお湯を彼の顔にぴしゃんと当てた。
「わ、こら!」
「お返しだもーん!」
彼とのお湯のかけあいが始まる。
お風呂場に響く、私たちの笑い声。
「はい、捕まえた。」
「あーあ。」
彼に捕まった両手は彼にぎゅっと握られて、そのままお湯の中へ消えていった。
ポタン
また滴が床に落ちた。
「私ね、お風呂場の空気感好きなの。」
「へー。」
「シャワーの音、結露でできる天井の滴がポタンって落ちてきたときの音、
水のぱしゃんって音。
外部から一気に遮断されたように感じない?」
私は彼の肩にそのままのけぞるように寄りかかった。
「独特の空気感あるもんね、お風呂って。
小さいころは頭洗うときに、後ろに幽霊とかいそうで怖かったけど。」
「何それ。」
大真面目な表情で語った彼に私は笑った。
「あ、冗談だと思ってるんだろ?
本当俺、怖かったんだから……。」
「はいはい。」
私は優しく彼を諭した。
チヤポン
湯船に潜り込んでいた私の左手を彼が、水面より上に浮かばせた。
左手の薬指に触れ、そのままぎゅっと指を絡ませて握る。
「3月中に挨拶終えたいから、来週倫子のところで
再来週俺のところにしよう。」
「……あたしのところが先なの?」
「当然。」
「お母さん怒っちゃうかもよ?」
「俺の親のほうが黙ってないから。」
ふふふっと私は笑った。
「直人とずっと一緒にいられるんだね。
ずっと、ずっと。」
「…だよ。」
「幸せ。生まれてきてよかった。
直人に出会えてよかった。
大好き。」
こぼれるように私の口から直人への思いがあふれた。
「……あんま、そういうこと言われると、困るんだけど。」
「え?」
彼がぐっと私の肩に腕を回し、私を直人に向き直させられ、
「え、ちょ…」
彼の太ももに座る形を取られると、私の唇は奪われた。
「ちゅっ。」
お風呂場にキスの音が響く。
「あっ…。」
何度も何度も彼は私にキスした。
彼が私の頭を手で支え、彼のそれから逃れられない。
「―――ん…っ。」
舌が絡み取られて、安易に息ができない。
こだまする唇の音が耳から聞こえてくるのも、変な感じで…。
恥ずかしくて、すぐに離れてしまいたい、
それでも……
「!」
彼が唇を離した。
私の腕は彼を引き寄せるかのように、彼の首に回っていた。
「こら、止まらなくなるでしょ。」
彼がコツンとおでこをぶつけた。
「……だって。」
すっとこうしていたかったんだもん。
言葉をごくっと飲み込んだ。
「可愛いなあ。」
「ちゅ。」
また響いた。
「頭洗ってあげようか。
俺、もう全部洗い終わったし。」
「え、いいよ?」
「お願い、今日みたいに強行突破しないと、
倫子ちゃん一緒にお風呂入ってくれないし…。」
もう今は、
毎日でもこうして一緒にお風呂入りたいって思ってるんだけどね。
「……分かった。」
彼がくしゃっと私の頭を撫でた。
ザブン―――
湯船が大きく揺れる。
わしゃわしゃと泡立つシャンプー。
もくもくとそれは広がっていった―――――。
「いっぱい買っちゃったね。」
「たまにはいいよ。」
私と直人、それぞれ左手と右手にいっぱい食材が入った買い物袋を振って、
手を繋ぎながら家路についていた。
彼の肩に乗ったままの花びらが、お花見帰りだってことを物語っている。
スーパーの中でもついたままだった花びら。
私は鮭のお返しだ!とばかりに、気づかないふりをして今もこうして彼と歩いている。
いつ気づくだろう?
気づいたらどんな顔するだろう?
