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くーな  作者: 藍田陽介
8/13

8 面会者

くーなを乗せた救急車は、夜の闇にまぶしく赤いサイレンを瞬かせ、マンションの前を発車した。静かな夜に突如鳴り出した音に、何事かと、近所の人々が家から出てきた。明らかに物見の野次馬もいれば、本当に心配そうな表情で救急車を見つめる者もあった。

サイレンを鳴り響かせながら走る車中で、リュウイチはくーなを心配そうに見つめた。

くーなの身に降りかかった災厄は、図らずも、リュウイチに変化を生じさせた。眠るように、目を閉じて動かないくーなを見つめるしかない車中で、リュウイチは己の意志の弱さを、優柔不断な心を激しく呪った。そしてそれは、一つの衝動を生み出した。いや、その衝動は、リュウイチの目の前で無防備に横たわるくーなへの思いが原動力だったのかもしれない。

(くーな、お前をこんな目にあわせた奴は一体誰なんだ。きっと僕がかたきは討ってやろう。だから頼む、目を開けてくれ。もう一度笑ってくれ。そうしてお前に危害を加えた者を、僕に教えてくれ。)

そう考えたリュウイチの表情からは、持前の優柔不断さは完全に消えていた。

リュウイチはただただくーなの蘇生を祈り、未だ見えない〈敵〉への報復を誓った。

しかし敵とは一体誰なのか、何なのか、それがわからない歯がゆさに、リュウイチは身悶えしたくなるような思いだった。〈敵〉とその企みの大きさに、このときはまだ気付く(よし)もなかった。


くーなはマンションから一番近かったC病院に搬送された。救急車が病院に到着して、ベッドに載せられ院内に運ばれると、すぐに医師や看護師が詰めているガラス張りの部屋に入れられた。部屋の入り口に置かれた細長いベンチで、リュウイチはガラス越しにくーなの様子を見守った。

深夜だからであろう。当直の医師が一人で救急診療にあたっていた。数名の看護師たちは、忙しそうに部屋中を飛び回っていた。

くーなを診ている医師は、まぶたを開けてライトを当てたり、聴診器で心音を聴いたりしていた。その様子を、リュウイチはガラス越しにじっと見た。

くーなを診察していた医師が部屋の入り口のところで、リュウイチの方を見た。リュウイチの心臓は、にわかに早鐘を打った。

「〈大和田匡子〉さんのお知り合いの方ですか?」医師は入り口から半身だけ部屋の外に出して、リュウイチに尋ねた。

「ええ、そうです」

リュウイチが頷くと、医師は「じゃ、中にお入り下さい」と言った。リュウイチは医師の後ろに従い、くーなが寝かされているベッドの横に立った。医師が診察結果を説明し始めた。

――どうやら、何らかの麻酔作用のある薬物により、一時的な昏睡状態に陥っています。ただ診る限り、呼吸は正常ですし、心拍、血圧にも特に異常は見られません。錠剤や液体のようなものを嚥下(えんげ)したということも考えられますが……、状況から見て麻酔作用のある気体を吸引した可能性が高いと思われます。具体的な麻酔剤の種類は、血液検査などの結果を見なければ特定できませんが。

――それで、くーなの……あ、いや匡子の意識は?

リュウイチはそのことが一番聞きたかった。医師が長々と所見を語るのを聞いていて、少々苛立ちを覚えた。

医師は、慎重に言葉を選ぶように説明を続けた。

――生命には別状ありません。薬物の種類にもよりますが、麻酔剤による昏睡状態であることには間違いないでしょう。麻酔剤ならば、麻酔作用がなくなれば覚醒します。ただ麻酔剤をどれくらい吸入したのか、現段階では分かりかねます。また麻酔作用の効力も、個人差があるので、どれくらい経過したら覚醒するのかは、今の段階でははっきりと申し上げられません。

――では、いずれにせよ時間が経てば、彼女は目を覚ますってことですね?

