Feb
私は何度も自身の腕をさすりながら、エアコンのスイッチを押した。
さすってさすってさすって……。
でも服の下にできてる鳥肌はひっこまなかった。
ぽつぽつぽつぽつできてるらしかった。
「はあ。」
部屋の中でも白い息がでる。
開けたカーテンから、白い雪がちらちら落ちているのが見えた。
「どうりで寒いわけ…。」
部屋にぽつんと私の声が響いた。
ぴーんと糸が張り詰めたような空気感。
冷たい静かな独特な雰囲気。
雪が降る日はより強くそう感じる。
エアコンがポンコツなのか、
今日が寒すぎるのか、なかなか温まらない部屋。
コーヒーでも飲んで、温まろう…。
そんな私の思いとは逆に、携帯電話が鳴り始める。
こんなことまで予定通りいかないものかとため息がこぼれた。
「もしもし。」
私は耳に電話を当てながら、コップを用意した。
「倫子?あたしだけど。」
「お姉ちゃん、どうしたの?」
お正月前に少し電話した程度の姉の声。
コーヒーをまだ飲んでいないのに、さっきより寒く感じない。
「じゃーん、お姉ちゃん妊娠した。」
「え!お、おめでとう!」
突然のことに、私の声は一気に大きくなった。
「驚きすぎ。まあまだ3ヶ月なんだけどね。」
私は準備する手をとめて、机の前に座った。
「もう母さんとかに言ったの?」
「うん、喜んでくれた。
健はちょっと泣きそうになってた。」
あきれがちに苦笑ながらそう言う姉。
あの旦那さんなら泣いてもおかしくないね、
私は笑ってそういうと、まあね、と姉も笑い返した。
「倫子は、直人君と結婚しないの?
もう話出てもおかしくなくない?」
「うーん……。
まあそのうちね。直人子供っぽいから。」
「何それ?」
笑う姉。
今できる精一杯のごまかしだった。
結婚なんて話に出るわけがない。
だって彼はもしかすると―――
「男の子か女の子分かったら、すぐ教えてね。」
まわった思考を止めさせたくて、先に声にしたのは私だった。
「もちろん。直人君今日何してるの?」
「昨日の夜から実家帰ってる、
お正月に戻らなかったから、明日まで実家いるみたい。」
「そっか…。
あ、倫子同棲してたって、バレンタインとかはちゃんと作りなよー。
そういうのでなあなあになってくんだから。」
「はーい。」
本気で言ってるのか冗談で言ってるのかよく分からない口調に、
私は我慢できなくて思わず笑った。
お姉ちゃんには、「本気で言ってるのよ!」そう少し怒られてしまったけれど。
電話を切って、
すっかりほったらかしにしてしまっていたコーヒーの粉末が入ったコップの存在を思い出す。
もうすっかり温かくなった部屋に、
それは必要ないやと私はラップをかけて隅の方においやった。
冷蔵庫を開けて、中に入っている物を確認する。
昨日の残り物、いつもの調味料、昨日までだったお肉、いつからあるか分からない林檎、
昨日買ったばかりのバター、チョコレート。
お姉ちゃんに言われなくたって、私は用意をしていた。
ラッピングまでご丁寧に買ってしまっていた。
今年のバレンタインは月曜日。
なんでよりにもよってこのタイミングで。
“彼女”の立場からしたら、
明日作って、会社に持っていくんだろう。
そして、彼に渡すのかもしれない。
もうすっかり彼のとりこになってしまっている私が、
ふらふら踊る“彼女”に勝てるはずがないじゃない。
私は林檎をそのままかじった。
つーんとすっぱい味がした。
****
母から貰った、もう黄ばんでしまっているレシピ本で、私はケーキを作った。
1年目にあげたものと同じ、
小さい頃、私の誕生日にもよく作ってもらっていたものだった。
あちこちに小麦粉やら生地やらがひっついてしまって、
甘いにおいがこびりついてしまっている本を私はしまって、
作ったケーキを彼に見つからないよう、冷蔵庫の奥深くに隠した。
去年はあげなかったバレンタイン。
簡単にクッキーでも作って、写真だけ送ったっけ。
彼はきっとまた笑顔で喜んでくれるのだろう、屈託のない、あの表情で。
でも私は?
