5 ハッピー・バースデイ
リュウイチは調布駅に降り立つと、汗を拭った。梅雨はもう明けようとしており、真夏の陽光に地表にある全てのものがとろけてしまいそうであった。
七月二十九日。くーなの十九回目の誕生日にして、リュウイチの二十三回目の誕生日である。奇しくも同じ日に生まれた二人は、突然の出会いから三十日という期間を共有したことになる。
武蔵野丘陵にあるこのベッドタウンの空は暮れなずみ、それでも暑さは一向に衰えを知らずにいた。コンコースを抜け、駅に併設されたビルに飛び込むと、冷たい空気に包まれた。吹きだした汗が瞬時に揮発して、急激に体温を奪い去るような寒さを覚える。
地下に降りて、リュウイチはいくつかのコンフェクショナリーを順に見て周った。しかし見れば見るほど、どの店でくーなのバースデイケーキを買うべきかという、簡潔だが深遠な命題を前に戸惑うばかりだった。
しかし冷風に包まれた地下街で、深遠なる命題への思索をするための時間は、長くは与えられなかった。リュウイチが着ているスーツの胸ポケットの中で、携帯電話が震えたからである。
くーなからのメールが届いていた。
――おつかれさま。お兄ちゃん、誕生日ケーキ買ったからネ! 早く帰って、一緒にお祝いしよう。
――了解。実は今、俺もケーキを買おうと迷っていたところ。じゃこれから家に帰るよ。
手早く返信すると、再び地上階に出た。
一階でフロアマップを見て、小さなジュエリーショップに向かう。店員は愛想良くいらっしゃいませと声をかけたが、リュウイチはその声を意図的に無視した。そうして素早くショウウインドウの中にちりばめられたアクセサリーと、その横に鎮座する、顔を近づけないと読み取れないほど小さな字で値段の書かれた札を見回した。
声をかけた手前、リュウイチの前から動くこともできず、笑顔を凍りつかせたまま、その場に硬直した店員に、一つのピアスを指差した。
「これを」リュウイチが放った短い呪文に、店員の凍りついた微笑は氷解した。
「こちらでございますね」ほっとしたような顔の店員はすかさず顧客向けの微笑を作り直し、リュウイチをにこやかに直視したまま言った。
ショウウインドウの中に、すらりと伸びた白い腕が差し入れられた。ピンク色の小さなダイヤ型をした石がはめ込まれたピアスは、店員のすらりとした指につままれ、ショウウインドウの上に置かれた。
「どなたかへ、贈り物ですか?」
「……ええ、まあ。兄弟なんですが。誕生日で」
「では、ギフト用にお包みします。こちらへどうぞ」
店員に促され、リュウイチはレジカウンターに進んだ。店員にリボンの色を尋ねられ、桃色のリボンを選んだ。くーなを思い出すと、一緒に家に連れ帰ったときの、薄桃色のバスタオルを被った姿が、今も印象的な記憶としてあった。そのとき以来、リュウイチにとって、くーなのテーマカラーは桃色になった。
青いパステルカラーの紙に包まれた小さな箱をカバンにしまうと、リュウイチは出口に向かった。自動ドアが開くと、重く、湿っぽい外気がビルの中へなだれ込んできた。
「ただいま」
リュウイチが部屋に入ると、すでにテーブルの上にはくーなの心づくしの料理が並んでいた。
テーブルの真ん中には、純白のクリームの上に色とりどりのフルーツが並んだケーキが鎮座していた。中央にはチョコレートでできた楕円形のプレートが置かれている。白いチョコレートで、英語のような文字が書かれていた。
〈Happy Birthday Ryuichi & Coona〉
リュウイチの顔がほころんだ。キッチンから、最後の一皿を手にしたくーなが出てきた。
「おかえりなさい。お兄ちゃん、お誕生日おめでとう」
「ありがとう。くーなも今日だろ。おめでとう」
くーなは手にしていた皿を、テーブルの残り少ない隙間に無理やり押し込んだ。
「さあ、お兄ちゃん、早く着替えて、手を洗ってきて。お祝いしましょ」
