6 檻、兵器、ピアス
誕生日の翌日、リュウイチはくーなと連れ立って、動物園に行った。
前夜、ユイと姉夫婦が帰った後に、リュウイチは「明日、ディズニーランドにでもいかないか」と持ちかけた。くーなの年頃なら、きっと誰もが一番行ってみたい場所だと考えたからである。
しかしくーなの反応は、案外だった。
「動物園がいいな。私ね、遊園地の乗り物って苦手なの。特にジェットコースターのようなものは、あまり好きじゃないわ」
リュウイチは自分の提案が却下され、しばらく逡巡した。だがくーなの意思を尊重することにした。
調布からなら、京王線で行ける動物園もあるしな、と考えた。
「じゃ、そうしよう。実は僕もまだコアラを見たことがないしね」
動物園に着いた途端、くーなは子供に返ったようにはしゃぎ、檻のなかの動物に「こんにちはァ」などと話しかけ、手を振っていた。両耳に光るピアスだけが、くーなの本当の年齢を主張していた。
開園とほぼ同時に入場したにもかかわらず、午前中いっぱいかけて、おおむね半分の動物を観るのがやっとだった。
「遠足の前の日みたいな気分で、眠れなかったの」と言い、やたら早起きしたくーなが作った弁当を、シマウマの見えるベンチで広げた。快晴の空から降り注ぐ陽光は、二人のむき出しの腕を焦がすようだった。
だが二人とも、気分は清々しかった。
「くーな、おいしいよ。それにしても、随分たくさん作ったなあ」
「だって眠れなくて、作る時間がたっぷりあったもの。どんどん食べてね」くーなが笑った。
「でも、どうして動物園なんだい? 普通、くーなぐらいの女の子って、ディズニーランドなら間違いなく行きたがると思っていたんだけどな」
「嫌いじゃないけど、動物園には〈本物〉の動物がいるでしょ。ディズニーランドじゃ、中に人間の入ったネズミやアヒルしかいないじゃない」
「ま、それはそうだけど……」
「それに海賊が戦争するアトラクションとか、あまり夢があると思わないわ。檻に入っていても、本物の動物を見ているほうが素敵よ」
動物の方が良いと語るくーなの瞳は、不思議に強い意志を持った輝きを放った。
くーなの心づくしの弁当を食べて、リュウイチは近くの売店で、コカコーラを二つ買ってきた。よく冷えた黒褐色の液体は、炎天下に焼けるような二人の喉を快く潤した。
「じゃあさ、午後は檻に入っていないライオンを観よう。ライオンの代わりに、僕たちがバスの中から観るんだ。僕たちが檻に入るんだよ」笑いながら、リュウイチがそう持ちかけた。
「なるほど、私たちがライオンに観られるって訳ね。面白そう!」
弁当の後始末を終えると、通称ライオンバスと呼ばれている、色が塗られていなければあたかも護送車を思わせるバスの乗り場に向かった。
バスに乗ると、しばらくしてライオンが群がってきた。バスの窓にはライオンが首を突っ込まないよう、鉄格子が嵌め込まれていた。鉄格子を張り巡らしたバスの車内は、動く檻であった。
ライオンがバスの外に取り付けられた肉片目がけて、のっそりと歩み寄った。肉片をむさぼるライオンを、鉄格子一つ隔てた車内から見た。その迫力に、くーなは手を打って喜んだ。まるで自分の指まで差し出してしまうのではないかと、心配になるほどに。
「おい、くーな。騒ぎすぎだぞ。子供だってもう少し行儀良くライオンを観ているじゃないか」
「だって……」くーなは少しすねたような素振りをした。それでもバスの周りの肉片にかじりつくライオンから、目を離すことはなかった。
「こんな近くでライオンを観るの、初めてだもん」
ゆっくりとバスは走っていたが、それでも十分そこそこで短いサファリツアーは終わった。くーなは名残惜しそうに、遠くなるライオンの群れを見送った。
「ああ、楽しかった。じゃいよいよ、次はコアラね」