不自然に笑ってしまわないかとそればかり心配だった。
ちょうど隠し終わった頃、直人は家に帰ってきた。
「ただいま、倫子~。」
「おかえり。」
腕を広げて、私に抱き付いてくる彼。
3年も付き合うと男の人は愛が覚めてくる、
そうどこからか聞いたことがあって
そうなるだろうと私はどこかで諦めていたのだけれど、
彼は相変わらず付き合い始めの調子で、こうして私に愛情を表現してくれる。
まあもし“そう”なら愛ではないのかな。
ごまかし…?になってしまうのかな。
私は彼の背中をぎゅっと強く抱きしめ返し、離れた。
「ごはん食べた?」
「麻婆豆腐だった。」
上機嫌な彼はメガネをとると、寝室に入った。
「お風呂入ってきたの?」
「うん、入った。もう着替える。
倫子…のぞいちゃだめだよ。」
顔だけのぞかせて、口元をゆるめている彼。
「ばか。」
つられて笑ってしまう私。
姉に言った、子供っぽいもあながち嘘ではないかも。
「倫子もお風呂入ったんだよね?」
「うん。」
「もう今日寝ない?」
「いいけど…。」
いつもより2時間ほど早い、寝に行く時間。
帰省するのに疲れたのかな。
私は横になっている彼の足元の布団をはがして、足をもんだ。
「気持ちいい。」
「疲れた?」
「うん、ちょっと。」
「そっか。」
「倫子、もまなくていいから、ここ来て。」
彼は左腕を広げて、とんとんと開いた懐をたたいた。
私は黙って彼の言う通り、そこに横になる。
「疲れてるのに、腕枕しんどくない?
明日のお仕事疲れちゃうよ?」
見つめ合いながらのおしゃべり。
オレンジのベッドランプだけで
彼の顔を見ることは少ないから、ドキドキ胸打つ。
「大丈夫。倫子軽いから。」
「……ありがと。」
「がちめに照れてるね。」
ハハハっと大声で笑う直人。
うるさいなーそう言いながらも私も大きな声で笑ってしまう。
「親とちゃんと話してきた。」
彼は私の髪を優しく撫でた。
「うん。」
私は彼の背中に手をまわす。
「俺との思い出ある?って冗談で聞いてみたらさ、
おふくろがさ、いっぱい言ってくれたんだよね。」
「うん。」
「俺がおもらししたときのこととかまで、
すごい詳しく聞かせてくれて。」
「うん。」
「倫子のおかげ。」
彼は手をとめて、私のおでこに口づけを落とした。
「私は何もしてないよ。」
「してる。」
「してないよ。」
今度は口に落とす彼。
「…ばか。」
私は彼にもっと近づいた。
「あったかいね。」
「あったかい。」
彼も私の背中に手を回す。
「直人。」
「ん?」
「話してくれてありがとね。」
私は彼にばれてしまわないように、服の上から彼の体に口づけをした。
「……ばかだなあ。」
穏やかに彼はそう言った。
私はベッドランプを切った。
真っ暗になった部屋、彼の寝息が響く。
私は彼にもっと近づいて、ぎゅっとだきしめた。
「直人……。」
この温かさを、あの人も知っているのかもしれない。
こうして抱きしめあって、私の知らない話をしているのかもしれない。
もしかすると、もしかすると――――、
何個も何個ももしが続く。
気づいた時には私は涙をこぼしていた。
彼に深いほどの愛をもらったばかりなのに、
信じれない気持ちもあるのは、先輩の言葉を聞いてしまったから。
二人きりにならないようにしてる、そう言ってくれたのに。
嫉妬もしてくれて、
悩んでいたことを相談してくれて、
好きだと言ってくれて、
抱きしめてもくれて、キスもしてくれて。
でもでも、そうやって愛を確認するたびに、
私の心はぎゅっと締め付けられる。
なんで?
なんでこんなに愛してくれるのに、うそをついたの?
“彼女”とのことごまかすからなの?
なんで、二人で飲むことはないって言ったくせに、
二人で飲みに行ったの―――?
遠距離恋愛の時には知らなかった、彼の会社の人との付き合いの面。
でも一緒に住んで分かる、彼の私生活。
遠距離の時もこうだったのかな、もしかしたら彼、他の娘と…?