「うん」リュウイチは部屋に入り、カバンを置いた。スウェットにTシャツといういでたちで洗面所に向かうと、汗でぬらぬらした顔と手を洗った。そしてもう一度忍び足で自室に戻ると、カバンの中から桃色リボンの箱を取り出し、スウェットのポケットに押し込んだ。
テーブルに着くと、ケーキには太いキャンドルが二本と細いのが三本立っていた。
「くーな、君の歳にあわせたろうそくにしたらいいじゃないか。そのほうが本数も多いしさ」
「多すぎて、一度で吹き消せないわ。それに、それしかろうそくを貰ってこなかったの」
リュウイチの許に身を寄せてからすぐ、くーなは調布駅の近くの洋菓子店でアルバイトを始めていた。この日のケーキも、その店で安く譲ってもらったのだと言う。
食後のコーヒーを飲みながら、リュウイチはポケットから小箱を取り出した。長い間、ポケットの中に幽閉されていた小箱は、リボンの形がやや崩れかけていた。リュウイチは、リボンの形を手早く直し、包みをくーなに手渡した。
「改めて、誕生日おめでとう」
くーなは突然差し出された小箱に、目を丸くした。
「ありがとう! 本当に貰っていいの」丸い目をしたまま、くーなは両手で包み込むように、小箱を受取った。
「何かなあ? 開けてみてもいい」
「ああ、安物ですまないけど……」
細く白い指先がリボンの端をつまみ、惜しむようにゆっくりとリボンが解かれた。包装紙を開けると、中からビロードのような布が貼ってある、小さな箱が現れた。
「わあ、ピアスね。カワイイ! 本当は高いんじゃない、大丈夫?」くーなは笑いながら、リュウイチの顔を覗くようにした。
「いや、安物だよ。まだ安月給だから、それで勘弁してよ」
「とんでもない。嬉しいわよ、お兄ちゃん。本当にありがとう。居候させてもらっているだけでもありがたいのに……」
一瞬、くーなは顔を歪めた。双の瞳がうるんでいた。
それまで着けていた本当に小さなピアスを外すと、くーなはピンクに輝くプレゼントを手にした。くーなの両耳で揺れるそれは、小さくて白い彼女の顔によく映えた。
「どう?」
「うん、とってもよく似合うよ。馬子にも衣装、だな」
「ひどい」
くーなはからかうリュウイチを叩く真似をして、一瞬ふくれっ面をした。そして二人は顔を見合わせて、大きな声をあげて笑った。
「さあ、お次はケーキね」
くーなはケーキに並ぶキャンドルに火を点け、部屋の灯りを消した。再び席に着いたくーなの両耳のピアスが、キャンドルの光を受けて、艶かしく揺れていた。
「吹き消していいわよ、お兄ちゃん」
その声にリュウイチは一息で炎を吹き消した。真っ暗な空間に、キャンドルの先からほの白い煙が、ゆらゆらと立ち昇った。
部屋の照明が再び室内を明るく照らした。くーなは拍手をしながら、歌いだした。このときのくーなはリュウイチのところに来て、一番楽しそうに、輝いて見えた。
ささやかな誕生日の祝いの翌日。蒸し暑さは相変わらずである。
この日、仕事を終えて調布駅に降り立ったリュウイチの横に、一人の女が立っていた。ユイだった。
金曜日だったので、週末を深大寺の近くに住む姉夫婦のところで過ごすと、彼女は話した。リュウイチは、それならば調布まで一緒に行こうとユイに申し出た。
そのユイが、リュウイチと一緒に調布駅の改札を出て、バスターミナルのある駅のロータリーに現れたのである。時刻は七時を回っており、くーなは一時間ほど前にアルバイトを終えて、もう部屋に戻っているはずであった。
しかしくーなは、駅の横の、昨日リュウイチがプレゼントを買い求めた店のあるビルから、今まさに出てきた。
昨日、自分だけプレゼントを貰った手前、ネクタイでもと思い立ち、アルバイトの帰りに立ち寄っていたのだった。
リュウイチはくーなに気付いていなかった。しかしくーなからは、背の高いリュウイチとあまり背格好の変わらないすらっとした容姿の、美しい女性が並んで歩くのが良く見えた。