――ええ。まれに麻酔作用が永続する例もありますが、呼吸や心拍の状態から考えても、そういった状況に陥るリスクはまずないでしょうね。あくまで推測ですが、おそらく二日以内には、意識を回復されるのではないでしょうか。

一応命には別状がないことを知り、リュウイチは胸を()で下ろした。医師は続けた。

――麻酔というものは、一般に麻酔ガスを吸引するか、あるいは注射によって麻酔作用のある液体を体内に注入します。しかし患者さんの腕には、少なくとも注射の痕跡は認められませんでした。そもそも注射は、一般の方にはかなり難しいです。気体なら……、例えが不謹慎ですが、よくテレビなんかでハンカチに沁みこませた液体を嗅がせて眠らせるシーンがありますよね。あの程度の方法でも、眠らせることはできます。そう考えると、やはり麻酔作用のある気体を吸引した可能性が高いでしょう。

医師の説明はいささか饒舌すぎて、リュウイチは、最後の部分を半分くらいしか聞いていなかった。くーなの命が助かると医師が言ったこと、今はそれだけが大切だった。


看護師が用意してくれた椅子に腰掛けて、ベッドの上のくーなをしばらく眺めていた。リュウイチの手は、くーなの手と(つな)がっていた。祈るような表情で、固くしっかりと、くーなの小さな掌を握りしめていた。

やがて女性の看護師がリュウイチの許にやってきて、今晩はもう帰宅するようにと告げた。これ以上付き添っても、今晩中に意識が回復するとは考えにくいし、何かあればすぐに電話連絡をする、と看護師は言った。

――これから一般の病室に移送します。二〇五号室になります。明日は午前十時半から面会できますので、それ以降の時間にお越し下さいね。二階のナースステーションにお声掛けしていただければ、部屋にご案内しますので。

事務的にそう言うと、看護師はもう一人呼んできて、移送用のベッドにくーなを移した。リュウイチは何か言おうとしたが、看護師は自分の任務を遂行するのみで、取り付く島もない。

仕方なく、リュウイチは部屋を出た。薄暗い廊下には、誰もいなかった。まとわりつくように響く自分の足音を聞きながら、リュウイチは出口に向かった。

外に出ると、まばらに植えられた木々の隙間から洩れ出る薄暗い街灯の明かりが、わずかに足下を照らすのみで、遠くを見ても、そこは墨を流したような闇であった。流しのタクシーも走っておらず、リュウイチは家まで、歩いて帰った。ダークグレーのスーツを(まと)ったまま家を飛び出した彼の後ろ姿は、漆黒(しっこく)の闇に同化した。

わずか一ヶ月と少しの期間、一つ屋根の下で暮らしただけなのに、くーなのいない部屋に戻るのだと思うだけで、リュウイチは堪らないほどの寂寥(せきりょう)の思いにとらわれた。

帰り道、リュウイチはこの一か月あまりのくーなとの生活を反芻した。今はくーなが、何故あのような事故に遭遇しなければならなかったのかを突き止めなければならなかったからである。

まさかくーなが自ら意識を失うようなことはすまい。きっとくーなをあのような状況に陥れたものが、他にいる。

くーなの意識が回復すれば、はっきりしたであろうが、リュウイチは、くーなが自らやったのではないことには確信があった。それはこの一ヶ月あまりで、くーなとの間に形成された信頼であり、寄る辺なきくーなの愛の力であったろう。今のリュウイチには、くーなと共有した時間は、そしてその時間が(はぐく)んだ愛は、それほどに濃密だった。

(にもかかわらず……僕は……)

再び悔恨が彼を支配していた。リュウイチの目に潤むものがあった。それはわずかな夜の光の中で、くーなの耳によく似合ったピアスのようにピュアな輝きを放った。

くーなとの思い出もまた、リュウイチにとっては同じ輝きを伴っていた。

突然の研究所の前での出会い。そのままリュウイチの家の居候となった不思議に人懐っこい女。誕生日にくーなが作ってくれた手料理。ユイとの駅前での出会いとその後のくーなの捜索。〈妹〉からの卒業。ペアのマグカップ。

どのシーンを思い浮かべても、くーなが被った事件に結びつくようには思えなかった。リュウイチは家にたどり着くまでの間、何度も繰り返し、頭の中でこれらのシーンを再生した。