そんなはずないのに、
私の中にどんどんどんどん、もやもやした感情が広がっていって、疑いの種が芽を咲かす。
いっそ一緒に住まなかったら、
知らなくても済んだのかもしれない。
遠距離がよかったかも。
別れる寸前にまでおいこまれてしまったあの憎い距離に
そうすがってしまったのはこの日がはじめてだった。
「今日は早く帰って来てくれない?」
彼に早く帰ってくるように促したのは、初めてだった。
どうしたの?とか、寂しいの?とか
いつもの調子でまたからかわれるかと思いきや、
若干戸惑った表情を一瞬して、彼は優しく微笑むだけだった。
私が不安そうな声で言ってしまったのが悪かったのかもしれない。
彼を先に見送って、私も15分ほどしてから会社に向かった。
残業を何としてでも阻止しようと、
この日私はいつも以上に頑張り、30分早く帰宅した。
見かけたどこかのお店のショーウィンドウは、バレンタイン一色。
ピンクを基調とした装飾はきらきらとまぶしかった。
チョコレート味のホイップクリームを買おうと
ちょっと寄ったコンビニでさえ、チョコレートがたくさん並んでいた。
帰っている途中にカップルがよく目についたのも、
この日ならではなのかもしれない。
昨日作って、月曜日の今日渡す。
学生の頃の私なら、月曜日がバレンタインでよかった、そう喜んでいるのだろうけど、
今の私は月曜日なのがひどく憎い。
もっと中途半端な曜日なら……
わざわざ夜遅くまで起きて作るなんて、
相当気持ちのある相手にしか送ろうとしないはずだから。
カギを回して、彼がまだ帰っていないことを確認すると、
私は冷蔵庫に隠していたケーキと、苺のパックを取り出す。
ホールケーキを半分に切って、
買ってきたチョコレートのホイップを中に絞ってはさんだ。
苺のパックも洗って、へたをとって
スライスにきったそれを、丁寧に並べていく。
「できた。」
完成した喜びから思わず出てしまった言葉と共に、
引き出しに入れていた箱型のラッピングにケーキを入れて、冷蔵庫に再びしまった。
これで彼が冷蔵庫を開けたら、ちょっとしたバレンタインドッキリ成功。
今ではもう毎晩彼にご飯を作ってるくせに、久しぶりにちょっとドキドキしてる。
喜んでくれるかな…。
私は彼が帰ってくるのを待ちながら、カレーを作り始めた。
カレーにとろみがつき、付け合わせのサラダなどちょうど完成したころだった。
「ただいまー。」
「おかえり」
私は彼を迎えて、彼の鞄を受け取った。
朝約束してくれたとおり、彼も少し早い帰宅だった。
「カレー?」
ネクタイを緩めながら、ジャケットを脱いで机の前に座る。
「うん。」
お皿に盛って彼に差し出すや否や、おいしそーう!と直人は満開に笑った。
思わず私も顔がほころんでしまうぐらいに。
「今日もお疲れさま。」
「ありがとう。」
私の言葉にそう言ってくれたのか、
カレーを作ったことに対して言ったのかどっちなのか分からなかったけれど、
とりあえず笑顔でそう返事してくれた彼に、私はまた笑った。
「今日、どうして早く帰ってきてほしかったの?」
カレーをすくうスプーンの音がカチャっと響いた。
「んー…。」
私はカレーを口に運ぶ。
「久しぶりのカレーだから?」
お皿にこびりついたカレーをすくう彼。
「うん、そうそう!」
熱くてやけどしそうになった口の中のカレーを、無理やり水で流し込んだ。
「カレーは二人で食べたいもんね。」
食べ終わった彼がスプーンを置く。
「あ、鞄どこにやった?」
「ん?そこそこ。」
机の横に置いた鞄を指さす。
「ほんとだ。」
「お仕事するの?」
質問を逃れたことに安堵した私は、
最後の一口を口に入れ、彼の分と共に食器を洗い場にさげた。
「んー、ちょっと。」
お仕事モードに入る彼。
集中させてとも、静かにしてとも言わないけれど、
その背中が黙って私に語り掛ける。
だから私は決まって他の事をすることに決めているのだけれど、
生憎バレンタインを用意している私は、
そっちに気づいてほしい気持ちもあって、
少し気持ちがそわそわ……。