くーなはくるりと踵を返した。駅のロータリーを大回りして、後ろを振り向くことなく、一目散に家に向かった。
リュウイチとユイは、談笑しながら〈深大寺行き〉のバス停の場所まで、肩を並べて歩いた。ユイはまだくーなと面識はなかったが、リュウイチはすでに、突然我が家に闖入してきた我が妹について、すでにユイに話していた。
「このバス停から乗ればいいよ。じゃおつかれさま。気をつけて」バス停で、リュウイチはユイにそう言うと、再び駅の方へ戻ろうとした。ユイの声が、リュウイチの背中を追いかけた。
「じゃ、〈妹さん〉にもよろしくね」
リュウイチは、ユイに背を向けたまま、大きく上げた手を三回降って、挨拶した。丁度バス停に、〈深大寺〉と表示されたバスが入ってきたところであった。
その頃、くーなはすでに駅を離れて、大股で、今にも駆け出しそうなほどの早足になり、マンションへと向かっていた。
帰宅するなり、リュウイチはまだ靴も脱ぎ終わらないうちに、くーなから細長くて、薄い、黄色の包装紙にくるまれた箱を押し付けられた。
「はい、プレゼント」
くーなはそのまま、サンダルを履いて出て行った。すれ違いざま、ちらと見えたくーなの横顔は、泣いていたように見えた。
「おい、くーな……」
その声は階段を駆け下りるサンダルの音にかき消された。
取り残されたリュウイチは、彼の胸の中に取り残された包みを見た。テーブルの脇にカバンを置いて、包みを開けた。
中から細長くて薄い箱が出てきた。開けると黄色地に水玉模様をあしらったネクタイの上に、〈誕生日おめでとう〉と書かれた小さなカードが添えられていた。
リュウイチは玄関を振り返った。くーなの幻影でも探すように。
しかしそこには、開け放たれたままのドアと、ドアで長方形に切り取られた廊下の白い壁が見えるだけだった。
カードを箱に収めて、再び閉めた。リュウイチはソファに上着をポンと放り投げ、もう一度靴を履いた。廊下に出て、階段を駆け降りた。
マンションを出ると、左右を見回しながら、大きく二回「くーな!」と叫んだ。無論、返事はない。
リュウイチは駅に向かった。まだあまり土地勘のないくーなは、おそらく駅の方角に向かうと判断した。
しかし駅までの道程で、くーなを見つけることはできなかった。駅とマンションの間を何度もくーなを探しながら、三往復した。リュウイチは今にも泣きそうな顔になって、もう一度駅に向かった。
駅に着くと、ロータリーを三人組で歩いているユイに出くわした。姉夫婦とともに、再び食事に出てきたところだった。
ユイは姉夫婦を紹介しようとしたが、リュウイチの姿を見て、その言葉はユイの口から出る前に飲み込まれた。
汗みずくになって、荒い息をしているリュウイチを見て、ユイは目を丸くした。
――リュウイチ君、どうしたのよ? 汗びっしょりになって。家に帰ったんじゃなかったの?
――くーなが……あ、妹が出て行ってしまったんだ。
リュウイチは膝に手を突いて、前かがみになると大きく五回、肩で息をした。そしてユイに家に帰ってから、くーなが家を飛び出すまでの経緯を話した。
――ふうん、〈くーなちゃん〉はリュウイチ君に誕生日プレゼントを渡してから飛び出たのね。
――そうなんだよ。まったく訳が分からない!
未だ息が整わず、途切れがちな言葉でリュウイチが語った。
――そうでもないわね。きっとくーなちゃんは、駅で私たちが話しながら歩いているのを見かけたのではないかしら。
――でも、あの時間にくーながどうして駅に……。それに君と僕が歩いているのと、くーなが家を出ていくことの因果関係が分からない。
ふふっ、とユイは口に手を当てて笑った。
――そういうものよ。オンナゴコロね!
――オンナゴコロ?
――そう。失礼だけど、くーなちゃんはリュウイチ君と血が繋がった兄弟ではないでしょう。つまり〈恋〉ね。ジェラシーと言い換えてもいいわ。
――ジェラシー……、じゃくーなは君と歩いている僕に妬いていたという訳かい?