しかし原因にたどり着けぬまま、彼はマンションのある最後の曲がり角に着いた。

最後の角を曲がると目の前に赤い光が見えた。車のテールランプに見えた。そのときリュウイチは既視感(デジャヴ)に襲われた。

くーなが倒れているのを発見する直前、マンションの前でユイの姉、アキの車を見送った光景が甦った。目の前を遠ざかってゆく車のランプは、あのときのように、同じ形のまま闇の中に滲んでいった。

(まさかな。もう数時間も前の出来事だ。きっと僕は、疲れている。)

それでもどこか釈然としないまま、リュウイチはそのテールランプが完全に闇に消え去るまで、マンションの前で見送っていた。


翌朝、ツジイに電話をして休暇を取った。ちょうどプロジェクトが終わったところでもあり、快く承諾してくれた。

それからは時計が十時半に近づくのが待ち遠しかった。秒針の一周はかくも遅いものかと感じながら、十時まで時計とにらめっこをして過ごした。

時計が十時になったとき、リュウイチは堪らず部屋を飛び出した。

途中小走りで病院に向かったため、十時十五分過ぎには、病院に着いた。病院の入り口の脇にある駐車場から、印象的なブルーメタリックが目に飛び込んできた。

アキのプジョーが停まっていた。そうしてアキ自身が車に向かっているところだった。リュウイチの動悸は、毎分六十回から八十五回に上がった。

はやる気持ちを押さえつけながら、リュウイチはアキに駆け寄った。

――おはようございます。良くお会いしますね。

昨日のアキとは別人のように、今朝の彼女は愛想が悪かった。

――昨夜はどうも。風邪をひいてしまったみたいで、少し熱っぽかったので朝一番で来ましたの。遅くなると混みますでしょ。

それだけ言うと会釈をして、アキは運転席に体をすべり込ませた。ほどなく快いエンジンの音がして、アキは再び会釈をすると車を走らせた。リュウイチは呆然とテールランプを見送っていた。


ナースステーションは二階への階段のすぐ目の前にあった。時計は、あと一分で十時半であることを示していた。

カウンターの一番近くにいた女性看護師に、声を掛けた。

「あのう。二〇五号室に入院している大和田匡子の知り合いの者ですが」

「二〇五号室、大和田さんですね。はい、ご案内します。こちらへ」

台帳を見ながら、看護師は患者の名前を確認すると、ナースステーションから出てきて、廊下を奥に進んだ。

くーなの病室は、廊下の両脇に並んだ病室の、向かって左側の廊下の中ほどにあった。病室に掛けられた名札を見ると、二〇五号室には〈大和田匡子様〉の名前だけが、黒いサインペンで書かれていた。

病室には二つベッドが置かれており、くーなは奥の窓際のベッドに寝かされていた。

「今朝確認したところ、少し意識も回復されてきているようです。まだ寝ている状態に近いですが、おそらく今日の夕方辺りには、だいぶ回復されると思いますよ」

そう言いながら看護師はリュウイチをくーなが寝ているベッドに案内した。

白いシーツに包まれたくーなを見た。昨夜よりいくらか血色も良く、時折まぶたをヒクヒクと動かした。だがリュウイチが耳元で「くーな」と呼びかけても、まだ目を開けることはなかった。

横で看護師が言った。

「そういえば少し前に、一人お見舞いに来られた方がいましたよ。まだ面会時間ではないのでと一度はお断りしたんですが、『用事がある。一目見るだけでいいから』とおっしゃったので、病室に通したんです」

「えっ、それは誰ですか……」

「私どものところでは、面会の方のお名前は伺わないことになっているんです。だからお名前の方は分かりませんけど、女性の方でした」

(女性?)さっき病院の庭ですれ違いになったアキのことが、思い出された。

「どんな女性の方でしたか」

「そうね。割と背の高い方でしたよ」

「面会に来たのは何時ごろ?」

まるで刑事さんの尋問のようですね、と笑いながらも看護師は説明を始めた。

「十五分くらい前かしら。ちらっと匡子さんの顔を見て、すぐに出て行かれました。『声を掛けてあげて下さい』と申し上げたのですけど、何もおっしゃいませんでしたね」

「そうですか」

アキと出会った時間と、辻褄はあっていると思った。だがアキは風邪で来院したと言っていた。それにくーなが倒れて入院したことは、アキには話していない。いや、アキに限らず誰にも話していないはずだ。