「倫子、お風呂先入りな。」
「あ、うん…。」
…別に今日食べなくてもいいか。
寝る前彼が気づいて、明日一緒に食べても。
集中している彼を横目に私はお風呂に向かった。
20分ほど入っていただろうか、
髪の毛をタオルでふきながら出てきた私。
「あ、倫子出た?」
「うん。お先ごめんね。」
「いいよ。先入ろうかな~。」
ぐーんと背伸びをしているあたり、
相当集中していたみたい。
彼の肩をもんであげようかと、私は彼の背に回った。
膝立ちして、背中からテーブルの上をのぞきこむ。
毎日ご飯を食べている見慣れたテーブルなのに、
その上には書類がたくさん並んでいて、自分のテーブルでないみたいだった。
「書類いっぱいだね。」
「うん。」
疲れたという口調のうんだった。
「これ読んで入ろうかな。」
彼は一番テーブルの遠い隅に置いていた、一枚の書類を手に取った。
その反動でその下に敷いていた、他の書類が床にカサッと落ちる。
黙って書類を見つめている彼は気づいていないみたいで、
邪魔にならない様、私は落ちたそれに手を伸ばそうとした。
「あ…。」
とは言わなかった。
思わず声が出なかったあたり、
見つけてしまうと心の中で分かっていたのかもしれない。
ただ黙って、私は手をひっこめた。
仕事の書類には似つかわしくない水玉模様やら、
ピンクやらの小さな包装紙がくしゃっとなりながらも私を見つめていた。
冬の間だけ敷いている、黒いホットカーペットが憎らしかった。
いっそピンクにしていたら、
こんな気持ちにならなかったかもしれない。
黒はゴミが目立つからお掃除のとき便利ですよ、
と言った店員さんの言葉を真に受けて、それを選んだ4年前の自分に腹がたった。
4年前、こんな未来が待ってるだなんて
そのころの私は想像もついていなかっただろうけれど。
私は黙って立ち上がり、ベランダに繋がる戸の前に座った。
閉めていたカーテンも開けた。
満月がきれいに出ていたことが唯一の救いだった。
「倫子何してるの?」
顔だけこっちに向けて、笑いまじりに彼はそう言った
「ん?ちょっと月が見たくなって。」
私は臆面もなくそう言って、
顔だけは向けずにただ月を見てそう返事した。
「きれいだもんね。」
「うん。」
窓ガラスに映った彼が、
かばんの中から何かを取り出すのが見えた。
ビニールがくしゃっと音を立てる音も聞こえた。
あ……、言われてしまう。
次に彼が何を言うか、大体想像がついてしまっていた。
「疲れたときって甘いもの食べたくなるよな~。」
…ほら……ね。
彼は口に可愛らしい包装紙を口に運んでいた。
「そうだね。」
聞かなくてもそれが何であるかもうわかっていた。
「倫子もいる?
今日貰ってさ。毎年の事なんだけどね。」
毎年…?
彼はキャンディ状に包まれたものを私に差し出して、ポンと私の手に置いた。
「市販のチョコから、手作りまでいっぱいあるよ。
倫子好きなクッキーとかあるし。」
手作り…?
やわらかいそれに、中身はトリュフだとすぐに気づいた。
今度の包装紙はオレンジ色だった。
「みんなもらうの?」
彼はまた別のを口に運んでいたけれど、私は食べる気がしなかった。
「うん、そりゃね。いらないんだけどねー。
まあ倫子にご飯作ってもらってるし、
お菓子までねだるわけにはいかないから
今年はちょうどよかったかな。」
笑ってそう言う彼。
バレンタインを少しもにおわせなかった私に、
彼は私が用意しないつもりだと何日も前から思っていたのかもしれない。
サプライズなんてしなければよかった。
「単純に今年はケーキまた作るつもりだから」って
ずっと前から言っとけばよかった。
今日の朝だって、
「ケーキもう作ってあるから、早く帰ってきてね。」
そう言えばよかった。
「作ってるよ!」
今でもおそくない。
そう言いたい。でも言えない。
彼が鞄から取り出した一際赤いビニールの袋から、
三角に切られたケーキが見えたから。
「ケーキって……みんなすごいね。」
トリュフを持っている手が若干震えた。
「ね。」
直人、食べるのかな。
そのケーキ食べるの?
