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くーな  作者: 藍田陽介
7/13

7 眠れる天使

リュウイチが研究所に来て、最初に手掛けたプロジェクトも、この日が最後である。これまでの研究で得たデータを整理し、資料として、ツジイに提出した。

ツジイは黙って、データに誤りがないか、内容に漏れがないかを見て、言った。

「うん、いいね。ごくろうさま。最初のプロジェクトでこれだけ書ければ、上々だよ」

「ありがとうございます」

ツジイの承認を得て、リュウイチは不要なデータの削除や資料の整理を始めた。

リュウイチの心の中では、昨日のくーなのイメージだけが、傷ついたレコード盤のように幾度も幾度も繰り返し再生されていた。イメージの中のくーなは、紅い血筋だけ色が付いていて、他は色を失いモノクロームであった。次第に心の中が、真紅に染めつくされてしまうのではないかという、漠然とした畏怖(いふ)の念にとらわれた。


資料整理が一段落して、リュウイチは休憩コーナーに向かった。ユイがいた。

「昨日は大変だったわね。でもくーなちゃん、最後は元気になったみたいだし、よかったわ」

「本当に昨日は迷惑をかけてしまったね。ありがとう。ユイちゃんにもすっかりなついてしまったね。あいつは誰にでもそうなのかな」

くーなの話題になると、モノトーンを深紅で塗りつぶしたイメージが彼を席巻した。憂鬱な心が、彼の顔を屈託で満たした。

「ところで資料の整理は、もう終わったのかい?」

「ええ、大体。今日でプロジェクトも解散ね。またリュウイチ君と一緒のプロジェクトに入れるといいね」

「そうだね。同期入社は君だけだし、ね」

そこで会話が途切れた。二人は沈黙とコーヒーを飲み干した。彼の心の中に、再びくーなのイメージが(きざ)した。


あっという間に時間は過ぎて、夕方を迎えた。プロジェクトを解散するにあたり、ツジイが解散の弁を述べた。〈締めの言葉〉というやつだ。メンバーは皆、ツジイの周りに集まってきた。ステレオタイプな挨拶が始まった。

――みんな、本当にごくろうさま。今回のプロジェクトは、メンバーにも恵まれて、とても素晴らしい成果を上げられたと思っている。特に新人として入ったリュウイチ君とユイ君、非常によくやってくれたね。次のプロジェクトでも頑張ってくれよ。

このプロジェクトの成果は、日本国内の原子力発電所に公開され、より効率的な発電システムの開発に利用される予定である、という主旨の話で、ツジイによる〈締めの言葉〉は終わった。

最後にプロジェクトメンバーの、次の配属先がツジイから発表された。リュウイチとユイは同じプロジェクトだった。二人とも、再びツジイの率いるプロジェクトへの参画を命じられた。

午後六時。プロジェクトは解散し、次のプロジェクトのリーダーに挨拶に行く者もあれば、帰り支度を始める者もいた。帰ろうとしていたリュウイチに、後ろからツジイが呼びかけた。隣にユイもいた。

「どうだい、リュウイチ。次も同じプロジェクトで仕事をすることになったことだし、ユイ君と三人で打ち上げでも。次のプロジェクトのキックオフも兼ねてな」

そう言って、ツジイは右手を、コップをつかむ形に丸めて、飲む真似をした。

「はい」くーなのことが気にかかったが、リュウイチは承諾した。

このようなとき、リュウイチは意に反して断れないことが多かった。我ながら、優柔不断だと思うことがしばしばあった。きっとユイならば、己の意に()わなければ即座に拒絶するのだろう。

「じゃ、帰る準備ができたら声をかけてくれ。一緒に出よう」

ツジイはそう言い残し、自席に戻った。ユイが耳元で囁いた。

――くーなちゃん、大丈夫?