「では、ごゆっくり。何かありましたら、その枕元のナースコールのボタンを押してください」

リュウイチが黙り込んだのを見て、看護師は病室から出て行った。リュウイチはくーなの顔を見ながら、考え込んだ。いつしか、まだ濃い(もや)の中を浮遊しているようなくーなに話しかけていた。

「おい、くーな。お前のお見舞いに来た女って、一体誰なんだ」

返事はなかった。くーなは相変わらず、ときどきまぶたを動かすのみで、まだ深い睡眠状態にあった。

リュウイチはそれからおよそ一時間、くーなの手を握ったまま、ときどき名前を呼び、飽くことなく彼女の顔を見て過ごした。傍目には、リュウイチまで眠ってしまったかに見えるくらい、微動だにしなかった。

やがてリュウイチは、そっとくーなの手を離した。まだ何も答えてはくれないくーなに、また後で来るよと囁いて、立ち上がった。

ナースステーションの前で、病室を案内してくれた看護師に会釈をすると、リュウイチは病院を後にした。外は真昼の太陽がぎらぎらと照りつけて、殺人的な熱光線を放射していた。


一度家に戻ったものの、何かしら落ち着かない気分のまま。リュウイチは昼食に出た。家で食べてもよかったが、くーなのいない殺風景な部屋での食事が嫌だった。つい一か月前まではそれが日常だったが、今はたった二部屋のマンションが、やけに広く感じられた。

マンションから駅へ向かう途中にある、小じんまりとしたコーヒーショップで、軽い食事をとった。

よく冷えた、香りの良いアイスコーヒーを飲んでいると、携帯電話がテーブルの上で震えた。小さな液晶画面に『ユイ』と表示されていた。

――もしもし、ユイちゃん。

――リュウイチ君、大丈夫? 風邪でもひいたの。

――いや、実は僕じゃなくて、くーななんだ。ちょっとした事故があって、入院しちゃってるんだよ。大したことはないと思うけど、二日くらいは入院になると思う。それで休暇をもらったんだ。

――まあ、大変ね。くーなちゃんの具合はどうなの?

――うん、一時的な昏睡と病院の先生は言っていた。たぶん今日の夕方くらいには、意識は戻るだろうって。

――てっきりリュウイチ君が病気か何かだと思ったわ。それで、今は病院なの?

――いや食事に出たところだよ。

――そう。私もお昼休みだったので、気になって電話してみたのよ。くーなちゃんは、どこの病院に入院しているの?

――調布のC病院だよ。

――わかったわ。それじゃ帰りにお見舞いに寄らせてもらうわね。また夕方、電話するわ。あまり気を落としちゃだめよ。

――うん、それじゃまた夕方に。

電話が切れた。ユイの心遣いが嬉しかった。気弱になっていたリュウイチは、少し勇気をもらった気がして、半分ほど氷が溶けて香りが薄くなったコーヒーを飲み干した。


昼食を終えて、再び病院に行ったリュウイチは嬉しい驚愕を覚えた。くーなが病室で目を開けていたのである。

まだ麻酔効果から()めやらぬ様子で、視点も定まってはいなかったが、リュウイチが見舞いに来たことははっきりと認識していた。まだくーなは何も話さないけれども、ベッドの脇に立ったリュウイチを見て、安心したような笑顔を見せた。

リュウイチが病室に入ると間もなく、担当医が来た。巡回の時間ということだった。

担当医はあのガラスに囲まれた部屋で、くーなを診察していた医師であった。リュウイチを見て、くーなの容体(ようだい)について説明を始めた。

――やはり匡子さんは、麻酔ガスの作用による昏睡状態でした。今はもうほとんど麻酔作用が抜けていますから、あと数時間もすればほぼ元の状態まで回復するでしょう。今はまだ少し、通常時と較べると意識のレベルも低いので、話が十分にできる状態ではありません。

――そうですか。でも意識が戻ってくれたので、安心しました。

――このまま順調に回復すれば、明日には退院できますよ。

振り返るとくーなはじっとリュウイチを見ていた。うまく話をできないことがもどかしげだった。

――ところで先生。その麻酔ガスというのは?