――おそらくね。まして今は、あなたのところしか身を寄せる場所がないんだもの。唯一頼りにしていたリュウイチ君が、私と歩いているのを見て、心細くなったかもしれないわね。
そう言うと、ユイはくーな捜索の手伝いを申し出た。
――折角食事に出てきたんだろう。お姉さんたちに、悪いよ。
――ま、私にも責任の一端があるわけだし。くーなちゃんだって、知らない土地でいつまでも一人にしておくのは可哀そうだわ。
――しかし、君の責任ではないよ。
――いずれにしても、一人より四人の方が早いわ。
ユイは姉夫婦に向かって言った。
「人捜しをするの。私もあまりこの辺りの地理は詳しくないし、手伝ってくれない?」
そういうと再びリュウイチを見た。
「ところでくーなちゃんの写真、持ってない?」
リュウイチは携帯電話を開き、デジタルカメラで撮影したくーなの顔を見せた。ユイは忘れないように、ユイの携帯電話に写真をメールで送信してくれないかと言った。
万事てきぱきと事を進める、研究所での姿そのままのユイがいた。
見つけたら、互いに携帯電話で連絡することを申し合わせて、駅周辺はユイと姉夫婦に任せた。
「折角のお食事を邪魔してしまって、申し訳ありません。よろしくお願いします」
姉夫婦に一つ頭を下げて、リュウイチは再び自分のマンションの方へと駆け出した。
マンションに近づくと、街灯の物陰に人影が見えた。くーな、だった。
くーなは電柱に寄り添うようにして、しゃがみこんでいた。それを見たリュウイチも、一気に膝の力が抜けて、同じようにしゃがみこんだ。
「くーな」
荒く呼吸を繰り返す合間に呼びかけた。返事はなかった。しゃがみこんだくーなは、電柱の街灯が形づくる、影のわだかまりの一部と化していた。
「くーな、だろう?」
リュウイチは立ち上がると電柱に近づいた。黒いわだかまりがわずかに動いた。くーながリュウイチから顔を背けたせいだった。
「どうしたんだ、くーな! とにかく家に戻ろう」
それきり微動だにしようとしない影をリュウイチは掴んで、強引に引き上げた。泣いた痕がくっきりとついたくーなの顔が、街灯の明かりでぼんやりと照らされた。
くーなは何度か、リュウイチの手をふりほどこうとしたが、やがておとなしくなった。手を掴んだまま、リュウイチは部屋に戻った。
テーブルの足の横に置かれたカバン、ソファに打ち捨てられた上着、テーブルの上の細長い箱が、出て行ったときのまま空しく置かれていた。
リュウイチはテーブルの上の箱を手にすると、軽く二回、テーブルの脇にうずくまるようにしているくーなに振って見せた。努めて平静を装うように、くーなに語りかけた。
「これ、ありがとう。くーなもいいセンスしているなあ」
そういってくーなに微笑んで見せた。くーなは笑わずに、自分の膝を見つめていた。
そっとリュウイチは、くーなの腕をとって、立たせた。もう抵抗はしなかった。再び、くーなの瞳は涙で満たされた。
「さあ、もう泣くな。顔を洗ってこいよ。明日は休みなのに、その顔じゃどこにも出かけられないぞ」
口を開くととめどなく涙が出そうだったくーなは、何も言わず、かすかに頷いて、洗面所に向かった。
くーなが洗面所に言っている間に、リュウイチはユイの携帯電話にダイヤルした。三回の呼び出し音の後、ユイが出た。まだ何も言わないうちに、ユイの声が電話口から飛び出した。何かにつけ先を読む、回転の速いユイらしかった。
――くーなちゃん、見つかったの? 見つかったのね。
――ああ、実はマンションに戻ると、マンションの入り口にいてさ。灯台下暗しって感じだよ。
――良かったじゃない。じゃくーなちゃん、今家にいるのね。
――うん。ところで君たちは今、どこにいるの?
――〈メゾン調布第一〉って建物が見えるわ。
――じゃあ、僕の家の近くだ。ちょっと待ってくれるかい。
リュウイチは表の道路に面したベランダに出た。さっきまでくーながしゃがんでいた電柱を見た。電柱の先に、小さく三人組が見えた。
――おおい。
電話にそう呼びかけながら、ベランダから手を振った。ユイは何度か振り返ったりしていたが、やがてベランダのリュウイチを発見した。
――ああ、見えたわ。そこね。
――せっかくだから、少し寄っていってくれないか。お茶くらいいいだろう。
――そうね、じゃお言葉に甘えるわ。くーなちゃんにも会いたいし、ね。
そこで電話は切れた。三人組は電柱の影まで来ていた。
くーなも洗面所から戻ってきた。腫れぼったい目をしていた。リュウイチはコーヒーを淹れるために台所に向かいながら、くーなに話しかけた。
「くーな、もうすぐ素敵なお客さんがやってくるぞ。インターホンが鳴ったら、鍵を開けてくれ」
五秒後、果たしてインターホンは鳴った。くーなが玄関の鍵を開けた。ドアノブがゆっくりと回り、ドアが開いた。
くーなの目の前に、先程駅で見た綺麗で背の高い女性がいた。
「こんばんは。くーなちゃん、ね」
くーなの目の前に、再び件の美麗な女性が現れ、いたずらっぽい顔で微笑んでいる。その女性の後ろに、もう二人の男女がいた。
「どうぞ」
くーなは目を丸くした。
(さっきのきれいな人じゃない。どうして私の名前を知っているのかしら?)
