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くーな  作者: 藍田陽介
9/13

9 くーなの告解

翌朝、無事に退院したくーなを連れたリュウイチは、二日ぶりに明るさを取り戻した我が家に帰ってきた。くーなも今は二日前の元気を取り戻している。

「ああ、久し振り。やっぱりこの部屋が一番だね」

リュウイチはそう言って大きく伸びをしたくーなを、微笑ましく見ていた。日々の暮らしの中で、空気や光を必要とするのと同じように、リュウイチにとってはくーなが絶対不可欠であることをひしひしと感じた。

「とりあえずコーヒーでも飲むかい」と言って、リュウイチはキッチンに向かおうとした。

「いろいろと助けてもらったし、私が入れてあげる」

リュウイチより早く、くーなはキッチンに入った。続いてリュウイチもキッチンに入ったが、くーなは早くもコーヒーの入った缶を手にしていた。

「大丈夫なのか? 少し座って休んでいてもいいんだよ」

「大丈夫よ。ベッドで寝ていただけだから、却って元気になったくらいよ、リュウイチ」

「えっ、リュウイチ?」

「だってもう〈お兄ちゃん〉とは呼べないじゃない。でしょ?」

くーなは女の顔になって、笑った。戸惑うリュウイチは「そうか」と言って、曖昧に頷くしかなかった。


三か月前。家を飛び出したくーなは新宿を歩いているところを一人の男に呼びとめられ、そのまま一軒の店でアルバイトすることにしたという。十九歳のくーなはそのまま、金を手にした男たちが、ひとときの癒しを求めてやって来る店で働くこととなった。

働き始めてひと月くらい経った頃、店で何度か見かけた紳士然とした男が、くーなを自分のテーブルに指名した。くーなはその店でも〈くーな〉という源氏名を使った。

――くーなちゃんかい。新入りの子かな。

――はい、店に来て一ト月です。でもお客さんは、もう何度かお見かけしているわ。是非これからも贔屓(ひいき)にしてくださいね。

――うん、そうしよう。

それから一時間、研究者の端くれと語った紳士は、自分の研究は今に日本を救うという話を滔々(とうとう)と話した。

やがて紳士はくーなに、一枚のメモを手渡した。そこにはリュウイチが通う研究所の場所が書いてあった。紳士はそのメモを渡しながら、「その場所に行けば、一人の男に会える」と言って、リュウイチの人となりを話した、らしい。

――その男はきっと君にとって〈運命の人〉だよ。もし会ったら、その男についていけばいい。悪いようにはならないはずだ。

――それはどういうこと? こんなところには、私行ったこともないわ。

――行けば分かるさ。

意味深長な言葉を残して、紳士は支払いとは別に、幾枚かのお札をくーなに握らせた。当座の生活費に使えばよい、と言って紳士は店を去った。

その紳士は、それ以来二度と店には現れなかった。


――だから店が休みの日に、そのメモの場所に行ってみたの。それ以来その人は店に来なかったし、気になるじゃない。行ってみたら、話通りリュウイチが歩いてきたわ。もうびっくりした。本当に運命の人か、話しかけてみた。

コーヒーを飲みながら、くーなはリュウイチにそう告白した。

「優しい人に見えたから、ついて来たわ」という言葉で、くーなは自分の告解を終えた。

――ついてきて本当によかった。

しみじみとコーヒーを飲み、くーなはライオンの描かれたマグカップを、愛おしげに手で包み込んだ。

リュウイチは黙って聞いていた。くーなと出会って以来、遭遇した数々の出来事は、リュウイチの驚きに対する感情を摩耗させた。だからリュウイチはもう、くーなの言葉にも驚かない。


コーヒーを飲み終えると、くーながリュウイチをベッドに誘った。まだ日の高い昼間に、二人の愛の交歓が始まった。

くーなとの交わりは、リュウイチが抱えた悩み、漠然とした不安を忘れさせる。くーなの肌に触れ、小さく艶やかな唇に自らのそれを重ねることで、リュウイチはくーなが今ここにいる実感を、くーなの実像を、彼の五感でとらえることができたからだ。そしてそのリアリティは、彼の五感を通じて、頭の中に「くーなを守る」ことへの使命感を生み出した。

くーなが現れたことから始まったリュウイチの憂鬱、不安を癒すものは、今やくーな以外にない。その矛盾をも、リュウイチはくーなとともに、余すことなく受け入れた。

交わりを終えて、汗ばんだリュウイチの肩に小さな頭を載せているくーなに、リュウイチは尋ねた。

――お前エーテルって知っているか?