あ、食べた…。
「うま。倫子も食べる?」
なんの裏も感じさせない顔で、彼は私にそれを差し出した。
「私はいいや。」
トリュフで十分だよと伝わるように、
包装紙を開けて、それを口にいれた。
少し苦いココアパウダーが口に広がって、ゆっくりと溶けていった。
ケーキを食べるよりかはましだった。
「はー、なくなった。口の中甘ったるすぎる。
コーヒー飲もうかな。」
「私入れるよ!」
彼が立ち上がろうとする前に私は立っていた。
「倫子いいよ?」
「いいのー。」
笑う私。
クリープを少なめに、いつもより苦めに作った。
こげ茶色のコーヒー…。
今年はこれが彼へのバレンタイン。
会社の人から貰った甘いお菓子に始まり、
私が彼に口直しするものを作って締める。
ケーキも彼がお風呂入っている間に食べるか捨てるかすれば、
ばれてしまわない。
うん、気にすることない。
だって、直人
女の人とは何もないって言ってくれたから―――…。
そう考えながらも、一瞬先輩の顔が浮かんだのは、
やっぱりあの一言が心に引っかかっているからに違いなかった。
「女の人と二人で。」
「どうぞ。」
「ありがと。
うわ、ちょっと苦めに作ってくれてる、優しいなあ。」
大丈夫、笑えてる。
彼がよく笑ってくれる人でよかった。
私もつられて笑ってしまえれる。
私も一息つこうと、自分の分のコーヒーを作ろうとした。
私もクリープ少なめにしよう、口直ししたい。
そしたら、いつもの私。彼と笑いあう私。
またくだらないことで楽しめる私達。
****
「よーし、風呂入ろう。」
「いってらっしゃい。」
お湯を注いだばかりのコーヒーを、ずずっと立ったまま私は飲んだ。
「倫子ごめん、テーブルの上とか触らないでね。
すぐお風呂出るから。」
「うん、全然いいよ?」
彼はありがとうとつぶやいて、お風呂場へ行った。
“触らないで”
そう彼に言われたことは初めてだった。
単純に今日の書類が特に大事なものだからなのかもしれなかったけれど、
その時の私はそう考える余裕がなくなっていて、
ただ彼がいつもと違うそう思って、
違和感も止まらなくて。
だから私は彼が座っていた場所と同じところに座って、
鞄の中をひょこっと覗いてみた。
お菓子がまとめて入っていただろう、
小ぶりなビニールのピンクの袋が半分くらいそこを占拠していたが、中は空っぽだった。
「何もないよね。」
考え過ぎだよ…。
自分で自分を笑ってしまった。
彼が食べ終えた包装紙だけでも捨てようと私はそれらを手にして、
最後もう一回鞄の中をのぞいた。
「……。」
ピンクの袋を少し鞄の隅に寄せてみた。
ジャー。彼がシャワーを使い始めた音がした。
「……。」
黒い内面の中、
ピンクの袋の下から薄ピンクの封筒がそこに出てきた……。
差出人も宛名も書いておらず、
封のところにリボンを付けた可愛らしい熊のシール。
シャワーの音が止まった。
「……これ見られたくなかったんだ。」
びりっびりに破いてしまいたかった。
手に持っていた包装紙もびりっびりに破いて、
机の上の彼の書類でさえ、
その衝動に駆られてしまうぐらい
くやしくてくやしくてくやしくて、
悲しくて……。
封筒を投げ捨てるように鞄に投げ入れると、私はゴミ箱に包装紙を投げ捨てた。
2、3個床に落ちたそれに見向きもせず、
私は冷蔵庫を開けて、作ったケーキを取り出し、指で掴んで食べた。
食べて、食べて、食べて、
指がクリームだらけになるのも、
冷たくてひえてしまうのも今はひどくどうでもよかった。
食べて、食べて、食べて。
甘いケーキなはずなのに、少ししょっぱかった。
スポンジが少し湿ったりもしていた。
とめどなく落ちる涙がそうさせた。
乱雑に食べ終わったそれをそのままに、私は手だけ洗い落とした。
ケーキを食べ終えても涙は止まらなかった。
ひどい嗚咽。
声を出さまいとしても出てしまった。
扉の音が聞こえた。
食べ終わったケーキのお皿を片付けなくちゃいけない。
ゴミ箱に入り損ねたごみを拾わなくちゃいけない。
見つけた手紙も完全に元の様にしなくちゃ…。
涙も止めなくちゃ―――
そう分かっていても、そう分かっていても、
何一つ私はできなかった。
バタン。
お風呂場の扉が閉まる音がした。
「はぁ~さっぱりした~。
お水……」
そう言いかけた彼はすぐに言葉を変えた。
「倫子どうしたの!?」
声を張り上げ、直人は私に駆け寄った。
震える私の背中を彼は何度もさすった。
この人の大事なところを蹴ってしまおうか、
そう思うぐらい憎くてたまらないのに、
どうしてだろう、
「大丈夫?」そう心配そうに声をかけてくれる彼に
また泣けてしまうのは。
でも、私はあの手紙がすぐに頭に浮かんで。
先輩の言葉も浮かんで。
彼の手を振り払った。
「倫子?」
「もう…分からない。」
「……倫子?」
「もう、信じられないよ。」
彼が伸ばした手に私は触れず、玄関をとびだした。
****
なんで草履で出てきてしまったんだろう。
かかとを踏んででも、スニーカーを履いて来ればよかった。
もっと早く走れたのに。
「はあはあ。」
月明かりに照らされた道を走りながら、そんなことを考えていた。
「倫子!」
背中から私を呼ぶ彼の声が聞こえた気がした。
でも声だけで、足音は聞こえてこない。
私は振り返らずに、走るスピードを上げた。
いつもの道200メートルほど走って、私はもっと細い脇道に入った。
2年前、よく通っていた道だった。
15分ほど走っただろうか、行く当てもなく、
何も持たないまま家を出て、たどり着いたのは公園だった。
「はあはあ。」
ブランコと滑り台しかない公園に、乱れた呼吸の音だけが響く。
しばらく来ていなかったけれど変わっていなかった。
マンション街が近くだというのに、人気はない。
「こんな寒い日に外を出ようだなんて誰も思わないか。」
自分を嘲った。
立ったまま、私はブランコの支柱の中の一つにもたれかかった。
座ってしまいたかったけれど、
私は立ったまま、うつむいて地面をただ眺めた。
なんでこんなところに来てしまったんだろう。
よりにもよって、こんなところに。
でも見つからない。
きっと彼はここに私がいるとは思わないだろう。
1時間、いや30分、15分でもいい、今は彼の顔を見たくない。
帰って直人に会って、そしたら彼はなんていうだろう?
