三度目は私?
ひと月ほど前、私は朝の通勤途中で交通事故にあった。
自転車で駅に向かっていた私に、交差点を右折しようとした車が突っ込んだのだ。
相手の車のスピードは大したことがなかったが、私は頭を打ったらしく、意識が戻ったときには病院のベッドの上だった。
左腕がギプスで固定されている。
折れた骨を、手術をしたためだ。
家族の話によると、頭を打った後遺症が心配だったが、どうやら脳波も正常で血栓の一つも出血もなかったらしい。
あとは体の半身にぶつかった時のアザが浮かんでいたが、それは一週間ほどで消えるというし、大きなケガといえば、左腕の骨折だけだったという。
入院は一週間ほどだった。
退院後は会社に連絡をとって、さらに一週間の自宅休養となった。
もっとも、完治するにはまだ時間がかかるらしく、週に一度は病院に行って経過を診てもらうことになっている。
いつまでも会社を休んでいるわけにはいかないので、自宅療養の一週間が過ぎると、すぐに出社することにした。
利き腕が無事だったのは幸いだったが、朝のメイクをするのに左手が使えないというのは思ったより不便なものだ。
顔の、治りかけの傷も、メイクでなんとか隠せるほどのものだが、その分も含めて朝の身支度は普段よりも時間がかかった。
もちろん自転車は使い物にならない上に、左腕を固定されているため、いつもなら駅まで十分ほどで行けるはずの通勤時間も倍以上かかってしまう。
初出勤から約半月、ようやくケガのあとの生活ペースを取り戻すことができたある日、私は徒歩で駅まで急いでいた。
自転車通勤の時には周囲の景色を見る余裕はなかったが、徒歩だと遅刻しない程度の早さで歩きながらもあちらこちらを見ることができる。
うちは五階建てのマンションの四階にあるため、エレベーターを利用している。
わりと静かな住宅街の端に建つマンションで、目の前の道路は片道一車線ずつしかない。
当然、車の往来はさほど多くない。
道の両側はマンションを除けば一昔前の一軒家が並んでいる。
大通りに出る前のいくつかの十字路は、車がやっとすれ違えるほどの道幅と交差していて、やはり一軒家が並んでいるが、徒歩で通勤してから気になっていたのは、一軒の平屋建てだった。
二日ほど前、そこの門扉の前に黒いモヤが見えたのだ。
その時は、事故のせいで一瞬、目の前が暗くなったのだと思った。
だが、すぐに十字路を渡ってしまったため、目の隅に映った程度で忘れてしまった。
昨日の通りすがりでも見えた。
しかも、二日前の時よりも黒い塊になっていた。
そして今日。
十字路に差し掛かった私は、左のほうに目を向けて、思わず立ち止まってしまった。
黒い塊は、人の形を作っていたのだ。
その上、黒い人型はなにやら黒く長い棒を型に担いでいた。
“あれ……なんだろう……?”
まるで棒高跳びの棒のような先についているのは……。
鎌?
“まさか……死神?”
頭に浮かんだのは、まさに絵で見るような典型的な死神をイメージさせる塊だった。
だが、驚きはしたものの、不思議と怖さを感じない。
立ち止まったままの私に気がつかない塊の腕が上がって、門扉の横についていたチャイムを押したようだ。
“うそ……。律儀にチャイム?”
まさか家人が出てくるのを待つつもり?
と思ったが、塊は門扉を開けることなくすり抜けるとドアさえもすり抜けるように消えてしまった。
その家で老人が亡くなったのはそれから一週間後のことだった。
やはりあの塊は死神だったようだ。
初めて見た。
こういうのも霊感というのだろうか。
今まで一度たりとも霊というものを見たことがなかったのに。
事故にあって頭を打ったからそういうものも見えるようになったのだろうか。
だとしたら、他の霊も見えるかもしれない。
しかし、そんな考えは無駄だった。
あの黒い塊(死神と思い込んでいる)が見えただけで、あれから道を歩いていても病院に行っても会社でもなにも見えなかった。
だが、その件を忘れた頃、私はまた、あの黒い塊を見かけた。
骨折した腕の治療のために定期的に通院している病院の中で、だ。
整形外科の待ち合いソファに座っていた私の脇を通りすぎた黒い塊に、私は思わず腰をあげて無意識にあとを追ってしまっていた。
塊(死神)が階段を一歩ずつゆっくりと上っていく。
私も、距離をおいて足音をたてないようについていくとたどり着いたのは三階だった。
病室が並んだフロアだ。
入院患者や見舞い客、それに看護師が廊下を行き交っている中、塊(死神)はゆったりとした歩調で廊下を奥に進んでいく。
なのに誰もそちらに注意を向けないということは、やはり私にしか見えていないということらしい。
塊(死神)の足が止まったのは、廊下の奥に近い一つの病室の前だった。