そう言って、〈コアラ館〉と書かれた看板が示す矢印の方角へ、駆け出した。
全ての檻を余さず観た。
最後に出口の脇に設けられた土産物売場に立ち寄った頃には、閉館も間近い時間だった。夏の空はまだ高かったが、土産物を物色していると、閉館を告げるアナウンスが流れてきた。
くーなはおそろいのマグカップを手にして、リュウイチに見せた。風呂上りのコーヒー用だと言う。
閉店間際で、レジの前には列ができていた。カップを抱えたくーなが最後尾に並んだ。
二つのカップの入った袋を大事そうに持ち、くーなは動物園から駅までの道を、リュウイチの腕に身を寄せて歩いた。
帰りの車中、くーなは発車するなり眠りだした。カップの入った袋がずり落ちそうになり、リュウイチがくーなの手から袋を取りあげた。くーなはそれにも気付かず、すやすやと気持ち良さそうに、深いまどろみに落ちた。ピアスが少しだけ傾き始めて、車窓から射す陽光を弾いていた。
家に着き、くーなは昼間の興奮の余韻を残したまま、話し出した。
――私ね、動物園なんて幼稚園か小学生の頃、遠足で行ったきりなの。父は動物とか植物とか、そういう〈自然のもの〉が嫌いだったみたい。博物館や美術館には何度も連れて行ってもらったけれど、動物園や水族館はだめ。博物館にある、昔の大砲とか鉄砲の説明は良くしてくれた。でも私はさっぱり興味がなかったわ。一応聞いている振りをしていたけど、さっぱり頭には入ってこないの。
くーなは遠くを見つめながら、自虐的な笑いを浮かべた。
――結局、父は兵器マニアなんだわ、きっと。
そうして話は、あのたった一度、父の部屋に忍び込んだときの記憶に飛んだ。
――部屋に大きなガラス棚があってね。その中に、銃の模型がいくつも並んでいたわ。それに兵器に関する本や戦争の本もあった。もちろん〈核兵器〉の本もね。あの秘密の資料も、父の趣味に関係あるのかなあ。
そこまで言って、くーなは我に返ったように頭を四回横に振った。「ああ、嫌なことをまた思い出しちゃった」
くーなは立ち上がった。
「ねえ、お兄ちゃん。今日は楽しくて、騒ぎすぎたせいかちょっと疲れちゃった。先にお風呂に入ってもいい?」
「ああ、入ってきなよ」
くーなが浴室に向かうと、リュウイチは何ごとかを考え込むように、下を向いた。
リュウイチが入浴を終えた頃、すでにくーなは先程のマグカップで、風呂上りのコーヒーを飲み終えていた。リュウイチが出てきたのを見て、すぐにリュウイチの分を運んできた。くーなのカップにはライオンが描かれており、リュウイチのはコアラだった。
「ありがとう」リュウイチは旨そうにコーヒーを一口すすった。
「じゃお兄ちゃん、先にベッドに入っているわね」
「随分早いな。分かったよ。じゃこれを飲んだら、僕も今日は寝るよ」
コーヒーを飲んでいるおよそ十五分間、リュウイチは再び考え込んだ。自分が普段、研究所で見たり、手にしたりしているものが、つい先程のくーなの言葉と頭の中で錯綜し、いくら考えを巡らしても、収束しそうになかった。畢竟リュウイチの考えは、『核兵器』という言葉のイメージからくる関連性に依拠しているに過ぎない。
カップの中の残り少なになったコーヒーを見て、リュウイチは考えることに疲れ、単なる〈核〉という言葉の符合に過ぎないと結論付けて、思考を中断させ、残りのコーヒーを飲み干した。
ベッドに入ると、くーなはまだ起きているようだった。枕もとの小さな灯りだけが点いていた。
「もう寝たと思っていたよ。まだ起きてたんだ」
そう言って、くーなの横に身を横たえた。
刹那。
くーなの細い腕が、リュウイチの手首をつかむや否や、その手首は乳房にいざなわれた。パジャマの前のボタンは、すでに全て外れていた。リュウイチの手は例えようもないほど柔らかなヴィーナスの丘の斜面をなぞり、その頂点に達した。頂点だけはそれまでの柔らかさと対照的に、堅く屹立しひときわ突き出していたが、その自然な堅さとは明らかに異質で、人工的な堅さを同時に感じた。