また彼の弁解を聞かなくちゃならないんだろうか。
そして私、彼を許すのかな。
泣くだけで、彼に怒らないで、ただ言葉通り受け止めて。
抱きしめて、キスして。
嘘をついているかもしれない人を…?
あんなに走ったのに、息が整うにつれてだんだんと体がひえてきた。
厚手に部屋着に身を包んでいたのが幸いだけれど、
雪がちらちらと降り始め、一層私の体を冷やした。
「寒い…。」
ポケットに入れていた携帯を取り出した。
着信7件。LINEも10件ほど続けてきていた。
名前を見なくても誰からか分かった。
再び画面に着信相手の名前が表示される。
私はしばらく見つめて、黙って携帯をポケットにしまった。
「なんで出ないんだよ!」
「なんで……。」
直人がいた、振り返った先に。
はあはあと膝に手をついて息を整えている直人が。
私はまた走り始めた。
「あ、待てって!」
「っ。」
もう走る元気は残っていなかった。
すぐにでも立ち止まって座り込んでしまいたかった。
だけど、
どんなに遅くても私は走るのをやめなかった。
「倫子、倫子。」
私の名前を呼ばれるたびに、涙が頬をつたう。
ツンと後ろに引っ張られる感覚がして、私の足はとまった。
右手が彼につかまれていた。
公園をでてちょっとのところだった。
「どうしたんだよ、どうした?」
息を荒げて必死に理由を問う彼。
「どうしたって何が!」
感情的に私は声を荒げた。
掴まれた手も振り払おうとしたのだけれど、彼はそれだけは許さない。
「何怒ってんの?」
「怒ってないよ!」
「怒ってんじゃん!」
二人の呼吸の音だけがはあ、はあと響く。
「……チョコレート何なの?」
さっきより落ち着いて私は問いかけた。
「だから、あれは…」
「会社の人からのものだよね!
毎年もらってる、何の意味もない!」
彼は何も言わなかった。
「知ってるよ、聞かなくたって。
でもさ、でも…そんなくそまじめに毎回毎回正しいこと並べられて、
全部言ったらあたしが何も思わないとでも?
あたしの前でパクパク食べて……。」
自分でもめちゃくちゃなことを言っているのは分かっていた。
それでもそう声を荒げて、言わなくちゃ気が済まなかった。
「玄野さんと、ご飯行ったの…?」
「……1回。
でもなんもないから!本当に!」
彼の瞳はまっすぐだった。
嘘をついていないと何となくわかった。
それでも、それでも―――
「じゃあなんで二人で飲むことはないとか言ったの!」
「それは……。」
「先輩が直人が女の人と飲みに行くとこ見たよって教えてくれた時、
私どんな気持ちになったかわかる?