黒いフードを被ったような頭の形なのでよくはわからないが、どうも患者の名前が入っているプレートを見定めているような感じだ。
目的の名を見つけたのか、塊(死神)は、開け放たれたドアではなくプレートが貼りつけてある壁を二回ノックをする仕草をしてから中に入っていった。
最初に見たときも思ったのだが、妙なところで律儀だ。
私は、見舞い客を装って廊下を奥に進み、一度例の病室を通りすぎてから引き返した。
歩調を緩めて、塊(死神)が入った病室の脇で止まりさりげない仕草で中を覗き込む。
六人部屋の窓際のベッド脇に、いた。
相手の男性患者の額に手を当てている。
“あの人が次の番なのかな”
ベッドの位置どおりに名前が並んだプレートでその人を確認すると、私はその場をあとにした。
あの人の命はあと何日なんだろう。
不謹慎だったがそう思ってしまう。
最初のときは、初めて黒いモヤが見えてから十日ほどあとのことだった。
人型に見えてからは一週間だ。
だとしたら来週くらいか。
元の整形外科の待ち合いソファに戻りながら、私は来週の診察日にもう一度来てみようと思った。
多分、私にとって他人事だったためだろう。
人が死ぬということがわかっていながら、面識もない他人にとりついた塊(死神)を見たいという好奇心のほうが勝っていて、いつもなら会社を午後に半休をとって病院に行くのだが、今日は休みをとって午前中に家を出た。
診察の予約は午後なので、それまでの時間潰しだと無理矢理自分で理由をこじつけてまっすぐ入院患者のいる三階に向かう。
あの男の人はもう亡くなっているだろうか。
廊下の奥に近いドアのプレートを確認すると、患者の名前が変わっていない。
おずおずと中を覗くと、塊(死神)が立っていた。
例の患者はにこにこしながら見舞い客と話をしている。
やはり誰も気づいていない中、塊(死神)は、片手に持っていたなにかを見下ろしていた。
形からイメージするとメモ帳のようにも見える。
それから、もう片方の手に持っていた例の鎌を患者の目の前にかざした。
“えっ? いきなり切っちゃうの?”
マンガなどでは、人の魂は尾っぽのようなもので体と繋がっていて、それを切ると人が死ぬように表現されている。
今ここで切ってしまうと、あの人は突然死のような状態になるのではないだろうか。
だが、塊(死神)が鎌を振り下ろすことはなく、すぐにそれを壁に立て掛けると、今度は胸元から手のひらサイズのハサミのような黒いものを取り出してまた、患者にかざした。
それはまるで、患者に道具を選ばせているようにも思える。
塊(死神)は、いくつかの刃物を取り出しては患者にかざしてからまたメモ帳を覗きこんで頷いた。
その間も、患者は見舞い客と雑談していたのだが、塊(死神)は構わずに鎌を持つとこっちに近づいてきたため、私は慌ててその場から離れた。
次の診察日にあの病室にいくと、男性患者の名前がなくなっていた。
私が三度目に塊(死神)を見たのは、それから半年ほどあとのことだった。
しかも、私の枕元に!
骨折も完治して、ようやく駅まで自転車で行くことができるようになった私は、時間的に多少の余裕ができたことに気が緩んでいたのだ。
ギリギリまで寝ていたため、メイクもそこそこに駅に向かい、そしてコンコースに上がる階段で足を滑らせて転げ落ちた。
搬送先の病院で、意識がないはずなのに家族が心配そうに私を見下ろしているのがわかる。
そして、その横で塊(死神)が私に話しかけてきた。
『キミはワタシが見えていたネ』
抑揚のない低い声に、私の意識は震え上がった。
“私、死ぬの?”
『死にたいかネ?』
“イヤ!”
『オヤ、死にたくナイ?』
いいながら塊(死神)は懐からメモ帳を取り出してページをめくり始めた。
まさか、私が死ぬことを改めて確認しているとでも言うの?
“イヤよ。死にたくないよぉ”
塊(死神)は、私の必死の叫びにため息をついたように見えた。
『シカタがナイですねェ。キミは今日シヌ予定デシタ。トコロが、前の交通事故のトキにワタシがキミの中をすり抜けてしまったことでキミにワタシのチカラが入り込んでしまったのデス。ホントウは、魂と共に回収しなければならないのデスが……』
と言うなり塊(死神)は、懐から今度は手のひらサイズの鎌を取り出した。
『今回はワタシのチカラだけを返してもらいマス。それでワタシが見えることはなくなるでショウ』
心から安堵した私に、だが塊(死神)は抑揚のない低い声で最後に言い聞かせてきた。
『次のトキは、ナキゴトは通用しまセンからネ』
“えっ? それはいつなの?”
聞く間もなく、小さな鎌が頭元に振られて、私は意識を取り戻した。
十年以上経って、社内結婚した私たちの息子が小学校に入学した今も、私は元気に生きている。