――化学的にはジエチルエーテルと呼ばれているものです。一般には、単にエーテルと呼ぶことが多いですね。常温では液体ですが、気化しやすく、一時は病院でも麻酔に使っていたものです。ただ使用する量の調整が難しく、一つ間違うと死に至ることもあります。だから今では、麻酔薬としてはほとんど使われません。

――ジエチルエーテル? 普通の人が簡単に入手できるものではないですよね。

――ええ。麻酔科の同僚に、エタノールと硫酸から生成できると聞いたことがあります。だから化学に詳しい人なら、生成できないこともないかもしれませんが。

リュウイチは黙って、考え込んだ。それを見て、医者は病室から出て行った。リュウイチはしばらく、石膏の彫像にでもなったかのようにそこに立ち尽くしていた。医師の語ったエーテルの製法が気になった。

エタノールにしろ、硫酸にしろ、試薬として研究所に常備されているものだ。ということは、研究所の人間なら、知識があれば作れるのではあるまいか。

そのときリュウイチの大腿部に何ものかが触れた。はっとして、リュウイチは自分の太ももの裏側を見るように、振り返った。

見ればくーながベッドから白い腕を伸ばして、まだ緩慢な動作ではあったが、懸命にリュウイチを呼ぼうとしているのだった。くーなは言葉こそ発しないものの、今にも何かを語りかけそうに、口が動いていた。

リュウイチはベッドの横に置かれていた、面会客のための椅子に腰かけると、くーなの腕をそっと持ち上げて、その手を握った。

「くーな、分かるか。僕だよ、リュウイチだ。お医者さんも言っていたけど、すぐ良くなるって。明日には一緒に家に帰れるぞ。もう少しだから、頑張るんだよ」

ゆっくりと、言い含めるようにくーなに言った。くーなはリュウイチの一言ごとに、かすかに頷いていた。

くーなの目からは、あのピアスに嵌め込まれたストーンのように輝きを放つ涙がにじみ出ていた。やがてその涙は、あふれんばかりにとめどなく、流れ出た。リュウイチが握っていたくーなの手に、すこし力が込められた気がした。

リュウイチは空いている方の手でポケットからハンカチを取り出すと、そっとくーなの涙を拭った。


再びくーなが眠り込んだのを見て、リュウイチはトイレに行くために病室を出た。ついでに、飲み物を買いに、一階の売店に向かった。

ナースステーションの前を通りかかったとき、今朝リュウイチを病室に案内してくれた女性看護師が、話しかけてきた。

「匡子さん、順調に回復されているようで、良かったですね」

看護師は我がことのように、嬉しそうに笑いかけた。リュウイチは頭を下げた。

「ありがとうございます」

「ところで朝もいらっしゃった方が、お昼頃またお見舞いに来ていたようですよ。ちょうど帰る時に、ここの前を通るのを見ましたから。匡子さんも一日中、誰かしらお見舞いに来てくれるんだから、幸せですね。入院しているときは、お見舞いに来てくださる方々がかけてくれる言葉が、患者さんにとって、何よりの元気づけになりますからね」

リュウイチは絶句した。黙ってしまったリュウイチを見て、看護師は怪訝そうな顔をした。しかしリュウイチは構わず、駆け降りるように一階に向かった。

見えない誰かにリュウイチとくーなの行動を盗み見られているような気がして、うそ寒い気持ちになった。

今や誰かがリュウイチ、あるいはくーなに何らかの意図を持って近づき、危害を加えようとしているということに、リュウイチは確信を持った。

(くーなの(そば)を離れてはいけない。)リュウイチは階段を一段飛ばしで駆け上がると、病室まで走った。ナースステーションの前を、疾風の如く駆け抜けたリュウイチを、先ほどの看護師が驚き顔で見送った。