早く教えてよ!って怒るかな、それともしれーっとはらうだけかな。
彼が気づくまでどうか花びらさん、ひとりでに落ちないでね。
そんなことを考えてるとは思ってもないだろう彼は、
私の歩幅にあわせてただ歩くだけ。
コンクリートの地面、車が2台ギリギリ通れるかぐらいの細い道。
通学路の標識が度々あって
電柱の足元には小さな野花が生えていたりする。
温かい風。
裏通りで日陰になっているのに、ここでさえもうツーンとはりつめた空気もない。
子供の頃に感じた、お母さんの腕のなかみたいな、
ぬくもりと安心を感じられる、そんな陽気。
2、3匹集まって飛び交う蝶々も春の訪れを喜んでいるみたいだった。
「お花咲いてるね。」
「本当だね。」
私は近所の人の花壇やら、道端にひっそりと生えた小さなお花を見つける度に、
彼に「あ!」って言って指を指して彼にそう報告していた。
何度も何度も告げるから、うんざりしてもいい筈なのに、
そうだね、って穏やかに笑ってくれる。
でもきっとこんな風に帰れてるのは、直人のおかげなんだろうな。
直人がいなきゃ、一歩一歩大事に大事に帰れてない。
早く帰りたい、そう思って 早足で何も気づかずトコトコトコトコ歩いて、
もうとっくのとうに私、家に着いてる。
恋ってだから不思議。
ひどく辛いことがそのひとのおかげで、幸せに思えたり、
明日も頑張ろうって原動力になっちゃったりもするのだから。
「あれ?鍵どこにしまったっけ?」
ドアの前でせわしなく彼がポケットを確認し始めた。
「ズボンの右ポケットじゃないの?」
焦った様子の彼をよそにから返事をして、私は塀から顔を少し出して下をのぞいた。
「倫子ちゃん、鍵の心配が先じゃない?」
私の前ににょきっと顔をのぞかせた彼。
「ごめんなさーい。」
笑いながら返事をして、私は手探りにかばんから鍵を見つけた。
「私が持ってました!」
チャリンと彼に見せた鍵。801号室。
「じゃあ家に入りましょう。」
コツンと私の頭を指で叩いて、彼は鍵を受け取った。
「下覗くの怖くなかった?
2階もあがってるのに。」
ガチャと鍵を回した。
「公園見たいんだもん。」
「「ただいま。」」
「「おかえり。」」
少し広くなった玄関。
一つ部屋が増取り。
ずっと使い続けてきたテーブルと、彼のソファ。
私のと彼とのが混ざり合って、私達の家。
「それにしてもまさか借りなおすなんて、
今でもびっくりだよ。」
靴を脱ぎ終わった私達は部屋に入り、買い物袋と鞄をおろした。
「同棲はじめて最初の頃、倫子狭くない?嫌じゃない?
って間取り気にしてたみたいだから、どうなんだろうって思っててね。
階は違うけど同じ位置なら、少しは慣れてると思ったし。」
両親のところへあいさつに行く前、彼は引っ越さないかと急に相談してきた。
差し出してきたパンフレットを見て驚いた。
それは彼が住んでいたマンション8階。
前の部屋の上の上。
同じ位置で開いていたのはそこだけらしく、
倫子がいいなら、住んでいたアパートの契約を今月で終わらせようとのことだった。
突然のことに私はひどく驚いて、腰をぬかす勢いだったけれど結局彼の気遣いに甘えた。
会社から少し遠のいてしまったけれど、
いつもの道を通って通うことが無茶な距離ではない。
住み慣れたアパートを離れ、最初は戸惑いも多かったけれど、直人の思惑通りすぐに慣れた。
「コーヒーどうぞ。」
「ありがとう。」
買い物袋の中から、缶に入ったコーヒーを取り出し彼に渡した。
すぐに冷蔵庫にいれる必要のあるものだけをしまい、
壁際に置いたソファに二人して腰かける。
「疲れた?」
「ううん、大丈夫。」
一気に飲み干してしまった缶を、私は足元にコトンと置いて彼の肩にそのまま寄りかかる。
「やっぱり疲れたんじゃないの?」
「大丈夫だよ。」
と肩をふるわせた。
「最近、バタバタだもんね。
結構すること多くてびっくりした。」
「私も。」
テーブルの上に置かれた雑誌の束をちらりと見た。