惨めだよ…、私本当惨め……。」
「ごめん。」
「封筒は?何あの鞄に入ってたの…
あれ見られたくなくて、ご丁寧に漁るなって言ったの?」
「中見た!?」
彼はそこだけ急に声を荒げた。
「見る勇気なんかないよ……。」
「あ……ごめん。」
私も彼も黙った。
横を車がすーっと一台通り過ぎた。
こんな最中にでも、
車からかばってくれる彼のやさしさがまた心苦しかった。
「ケーキ…作ってくれてたんだね。
ラッピングまでして…。
美味しかった。
すぐ追いかけたからほんと一舐めだけだけど。」
「……うん。」
「封筒は、玄野からのもの。
でも本気で何もない。
中見せたいけど、見せれない。ごめん。」
「……うん。」
私はそこでまた泣き始めた。
初めて彼に怒って、
訴えたらすっきりするかと思ったけど全然そんなことはなかった。
彼も私と同じくらい傷ついた表情をしていた。
私は黙って手をぎゅっと握って、
「帰ろう…。」
そう言った。
雪がちらちらと、つないだ手の上に落ちた。
直人の手は冷たかった。
春を感じさせる陽気だった。
朝のニュースでは、3月の気温だと報じられていた。
上手くいかない時に限ってのそれは、ただ惨めさが募るだけ。
いっそのこと雹でもふってくれれば、雰囲気によいしれるのに。
朝のコーヒーを飲みながらそんなことを思った。
「いってらっしゃい。」
「いってきます。」
あれから3日、私たちの間には気まずい雰囲気がまだ続いている。
一秒一秒が重くて、
話しかけるたびに神経がすり減っちゃうような感覚。
いつもならその後軽く何か小言を話していたのに、
今日も彼は沈黙に支配される前に手を振って、玄関の扉を閉めた。
バタン。
そんなに強く閉まらなかったのにずしんと頭の中に音は響いて、
私までシャットアウトされたような感覚がした。
「井川、ここミスってる。」
「申し訳ありません、すぐやり直します。」
部長に指摘されたのは、データの打ち間違え、滅多にしないようなミス。
「…はあ。」
世話しないオフィスに私のため息はかき消される。
誰にも聞こえなかったことに半分安堵、
半分ぞんざいな扱いぽくて、また心がきつくなる。
でも私は手だけは止めず、
カタカタとキーボードを打って打って打って。
何かに似ていると思った。
話して話して話して。
終わらない仕事みたいに、
解決できないことだってあるのかもしれない……。
「リンリン、大丈夫?なんか顔色悪いよ?
珍しいミスしてたし。」
「大丈夫です、ちょっと疲れ溜まってるみたいですけど。
お昼休みちょっと息抜きします。」
心配そうに声をかけてくれた先輩に、勘づかれてしまわない様、
ありきたりな言葉を適当に並べて私は笑って返事した。
にこっと笑ってまた自分の仕事に戻った先輩。
私もまた手を動かし始めて。
話しかけられて一瞬消えた彼との事。
でもそれは一時消えるだけで、私の頭にすっと入ってくる。
置き去りになんてできるものじゃなかった。
「お疲れ、リンリン。今日はゆっくり休めよ。」
「お疲れさまでした。
お先失礼します、ありがとうございます。」
朝してしまったミスを引きずりながら、私は歩いた。
通知0件。彼から連絡は何もない。
今日いつ帰るのか、それすらも知らない。
連絡がないと考えが風船のように膨らんでいくのは、私だけなのだろうか。
考えがマイナスの方にどんどん広がって、そんなはずないところまでたどり着く。
話して分かりあえなかったら、どうすればいんだろう。
どうやったら元通りになれるんだろう。
やっぱり我慢するしかないんだろうか。
でもそれって……本当に正解?