「お邪魔します」ユイは、くーなのジェラシーを再び増長させるほど上品な口調で言った。静かだがよく通る声だった。脱いだハイヒールにも、くーなにとっては大人の女性の魅力があふれているように見えた。
「いらっしゃい」リュウイチは台所から出てきて、ユイと姉夫婦を迎えた。
「くーな捜しを手伝ってくれてありがとうございました」もう一度、三人に頭を下げた。リュウイチとユイの顔の間を、秒間一往復のスピードで、くーなの視線がせわしなく往復運動を繰り返した。
「くーな、こちらは僕と同じ研究所のユイさんだ。後ろにいるのが、ユイさんのお姉さんとその旦那さん。お姉さん達は調布の近くに住んでいて、ユイさんは週末、お姉さんのところに遊びに来たって訳さ」
まだ見開いた目を往復運動させているくーなに、かいつまんでユイを紹介した。リュウイチに対するライバルとして見ていたユイに関する、リュウイチ自身からの説明を聞いて、くーなは自身の誤解に屈服するしかなかった。
くーなは恥ずかしそうに下を向いた。
早くも察したユイが、くーなの肩にそっと手を置いて、語りかける調子でくーなに囁いた。
「くーなちゃん、いいのよ。勘違いするのも無理はないわよね。それにおかげで、こうしてリュウイチ君のご自慢の〈妹さん〉に会えたんだし……」
「おいおい、僕がいつ自慢したんだい」リュウイチはいきなりのユイの言葉に、思わず横槍を入れた。ユイは取り合わず、くーなの顔を見たまま、「ふふふ」と笑っていた。その笑みはまさしく〈大人の女〉のそれであった。くーなは、その余裕を悔しく思った。
しかしまだ完全に失ったわけではないくーなのプライドが、彼女の顔に笑みを作った。やがて悔しさは、ユイがリュウイチに〈特別な〉感情を持っていないことがわかると、姉に対する思慕へと変化した。
リュウイチはその笑顔を見て、再び台所に戻った。程なく湯気を立てている五つのコーヒーカップを載せた盆を持ち、テーブルに現れた。
結局その日は、リュウイチ、くーな、ユイ、ユイの姉夫婦で、リュウイチの部屋で食事を共にした。近くで買ってきた寿司を皆でつまむだけの簡素な食事だったが、久しぶりの賑やかな食卓は、リュウイチもくーなも、晴れ晴れとした気持ちにさせた。ユイらが暇乞いをする頃には、くーなとユイもすっかり打ち解けて、あたかも本当の姉妹のように談笑しているのだった。
「じゃそろそろ失礼するわ。リュウイチ君、すっかりお邪魔したわね」
「いや、こちらこそ……」リュウイチの言葉をすぐに受け取って、くーなが横から口をはさんだ。
「ユイさん、また遊びに来てね」
「現金な奴だ」そう言うと、リュウイチはくーなの頭を小突く真似をした。くーながユイに向かって、ぺろりと舌を出した。
ひとしきり五人は晴れ晴れとした笑いを交わし、ユイと姉夫婦は立ち上がった。
リュウイチは玄関まで見送りに出たが、くーなはそのまま玄関を、ユイたちと一緒に出て行った。
「おい、くーな。今度はどこへ行くんだよ」
「〈ユイ姉さん〉を下まで見送りに行くだけよ」振り向いてくーなはリュウイチに頷いた。
「一体、何人を兄弟にしたら、気が済むんだ!」あきれ顔でリュウイチが言った。
ユイがくーなに向かって、諭すように言った。やはり〈大人の女〉の余裕を含んだ口調で。
「だめよ、くーなちゃん。そんなこと言っちゃ。今度は、お兄ちゃんが妬くわよ」
リュウイチを玄関に残して、ドアがゆっくりと閉まった。リュウイチは「ほっとけよ」と口を尖らしたが、その声は閉じたドアに跳ね返された。
仕方なくリュウイチは、ベランダに出て眼下の道路を見た。去りゆく三人組に向かって「また来てね」と言いながら、いつまでも手を振っているくーなが見えた。
その姿を見ていると、くーながあの〈大和田局長〉の娘かと、リュウイチは訝しく思った。リュウイチの心に兆して以来、ずっと黒い澱としてわだかまっている〈あのこと〉が、またも鎌首を持ち上げていた。
くーなが手を振っている間、リュウイチは飽かず彼女をじっと見つめた。