――何か聞いたことはあるけど、学校で習ったことかしら。

――じゃ作り方は分かるかい?

――そんなこと、分かる訳ないじゃない。見たこともないもの。

――そうだよな。

リュウイチは目を閉じた。くーなの体温とビロードを思わせる肌を感じたまま、リュウイチは瞑想した。

やはりくーなは、何者かに眠らされたんだ。しかもその者は僕のいない時間を狙って、ここに来た。使われたのはエーテル。それはエタノールと硫酸から作られる。僕のいない時間に使われたエーテル。誰か研究所の人間が、くーなを事件に巻き込んだのか? しかしくーなと研究所の関係って?

リュウイチの瞑想はここで深い霧に包まれた。静かに目を開ける。くーなが顔をこちらに向けて、黙ってリュウイチを見ている。

――くーなが倒れた晩のこと、何か覚えているか?

――リュウイチへ届け物って、宅配便の人が来たわ。それで受け取りに出たの。

――何時頃?

――あまりよく覚えていないけど、結構遅い時間だったわ。たぶん十時頃。それで受け取りに行ったら、いきなり首をしめられそうになって……。そうそれから、湿ったタオルのようなもので、口や鼻を塞がれたと思う。苦しくて暴れたような気がするんだけど、声が出せなかった。そのうちにだんだん気が遠くなってきて、次に気がついたら病院にいたわ。でも荷物を受け取りに行った後のことは、ちょっと記憶があやふやだけどね。

――その宅配便を運んできた奴には、見覚えは?

――よく覚えていない。帽子をかぶっていたような気がするんだけど、どうもその辺りから、記憶が曖昧なのよ。

くーなは静かに頭を起こした。わずかに蒲団が持ち上がり、くーなの大理石を磨き上げたような肩が(あら)わになった。

リュウイチも起き上がり、服を着た。くーなにも服を着なよと言った。くーなは、その前にシャワーを浴びてくるわ、と言って浴室に向かった。


シャワー室に入ったはずのくーなは、すぐに「ない」と言って、青ざめた表情のまま、全裸で浴室を飛び出してきた。

――どうしたんだ。

――ないのよ、ピアスが。右だけ。病院で落としたのかしら。今までずっと、耳についているものと思っていたんだけど。

くーなは大切なものを失ったことに、興奮していた。左耳にだけぶら下がったピアスは、兄弟を失ったように寂しげに、くーなの動きに合わせて揺れていた。

――仕方ないよ。あんなことがあったんだ。

――でも嫌。もう一度病院に探しに行く。

また買えばいいと言うリュウイチの言葉にも、くーなは耳を貸さず、探しに行くの一点張りだった。結局リュウイチが折れて、くーながシャワーを浴び終えたら、一緒に探しに行くということになった。


家から病院までの道中、二人は小さなピアスの輝きを見逃すまいと、帰ってきた道を思い出しながら病院に向かった。しかしその道中で、くーなの左耳で揺れるピアスは、自分の片割れを発見することはできなかった。

くーなたちはつい数時間前に後にした病院に着くと、先程看護師たちの見送りを受けた正面のエントランスから中に入った。くーなは病室から自分の歩いた道を辿りながら、目を皿のようにしてピアスを探した。

探しながら二階に上がると、ナースステーションから女性看護師が、彼らを見て出てきた。この二日間、くーなの面倒をみてくれ、リュウイチに〈見えない面会者〉の来訪を教えてくれた看護師だった。

「どうしたの? 何か忘れ物でもしたの?」

看護師がくーなに尋ねた。

「忘れ物じゃなくて、落し物なの。ピンク色のピアスなんだけど、涌井さん、見なかった? これなんだけど」

涌井と呼ばれた看護師に、くーなは自分の左耳にあるピアスを見せた。ちょっと待って、と言って涌井はナースステーションに引っ込んだ。再びくーなの前にやって来た涌井は、首を横に振りながら言った。