息を切らしながら、リュウイチが病室に入った。くーなの天使のような姿が、病室を出る前とまったく同じく、ベッドの上にあった。ほっとした。

考えすぎかな、とリュウイチはあまりにも悪い方向にばかり考えたことを少しだけ恥ずかしく思った。しかし偶然が、しかも同じ日の朝と昼という極めて短い時間の中で、二度も起きるだろうか。頭の中にわだかまった猜疑心は、やはり払拭(ふっしょく)できなかった。


面会時間もあと一時間という頃、花と花瓶を手にしたユイが来た。

「連絡したけど、出なかったのね。何度か携帯に連絡したんだけど。くーなちゃんの本名が分からなくて、病室を探すのに手間取ったわ」

ユイは少し恨みがましい口調でそう言った。リュウイチは座っていた椅子をユイに勧めながら、電話に出られなかったことの言い訳と謝罪をした。

「ごめん。院内では携帯電話の電源は切るルールになっているから、午後はずっと電源を切りっぱなしだったんだ。君からの連絡があることを忘れた訳じゃないんだけど。何時頃来るのかもわからなかったから、病室からも離れられなくてね。本当にごめん」

「まあいいわ。病室の名札を見たけれど、くーなちゃんの名前、〈大和田匡子〉っていうのね。せめてそれだけでも、お昼に電話したときに聞いておけばよかった」

そう言うと、ユイはくーなの顔を見て、言葉をかけた。

「くーなちゃん、何があったか分からないけれど、大変だったわね。もう大丈夫なの?」

くーなはうなずいた。そしてかすかに「うん」と言葉を発した。

ユイは微笑んで頷き返していたが、リュウイチは久しぶりに聞くくーなの肉声に驚いた。

ユイは花瓶を手にして病室を出た。水を満たした花瓶を、少し重そうに抱えながら戻ってくると、枕元の台の上に置いた。そしてその中に、色とりどりの花を挿した。

それまで何もなく、殺風景なほどに純白だった病室が、一度に華やかになった。

「急いでいたから、安物の花瓶を駅の近くで買ってきたの。花を買うついでにね。こんなので、ごめんなさいね」

ユイはリュウイチにとも、くーなにともとれるように言った。

それから面会時間が終わるまで、三人は病室で過ごした。少しずつではあるし、まだ幾分呂律(ろれつ)もあやしかったが、くーなも話に加わっていた。

午後八時を五分ほど回り、リュウイチとユイは病室を後にした。

「また明日、来るからな。ゆっくりと休むんだぞ」

リュウイチとユイは、くーなに手を振った。くーなは少し心細そうな顔をしたが、小さな声で「うん」と言った。

二人は病室を出た。一階への階段を降りながら、リュウイチはユイにお願いをした。

「ユイちゃん、お願いがあるんだけど」

「何かしら?」

「予定では、明日くーなが退院することになっている。だからあいつを迎えに行ってやりたいと思っているんだ。それでツジイさんに、もう一日休むと伝えて欲しいんだけど、いいかな」

「何かと思えば、そんなこと。お安い御用ね。わかったわ、伝えておくわよ。今はくーなちゃんの頼る人も、リュウイチ君しかいないしね」


病院を出て、二人は薄暗い道を駅に向かった。駅の近くでユイと別れて、リュウイチは自分のマンションに向かった。

そこで携帯電話の電源を切りっぱなしだったことを思い出した。ちょうどそこは、この前、アキがプジョーを停めていた場所であり、その前にはアキが夫に頼まれて、何かの本を買いに来たと思われる書店があった。

何気なく後ろを振り向いた。しかしそこからは、今まさに改札口に吸い込まれそうになっている、ユイの姿は見えなかった。

リュウイチは花のお礼を言い忘れたと思い、ユイの携帯電話に短いメールを送った。

――今日はくーなに花をありがとう。

すぐにユイから返信があった。

――付添いおつかれさま。安物だから、気にしないで。おやすみなさい。

駅から近くの中華料理屋に入り、リュウイチは遅めの夕食をとった。リュウイチが店に入り、扉を閉めた五秒後、店の前をブルーメタリックの車が通り過ぎた。

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