ガチャ
「ただいま。」
自分にだけ聞こえる声でそう言った。
リビングの明かりがドアから透けて見えて、彼が帰っていることは分かっていたのに。
「おかえり。」
テーブルの前に座っているかと思いきや、彼はキッチンに立って何かを作っていた。
どうしたの、と訊く前に
「今日早めに終わって暇だったから。」
彼はおたまをかきまぜながらそう言った。
ぶっきらぼう、ではなく優しい口調だった。
「そっか。」
寝室に入り、私は鞄を置くと、手短に部屋着に着替えた。
「何か手伝う事ある?」
「箸とコップ出してくれる?」
「分かった。」
煮込んでいるものがくつくついう音だけが部屋に響く。
……何話そう、何話そう。
沈黙はもう嫌だ。
この感じ、嫌だ。
「倫子?」
「ん?」
話しかけられたら話しかけられたで、
彼が話す内容の見通しがつかず、びくびくしてしまう。
勝手なのは分かっていた、それでも動揺してしまった。
私は彼の方を振り向いた。
「今日はカレーじゃなくて、シチューです。」
そう言う彼は、悪戯がばれてしまった子供がみせるような表情をしていた。
「いいね。」と返事しながらも、心がきゅっとしていた。
その場を和ますようなことを言ってくれる、彼のやさしさが心苦しかった。
「味見してもいい?」
「うん、いいよ。」
お玉で少量すくって、彼はフーフーと冷ましてくれる。
「はい、あーん。」
無邪気な表情にまた心がきゅっと。
「自分で食べるよ?」
「あーん。」
断固としてやめない彼に、しぶしぶ口を開ける。
「ん!おいしい!え、すごくおいしい!」
「……。」
「上手だね、直人。」
私は彼からお玉を奪って、もう一回味見をした。
「特訓したんです。」
「…なんでそんなえっへん口調なの?」
「えっへんだもん。」
顔を見合わせてハハハっと笑う私達。
笑ってる、私達笑ってる。
何もなかったみたいに、元通りに―――。
そうだ、そうだった。
幾度となく喧嘩してきたけど、こうして最後に絶対彼は私を笑わかせてくれて、
私はいつもこの人に助けられてきた。
「食べよう、倫子。」
「そうだね。」
お皿を出して、シチューを盛って、
パセリ買っちゃいましたなんて言って、
パラパラとシチューの上に振りかける彼に私はまた微笑む。
美味しいね、おいしいね。
ご飯中は少なめな会話も変わらない。
でも、私達は決まって肩を並べて、どこか幸せを感じる顔をしてて。
「直人、おいしかったありがとう。」
「どういたしまして。」
ああ、私この人の事大好きだ。
大好き。
誰にも渡したくない。この時が終わってほしくない。
だから、だから、私、
彼がいなくなってしまうんじゃないかって怖くなって逃げたんだ。
直人を……愛しているから――――。
「倫子、ヨーグルト持ってきてくれない?」
「いいよ。」
すっと立ち上がった私は、取りにいくついでにお皿を洗い場に持って行った。
冷蔵庫を開けて、ヨーグルトを手に取る。
2段目の……
「直人…。」
「うん、それ持ってきて。」
私はそれをもってテーブルの上にかたんと置いた。
カレーを食べた容器と同じ、白いお皿の上に置かれた、、それ―――。
「これ…これ……。」
「作り直した。」
照れくさそうに笑う彼。
ヨーグルトじゃなかった。
私が14日に作ったケーキがそこにあった。
「作ったの?」
「うん。」
「レシピ見て?」
「うん。」
「なんで?」
「なんでって何となくわかるでしょ?」
わかるけど、わかるけど……でも、、でも。
「この間はごめん。いっぱい泣かせて、傷つけて。
ケーキも…。」
「うん。」
「今日は倫子誕生日だし…
絶対仲直りしたいって思って……。」
「うん。」
「それで、えっとなんていえばいいかな。
玄野とは本当何もないんだけど、
今はごめんちょっと言えないんだ。
だから、ちょっと待ってほしいっていうか、
すごい勝手なんだけど、んーと。」
必死に考えている様子の彼。言葉を選んでいるようで。
でもね、直人。
もういんだよ。
私は微笑んだ。
もう、十分。だって、見て?
こんな一文字一文字大切に描いてくれた
Happy Birthday見せられたら、
私もう泣けてきちゃうんだよ。
それぐらいね、それぐらい、
あなたが私の為に作ってくれたことが本当にうれしくてうれしくて。
「直人。」
「ん?」
「最高のプレゼントありがとう。」
私は彼に優しくキスした。
「どういたしまして。」
おでこをあわせて私たちは笑いあう。
テーブルの上には甘いケーキ。
同じくらい甘いあなたが私の目の前。
抱きしめ合って、
何度も愛をそれにこめて伝えて、私達の間に熱い吐息がこぼれる。
「倫子、大好き。」
彼がキスする。
「私も大好き。」
キスし返す。
私たちは微笑み合う。
「倫子、ちゅー。」
たこみたいにふざけて口をとがらせる彼。
調子にのると彼はいつもこう。
でもそんなところがたまらなく、たまらなく……。
「目、つむって?」
彼はぎゅっと目をとじた。
私は微笑みながら、彼にキス……
ではなく?
「ちょっと、クリームじゃん!」
そう、私は指にチョコレートクリームをつけて、彼の唇に当てたのだった。
「おいしいでしょ?」
「おいしいけどさ~。」
一口ケーキを食べて、
またたこのように口をとがらせながら、ぶーぶーという彼。
しょうがないな~そういいながら、私は彼の手からスプーンを奪った。
私の口に甘いケーキの味が広がった。