「こっちには落し物として、届いていないわ」

「それじゃ病室を探したいんだけど、いいかしら?」

「ええ、匡子さんの部屋には、まだ誰も患者さんは入っていないから、どうぞご自由に。見つかるといいけど」

そう言って、涌井は一緒に二〇五号室に向かった。

三人はくーなが寝ていたベッドを中心に、部屋中を隈なく探し回った。しかし右耳にあるべきピアスは、この部屋でもその輝きを取り戻すことはなかった。

「くーな、これだけ探しても見つからないんだ。もう(あきら)めろよ」

ピアス探しに疲れ、リュウイチはくーなの肩をそっと叩いた。振り返ったくーなの目には、涙がいっぱいに(あふ)れていた。

なおもピアス探しを続けるくーなをどうにかなだめて、涙を拭かせると、リュウイチは涌井に、一緒に探してくれたことへの礼を述べて病室を出た。重い足取りのくーなを連れて一階に降りると、意外な形でピアスはくーなの手に戻った。

病院の一階ロビーは、外来の患者たちがあふれていた。その患者たちをかき分けるようにエントランスに向かう途中、リュウイチに声を掛けてくる者があった。アキだった。

こんにちは、と言いながら、アキは患者の人の群れから、にょっきりと生えてきた竹の子のように現れた。リュウイチは頭を下げると、くーなに向かって言った。

――覚えているかい。ユイちゃんのお姉さんのアキさんだ。

――こんにちは。この前はありがとう。アキさんっておっしゃるんですか。

――くーなちゃん、もう良くなったのね。元気そうで安心したわ。

――ええ、すっかり良くなりました。

――ところでこれ、くーなちゃんの物じゃないかしら。

そう言ってアキはバッグの中から、小さく光るピアスを取り出した。それは間違いなく、くーなの左耳の片割れであった。

――以前リュウイチさんのところで、くーなちゃんに会ったときに、何となく見覚えがあったので、もしかしたらと思ったの。

――これをどこで?

アキはエントランスの方を指差した。

――病院の入り口でね。先ほど風邪の診察に来た時に、ドアの前で見つけたのよ。

くーなにピアスを手渡すアキに、リュウイチが尋ねた。

――ところでくーなが入院していることをご存じだったんですか?

アキは不意を突かれたような表情で、はっとリュウイチを見た。しかしすぐに聡明な無表情に戻ると、言った。

――実は昨夜、ユイから電話で聞きましたの。

――では、それまでくーなの入院については、ご存じなかったと。

――ええ、元気なくーなちゃんが入院しているなんて、ユイから聞かされてもなかなか信じられなかったくらいでしたわ。

そう言うとアキは、じゃあまたねとくーなに手を振って、外来患者の群れにしばらく見え隠れしていたが、やがてその群れに飲み込まれた。

くーなは横で、大切なピアスが戻ってきたことに無邪気に喜んでいた。


家に戻るとまた騒動が持ち上がった。くーなが「本がない」と騒ぎながら、自分の荷物を入れていた大きなバッグを引っかき回していた。シャツやスカートや下着が、ところ構わず()き散らされた。

リュウイチは半狂乱になっているくーなと、衣服が散乱する部屋を見て、驚愕した。

――一体今度は、どんな本がなくなったんだよ。

――トルストイの本。『戦争と平和』って本よ。

それはくーながリュウイチと最初に出会ったとき、唯一身につけていた持ち物だった。くーなはそれを、彼女の父の部屋に忍び込んだ時に(かす)め取った、たった一つの戦利品だと言って笑った。それ以来、家を出るまでの間、父が作り上げた結界には足を踏み入れていない。

――だから何度も読んだわ。その本だけが、私とあの部屋との繋がりのような気がしたの。それにしてもあの部屋にある本には、文学小説であっても〈戦争〉なのかと思ったら、ちょっと可笑しかったわ。

――それはそうと、本以外に何かなくなったものはないのか。

――ないわ。でも病院から戻ったら、バッグのチャックがちょっとだけ開いていた。それでおかしいなと思ったの。私、そういうの結構気になるのよね。シャワーの後、着替えたときに、きちんとチャックは閉めたはずなんだけどな。

――ということは、本はなくなったというより、盗まれたってことになるんじゃないのか?