白い教会の前、幸せそうなカップルが笑ってうつっている。
「早く、倫子の姿見たいなあ。
もうちょっと先だもんなあ。」
直人はキャップを閉めて、缶をソファの片隅にぽすっと置いた。
「直人もかっこいいだろうな。
すっごく楽しみ。」
口元を緩めて、私はそのまま肩に寄りかかるのをやめて、彼のひざの上に乗っかった。
「眠くなったの?」
「うーん。ちょっとだけね。」
目にかかった髪を彼は優しくどかした。
「ありがとう。」
「いいえー。」
ちょんと私の鼻先に彼が触れる。
長いような短いような沈黙。
彼がふと思い出したかのように口を開いた。
「お腹ちょっと大きくなってたね。」
「ああ、お姉ちゃんのこと?」
挨拶に行ったとき、直人は軽く姉のお腹を触らせてもらっていた。
前は会うことができなかった、健くんともようやく面会することができ、お酒を二人で酌み交わしていたこともよく覚えている。
「お義父さん……
って真っ赤になって言ってたしね、直人。」
肩を揺らして私はくすくすと笑った。
「倫子だって、
お、お義母さん、って感じだったじゃん。」
「それはしーだよ。」
「なんだよ、それ。」
直人の口元が緩む。
「大切な人がいっぱい増えたね。」
手を伸ばして、彼の頬に私は触れた。
「だね。」
「夏は弟君たちが泊まりにくるっていってたし、楽しみだなあ。
一気ににぎやかになりそう。」
「あいつらうるさいからなあ。」
そう口では言うものの、彼の表情は綻んだまま。
「お兄さんはじめてだったけど、お義父さんにそっくりだね。
びっくりした。
直人はお義母さん似なのに。」
「えーそうかな?」
「うん。
笑顔がお義母さんそっくりなんだよ。」
「倫子は似てないよね。」
「んー、お姉ちゃんとも似てないねって言われるしね。」
「違うよ。」
彼がフルフルと首を振る。
「お義父さんも、お義母さんもしっかりしてるし、抜けてないもん。」
言葉を発した途端、直人はハハハっと笑った。
「もう!」
私は彼の体をぽすっとたたく。
「ごめん、ごめん。」
笑いが収まっていない彼。
「ほら、おいで。」と言われ、
むーと思いながらも私は体を起こして抱き着いた。
「……抱きしめたら許すと思ってるんでしょ?」
「違うの?」
少しの沈黙。
「違わないけど。」
頬をぶすっと膨らませて私はつぶやいた。
「ならいいね。」
ぎゅっと腕に力を込めた彼のぬくもりに、私は甘えるように目を閉じた。
「明日…だね。」
ここのところずっと頭の中でカウントダウンしていた。
その日付が決まってからというもの。
「うん。」
「緊張するね、なんだか。」
少しの間をあけ、彼が恐る恐るつぶやいた。
「…まだ間に合うけど、本当に大丈夫?」
「どういうこと?」
閉じていた目を私は開ける。
「んー、ちょっとでも迷いがあるなら、俺はいくらでも待つって話。
倫子なら俺とじゃなくても、もっと素敵な人に出会えるだろうし。」
「ばか。」
玄野さんに相談をずっとしていたのも、そういう気持ちがあったからなのかな。
私に遠慮してくれてたのかな、自信がもてなかったのかな。
「直人こそ、私じゃなくてもいっぱいいると思うし、嫌ならいやって言って。」
「俺は倫子だけです。」
「私も同じ気持ちです。直人だけです。」
私はぎゅっと腕に力をこめた。
「よかった。」
最後まで優しんだから、この人は。
彼がふいに私の耳に口づけした。
ちゅ、甘い音が耳に伝わる。
「キスしてくれちゃってー、次は何のご機嫌とりなの?」
彼の表情を見つめた。
「カレー食べたいなあ。
倫子、ごはん食べたいなあ。」
にこにこと悪戯に笑って彼は答えた。
「しょうがないなぁ。
特製カレーだからね、福神漬けもあるし!」
「やったー!」と喜ぶ直人。
にこっと笑って、キッチンに向かった私。
その背に、直人はぼそっとつぶやく。
「何か言った?」
振り返った私に、彼は首を振ったけど、
ごめんね、直人。
「愛してるって聞こえちゃった。」