――仕方ないよ。遅くなるから、食事は先に済ませてくれとメールを入れておくよ。そうすれば大丈夫だろう。

――そう。何ならまた、リュウイチ君のところへ言い訳しにお邪魔するわよ。

ユイは笑いながらそう言って、「また後で」と手を振りながら、席に戻って行った。


二十分後、リュウイチ、ユイ、ツジイの三人は、研究所の一階のホールにいた。

「じゃ行こうか」

「あっ」ユイがいつになく取り乱したように、声を上げた。

「一つデータを消し忘れていました。ツジイさん、申し訳ありませんが、先に行っていていただけますか。十五分くらいで終わると思いますので、終わり次第追いかけます」

「ほう、ユイ君らしくないな。じゃ先にリュウイチと行っているよ。駅前の『鳥玄(とりげん)』にいる」

「わかりました、すみません」一つ頭を下げて、ユイはホールの奥へと消えていった。

ユイが去り、かすかな違和感だけが残った。何か変だ、とリュウイチは感じた。

データを消すなら、二階のプロジェクトルームに行かねばならないはずだ。ホールの奥には実験器具や材料の倉庫になっている部屋と〈所長室〉しかないはずだが。


「おい、リュウイチ。どうした、行くぞ」

ツジイの呼びかけに我に返り、リュウイチは連れ立って研究所を出た。

〈鳥玄〉は地鶏のハツを塩だけで焼いた焼き鳥が旨い店だった。研究所に入ってしばらく経った頃、リュウイチは同期の友好を深めるという名目で、ユイと来たことがあった。ユイも、ここのハツはお気に入りだと言っていた。この店の焼き鳥が、とっつきにくい印象のユイとの距離感を縮めてくれた。

くーなのことを話したのも、この店に来たときだ。


二人はユイを待たず、プロジェクトが無事終わったことに乾杯をした。大役を終えた安堵感からか、ツジイはよく飲み、饒舌だった。一方、リュウイチの顔に書かれた屈託は、未だ拭い去られてはいなかった。

結局ユイが到着するまで、ツジイが一方的に話し、リュウイチは曖昧な頷きを繰り返すばかりだった。

――まったくな。お前たち新人二人とも面倒を見なくてはいけないと決まった時は、どうなることかと思ったよ。

――はあ。

――それに僕たちの研究で扱う重金属は、一つ間違えば被曝する。直接、生命に危険が及ぶ場合だってある。そんなところに新人二人を放り込まれたんだからな。被曝は(まぬが)れたけれど、胃に穴が開きそうだったよ。

そういうとやや赤ら顔になったツジイは、がははと大声で、リュウイチの知る限り最も闊達に笑った。リュウイチはすまなそうに、頭を掻くしかなかった。

――しかも、ほら、あれだ。大和田局長の視察の案内役まで任されたからな。あれも突然、荒木所長に頼まれて、びっくり仰天だ。防衛庁の局長で所長の親友じゃ、粗末には扱えないし……な。

そこで空になったジョッキを振って、ツジイは店の女将に「お代わり」と大声で言った。そしてリュウイチのまだ半分ほど残っているジョッキを見て、「何だ、飲んでいないな」ととろんとした目を向けた。ツジイは独白するような調子で、もはやリュウイチの相槌も気に留めずに、続けた。

――大和田局長が来られたとき、所長と何やら話し込んでたろう。何を話していたと思う? 「核兵器」だってよ。所長のデスクの上の仰々しい資料が、コーヒーを持って行ったとき、チラッと見えたんだ。うちの研究所じゃ、兵器開発なんてテーマにないけどな。きっと、大和田局長が持ってきた資料だろう。二人とも妙に真剣な顔で、議論していたな。もちろん僕がいる間は、何も話さなかったけどな。余程真剣だったと見えて、二人の声が廊下まで聞こえたよ。