――誰もいない間になくなったんだから、そういうことになるわね。何だか怖いわ。でもどうして、あんな擦り切れかけた本だけを盗むのか、まったく理解できない。それに帰って来た時、ドアの鍵は閉まっていたわよね。

くーなは今更ながら、背筋に冷水を浴びせかけられたように、ぞっとした顔をした。彼女の頭の中を、二日前の事件の記憶が去来した。

――うん、閉まっていた。だが古いマンションだし、針金一本で鍵を開けるなんて人もいるからな。それよりその本には、何か大切なもの、例えばお(さつ)のようなもの、が挟んであったりしないのかい?

――いいえ、ただのおんぼろの文庫本よ。何冊かの分冊になっていたんだけど。確か四冊目あたりには、父が書いたんじゃないかと思われる、何か落書きのようなものも書いてあったしね。普通の人が欲しがるとは、到底思えないわ。

(落書き?)

――その落書きっていうのは、何て書いてあったんだ。

――よく覚えていない。そもそも変な式のような、意味不明な文字が書き連ねてあっただけで、見ても全く意味不明よ。

そういうとくーなは、本は意外とあっさり(あきら)めたように「もういいわ」と言った。

――本はまた買えばいいわよ。そういえば、父は、私があの部屋に入ってから、その本を探していたみたいだったわ。何日か後に、何度も「知らないか」って聞かれたもの。でもこっちも叱られて、ふてくされていたから、知らないと言って隠しておいたの。

くーなは、シャツや下着の海の中心に座り込んだまま、さも可笑しそうに笑ったが、リュウイチは笑わなかった。その〈落書き〉が無性に気になった。


その夜、いつもの風呂上りのコーヒーを飲みながら、くーなが話しかけてきた。

――リュウイチ、トルストイ知っている?

――名前くらいは知っているよ。ロシアの作家だよ。

――そのトルストイの有名な言葉があるんだけど、それは?

――知らないな。

――やった、リュウイチが知らずに、私が知っていることもあるのね。

嬉しそうにくーなは、トルストイの名言を披露した。

「過去も未来も存在しない。在るのは現在という瞬間だけだ」

――結構好きな言葉なのよね。トルストイがどういう意味でこの言葉を言ったか、それは分からないけど、今という瞬間を懸命に生きろと言われているような感じが好きなの。

――なるほどな。でも未来も大事だと思うけどな。

――そうかしら。

――くーなは未来について、どう思っているんだい?

――うまく言えないんだけど、〈未来〉というのは、結局今、つまりトルストイが言う〈現在〉の延長でしかないわ。こう話している今も、そう言っている間に今ではなくなって、〈未来〉だと思っていた時間が、次の瞬間には〈今〉になっている。だからいつも〈今〉を懸命に生きていれば、それは結局、常に懸命に生きていることになるんじゃないかしら。未来っていうのは、言うなれば予約された〈今〉ね。

もしかすると、とリュウイチは考えた。くーなの楽天的とも思えるほどポジティブな生き方の根源は、ここにあったのではないかと。

――なかなかくーなもいいことを言うね。

そう言うとリュウイチはコーヒーを飲み干し、「そろそろ寝よう」と立ち上がった。

くーなの退院に始まった、騒動に満ちた一日が終わった。


眠りに落ちゆくリュウイチの夢の中では、昔観た、オードリー・ヘプバーンが演じている「戦争と平和」の映画が再生されていた。ヘプバーンの天真爛漫な笑顔で走り回るシーンを、不条理な出来事に立ち向かい、(あらが)い、くーなを守る使命感を抱えて進む自分に重ね合わせていた。

僕のナターシャを守らなくてはいけない。彼女を巻き込む、不条理な〈何か〉から守らなくてはならない。くーなの顔から天使の笑顔を消し去ってはいけないんだ。

浅い眠りにまどろみながら、リュウイチはそう誓うのだった。

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