(なんだ、このリングみたいなものは)
声を出す間もなく、ヴィーナスの丘の頂きに手が達すると同時に、リュウイチの唇もくーなの柔らかな唇に塞がれた。口と手の自由を同時に奪われたリュウイチは、ベッドの中で、まるで大海のまっただ中で溺れる者のようにもがいた。
驚きのあまりもがき回って、くーなの手を振り解いたリュウイチは、ベッドの布団をいきなりめくり上げた。枕元の小さな灯りが絶妙の陰影を作り、くーなの白い裸身を浮かび上がらせた。
丘の頂上に屹立したものに、さっきまでくーな自身を美しく飾っていたピアスが、突き刺さっていた。
おそらくリュウイチがコーヒーを飲んで、思索にふけっている間に、急いで開けたものであろう。頂上の桃色がかったようにも見える褐色の突起には、血が滲んでいた。その血は、二筋の細く赤い線を描いて、突起からヴィーナスの丘を伝い、丘の中腹で線の輪郭がぼやけていた。
くーなの目にも、涙が滲んでいた。
くーなは何も言わず、潤んだ瞳でリュウイチを見つめた。
「くーな。こ、これは一体、どういうことなんだ。なぜ、こんなことを、するんだよ。見ろよ。血が……、血が、出ているじゃないか」
興奮のあまりどもりがちな言葉で、リュウイチは激昂した。それとは対照的に、くーなは無表情なほど冷静な顔で言った。
「ボディピアスよ。今どき、みんなやっているわよ。一度やってみたかっただけ。お兄ちゃんにだけ、見せてあげようと思ったの」
「とにかく血も出ているし、もういいから外せよ。もしも化膿したりしたら、どうするんだ」
「わかったわよ」
痛むのか、くーなはやや顔を歪めながら、ピアスを外した。鮮血が、新たな線を描いて、一筋流れ落ちた。リュウイチは思わず、顔を背けた。
「お兄ちゃん、私のこと嫌いになった?」
不安げに、くーながリュウイチの顔を覗きこむ。
「そうじゃない。でもそうやって自分の体を傷つけるようなことはして欲しくない。もう二度と、ボディピアスなんてするなよ。いいな。少なくとも、僕の趣味じゃない」
返事の代わりに、くーなは胸をはだけたままの格好で、リュウイチの胸にしがみついた。困り果てたリュウイチの顔に、再びくーなの小さいがぽっちゃりした唇が迫った。リュウイチの胸に押し付けられて、あらわになったヴィーナスの双丘が、その美しい形を失った。
二度目のキスは三十秒間続いた。くーなの舌は、ちろちろと休むことなく、リュウイチの口の中を這い回った。燃えさかる炎をまとった蛇のような舌は、リュウイチの中の何物かを焼き焦がすように、せわしなく動いた。そしてその小さい、桃色の炎は、三十秒かけて、リュウイチの理性を焼き尽くし、心の底に宿る官能を召喚した。
リュウイチの手が柔らかな丘に再び触れると、桃色の小さな蛇は安心したように巣穴へと戻った。
濡れ光るくーなの唇が、呟いた。
「今日で、妹はおしまい」
じっとリュウイチの目を見据えて唱えた呟きは、なお一層彼の本能を揺さぶり、喚起した。リュウイチは百八十度回転して、己の体をくーなの上に横たえた。そうしてくーなの最も柔らかな部分を彩る、半ば乾きかけた紅い血筋を舐め取り、その手はヴィーナスの最も敏感な場所へと伸びた。かすかにくーなが、リュウイチの頭上で呻いた。
くーながリュウイチの〈妹〉からオンナになった翌朝、ベッドのシーツには紅色の染みが三つ残っていた。しかし前夜、くーなは一言も「痛い」とは言わず、ただ黙って最愛の〈兄だった者〉を受け入れた。
その夜、リュウイチは夢を見た。夢の中で、鮮血と違わぬ深紅のキノコ雲が、大きな爆音とともに、龍のように空に立ち昇っていた。