そこへちょうど女将が、新たなジョッキを持ってきた。一口ツジイが飲んだところへ、遅れてきたユイが現れた。

「遅れて申し訳ありません。あら、ツジイさん、もう結構ご機嫌ですね」

ユイは二人が陣取っていた奥座敷に上がり込むと、リュウイチの横に座った。リュウイチが座敷を降りかけた女将に、ユイのためにジョッキを一杯追加した。

「妹さん、大丈夫だった?」とユイがリュウイチにそっと尋ねた。リュウイチは、「ああ」とだけ答えた。それを眠そうな顔をしていたと思ったツジイは、聞き逃さなかった。

「なんだ、リュウイチ。お前、妹がいたのか?」

仕方なくリュウイチは答えた。

「ええ、最近、一緒に住み始めたんです」

「一度だけ会ったことがあるんですけどね。とても可愛い妹さんなんですよ」ユイが追いかけるように、付け加えた。

「ほう、それは一度お会いしたいものだな」ツジイは冗談めいた調子で、笑った。


二時間ほど店にいて、もう一軒、と帰宅を渋るツジイを何とかなだめ帰し、リュウイチとユイは同じ電車に乗った。

「ツジイさん、随分飲んでいたけれど、大丈夫かしらね」

「めずらしく盛り上がっていたね。まあ大きな仕事を終えたんだから、今日くらいハメを外してもいいと思っていたんじゃないかな」

話題は自然とユイが店に到着するまでに、ツジイが話していた内容に移った。

新人二人は、ツジイにとって厄介者と思われていたこと。大変なプロジェクトの上に、大和田局長の視察の案内役まで任され、大変だったこと。所長の部屋に入ったとき、所長と大和田局長が〈核兵器〉に拘泥(こうでい)して、何かを議論していたこと。

最後の核兵器の話題に触れたとき、ユイの顔がかすかに曇った……ように見えた。ユイが話題を変えた。何かしら、慌てたような素振りに見えた。

「くーなちゃんにお土産の一つも買って帰った方がいいわよ。きっと愛するお兄様が遅いって、心配しているから」

「そんなことはないと思うけど」

「二人を見ていると、兄弟っていうより恋人同士に見えるもの」

ユイの言葉にリュウイチは狼狽した。酩酊がしばし忘れさせた昨夜の記憶が、再び鮮明な映像として蘇生した。それからはずっと無言のまま、調布駅に着いた。

リュウイチはユイに、「それじゃ」と手を挙げて、電車のドアまで進んだ。ユイはさらに三つほど先の駅に住んでいる。ドアが開いたとき、リュウイチはもう一度、ユイに小さく手を振った。


改札を抜けると見知った顔が立っていた。ユイの姉である。駅の時計は午後十時を示していた。時刻と目の前にいる人の不釣合いに、リュウイチはやや怪訝そうな顔をした。

まさに改札を出たリュウイチの前に突然出現したというタイミングだった。ユイの姉は、リュウイチを見ると、黙って頭を下げた。

くーなを一人で待たせていることが気に掛かり、先を急ぎたかった。しかし目の前に立っている彼女の前を素通りすることもできなかった。今は、己の優柔不断な気質が鬱陶(うっとう)しく思った。

「こんばんは」仕方なく、リュウイチは挨拶を返した。

「どうされたんですか? こんな時間に」

「主人に頼まれて、夕食後に買い物に出たんです。でも探していたら、いつの間にか遅くなってしまって。こんな時間に開いている書店って、なかなかないですわね」

「そうですね、特にこの辺りじゃなかなか……」

「それで駅前の書店から出たら、リュウイチさんが出てくるのが見えたものですから。こんな時間に失礼だとは思ったんですけど、ご挨拶せずに素通りするのもどうかと思いまして」

「そうでしたか、わざわざすみません」

「もしよろしければ、私の車で家までお送りしますよ。ついでと言ってはなんですけど、せっかくお知り合いになれたことだし、少しだけお茶でもいかが?」

内心リュウイチは困窮した。目の前でユイの姉は、ユイそっくりの聡明な微笑をたたえていたが、その目は強い意志を持ってリュウイチの否定を拒絶していた。(血は争えないな)とリュウイチは苦笑した。改札を出たときに、目を合わせたことにほぞを噛む思いだった。

結局、リュウイチは彼女の申し出を受け入れるしかなかった。

「ええ、少しだけなら」

「では参りましょう。そこに車を停めておりますので」

思い立ったら素早く行動を起こすところまで、ユイにそっくりだと思った。

ユイの姉は、駅のロータリーに停まっている、ブルーメタリックのプジョーを指差した。

ゆったりとしたシートに乗り込むと、彼女は、リュウイチのマンションの方角に車を走らせた。マンションまでの道程の途中にある、深夜まで開いているファミリーレストランのパーキングに車を入れた。時間のせいでもあろう。店内は若い客がいくつかのシートを占めているだけで、閑散としていた。

店員の案内で、窓際のボックスシートに座った。向き合ったユイの姉は、明るいところで改めて見ると、間違いなくユイと姉妹であることを感じさせた。ユイよりも、ややふっくらとした顔立ちをしていた。近寄りがたいほどに理知的で、ときに冷たささえ感じさせるユイと比べると、幾分優しい印象を与えた。

「本当にこんな時間にごめんなさい。先日お会いしたときには、ろくに自己紹介もしていなかったものですから。私、ユイの姉のアキと申します。深大寺に住んでおりますの。リュウイチさんのお住まいとは、ちょうど駅を挟んで逆方向になるかしら」

ユイの姉、アキは席に着くなり、手早く自己紹介をした。(よど)みないはきはきとした口調も、ユイとそっくりである。

「先日は、妹のことで大変ご迷惑をおかけしました。僕はリュウイチです。ユイさんには研究所でいつもお世話になっていまして……」

「お名前はユイから聞いておりますのよ。いつも電話でね。何でも研究所では、ユイと同期の方だとか。優秀な研究員だと伺っておりますわ」

「とんでもない。ユイさんにいつも助けていただいています」

コーヒーを一杯飲む間、そんな取りとめのない社交辞令が続いた。十五分ほどで二人はファミリーレストランを後にした。この十五分間に得たものは、ユイの姉が〈アキ〉という名前だということだけである。

車内のデジタル時計が午後十時三十三分を表示したとき、アキのプジョーは、リュウイチのマンションの前に到着した。アキとは車で別れた。

「今日はわざわざ送っていただいて、ありがとうございます。お気をつけて」

「夜遅くにお引止めして、ごめんなさい。妹さんにもよろしくおっしゃってくださいね。では、おやすみなさい」

ドアを閉めると、プジョーは静かに夜の闇に溶けた。テールランプの赤が、最後まで夏の空気に溶け残っていた。


テールランプを見送ると、リュウイチはマンションの三階に昇った。

二階から三階への階段の途中、リュウイチの目の高さが、三階の廊下と一致したとき、廊下にわだかまる塊が見えた。

塊と見えていたものは、人のようだった。

さらに近づくと、倒れていたのは〈天使〉だった。リュウイチの最愛の〈天使〉。

その瞬間、リュウイチはツジイらと居酒屋に立ち寄ったこと、アキと短い世間話をしていたことを後悔した。研究所に行ったことさえも悔いた。己の優柔不断さが恨めしかった。

今更ながらに、彼にとって、その〈天使〉は何物にも代えがたい宝であることが、はっきりと認識された。

(僕の天使が……)

くーなは目の前の廊下に、やや青白い顔で、うずくまるように、倒れていた。

リュウイチの部屋の、ちょうどドアの前で静かに眠っているようだった。

リュウイチは駆け寄り、くーなをそっと抱きかかえた。見る限り、外傷はないように見えたが、くーなは彼の胸で眠ったままであった。

リュウイチは鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込んだ。鍵を回したが、不思議に手ごたえがなかった。

(鍵が……開けられている!)

もう一度くーなを廊下に横たえると、意を決してドアを開けた。部屋の灯りは点いたままだった。

足音をたてないように、そろそろと進んだ。気配はない。見渡しても、誰もいない部屋を空しく照明が照らすばかりであった。

リュウイチはばね人形のように、廊下にとって返した。くーなを抱きかかえ、ソファに寝かせた。眠り続けるくーなを見て、泣きたい気持ちになった。

まだ息はあった。ヴィーナスの双丘も、呼吸に合わせて上下運動を繰り返していた。

唇を重ねた。柔らかく、暖かい唇は生きていて、温かい。しかしそのキスは、眠れる王女を目覚めさせることはできなかった。

携帯電話で、一一九番をダイヤルした。

数分後、眠ったままのくーなは、赤く瞬く車にリュウイチとともに乗っていた。

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