4 邂逅
2008年、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
〈箱〉の前に、大きな黒光りした車が到着した。入り口では、荒木所長以下、研究所のメンバーが整然と並び、今や遅しと車の到着を待っていた。
荒木は紺色のスーツを着ていたが、その横には一様に白衣で固めた所員が、ズラリと並んだ。灰色の空と灰色の箱を背景にして、白衣の集団は周りの景色からくっきりと浮かび上がった。さまざまな色彩に揺れている傘と白で統一された集団のコントラストが、まますます彼らだけを浮かび上がらせた。
禍々しいほどに黒い車が、箱に向かってゆっくりと進んできた。その車は、荒木の三メートル手前で、右にステアリングを切った。見事に荒木の横に左後部座席の扉が停止した。
後部の座席には、誰かが乗っているようであった。しかしリアウィンドウには車と同様の黒い遮光フィルムが貼られており、車中の人物を外部から確認することはできなかった。
車が停止して約十五秒経過した。右のフロントドアが開き、中から典型的な運転手と思しき人物が頭を出した。車越しのため上半身しか見えなかったが、神経質そうな線の細い男である。車を出るとすぐ、黒い大きな傘を開き、荒木に向かって会釈をした。そして長く伸びた車のフロント部分を大きく回り、左後部の扉のところに進んだ。
「中川さん、ご苦労さまです」目の前に運転手が来たときに、荒木が声をかけた。中川と呼ばれた男は、扉に伸ばした手を一度停め、改めて荒木に向かい、今度は深々と頭を下げた。
「ご無沙汰しております、荒木所長。研究所の視察をご快諾いただき、本当にありがとうございます」
いささか芝居がかっていると思われるほど丁寧で紋切り型の言葉で、中川は挨拶を返した。再び扉に向き直り、持っていた大きな傘を扉の上部に差しかけた。そして純白の手袋をした手で、ゆっくりと扉を開いた。「ガチャリ」と扉の開く音は、あたかも大聖堂の扉を開けたときのように、荘厳な音に思われた。
開かれた扉から、中川に輪をかけて神経質そうな男が、ゆっくりと立った。仕立ての良いダークグレーのスーツに包まれた体躯はがっしりしていたが、太っている印象はなかった。十分すぎるほどの威厳を保ってはいたが、むしろどことなく脆さを感じさせる雰囲気があった。
すぐに中川は濡れないように傘を差しかけた。
中川と今しがた車から出た男は、扉をはさんで立っていた。そのため大きな傘といえども、二人を雨から覆うことはできなかった。中川の衣服にはたちまち梅雨の重たい雨がしみこんだ。
「やあ、荒木君。元気そうだな」
「そちらこそ。ずい分出世されたみたいで何より。今日は生憎の天気だな」
荒木の言葉に、男は相好を崩しながら右手を差し出した。荒木もそれに応えて、三秒間笑顔で握手をした。男は、横で傘を差し出している中川には、まったく頓着しなかった。
荒木が握手をしながら、ちらっと中川に目を走らせた。そして握手していた右手を解くと、男に言った。
「さあ雨の中で立ち話もなんだから、早速だが中へ入ろう、大和田君」
「うむ」荒木に促され、大和田は研究所の入り口に進んだ。後ろから傘を持って、中川が寸分違わぬ歩幅で、傘を持ったまま続いた。扉の前で、大和田はようやく後ろに中川が立っていることに気付いた、という風に振り返った。
「ああ、中川君。今日は一日こちらにお邪魔することになる。午後四時にまたこちらに車を回してくれ」
「わかりました、先生」中川は恭しく答えた。
荒木の合図でツジイが認証装置に掌をかざし、入り口の扉が開いた。大和田は感心したように、荒木に尋ねた。
「荒木君、こちらの研究所は静脈認証で制御されているのかい?」
「うん、そうだ。入り口も各部屋も、すべて地下の中央監視センターにある認証用サーバに繋がっている認証装置で制御しているんだよ」
大和田と荒木を先頭に、所員が続いて入り口のホールまで進んだ。そこで振り返って、荒木は集まった所員たちに、大和田を紹介した。
「みんな、こちらが今日、当研究所の視察に足を運んでくださった、防衛庁の防衛政策局におられる大和田局長だ」
横に立った大和田は、一度首だけでお辞儀をした。
「今、荒木所長に紹介いただいた大和田です。皆さん日々研究に取り組んでおられるお忙しい身ながら、今日は私の視察を承諾いただいて、ありがとう。かねてから荒木所長には、最先端の研究設備や優秀な諸君があげてこられた成果の話を伺っていた。だから一度、この目で研究所と諸君の成果を見たくなり、荒木君にわがままを言って、視察を了承いただいた次第だ。是非、いろいろと見せていただきたい」
いかにも役人調の、いささか長い挨拶が終わった。大和田は再び、目の前に並ぶ白衣の集団に頭を下げた。今度のお辞儀は、腰から深々と下げたもので、きっちり三秒間だった。
「そういう訳で、今日は君たちの日頃の成果をとくと大和田局長に見ていただくつもりだ。大いに成果を自慢してやってくれ」
荒木は言いながら、大和田と顔を見合わせ、笑った。その声はホール中に響いた。白衣の集団が大和田に揃って頭を下げた。
荒木がツジイに右手を伸ばして、手をひらひらさせて「ちょっとこっちへ来てくれ」と合図した。ツジイは素早く、荒木のところまで小走りした。荒木はツジイを、大和田に紹介した。
「こちらが当研究所の主任を務めるツジイ君だよ。君の視察の案内は、ツジイ君に任せてある。僕の片腕といってもいい男だ」
「本日は案内役を務めさせていただきます。ツジイです。よろしくお願いします」
ツジイが大和田に頭を下げた。大和田は右手を差し出して、「ああ、よろしく頼むよ」といいながら握手を求めた。おずおずとツジイも右手を差し出した。
握手が済むと荒木が、大和田にまず自分の部屋に来いと誘った。
「視察の前に、これまでの成果なんかを一通り説明しよう。まずは私の部屋で話そう」
荒木はツジイに言った。
「ツジイ君、悪いが私の部屋にコーヒーを二つ運んでくれないか。君が運んでくるんだぞ」荒木は大和田とともにホールの奥にある所長室に向かって歩き出しながら、もう一度念を押した。
「いいかい、僕の部屋には君が運んでくるんだ」
二人はツジイと白衣の面々に見送られながら、ホールから続く廊下を進み、所長室に吸い込まれた。二人の姿が消えると、それまで整然と並んでいた白衣は、それぞれの部屋へと散っていった。
ツジイはプロジェクトルームに戻ると、リュウイチとユイを呼んだ。
「どうだい、準備の方は」
「はい。コーヒーも買ってきましたし、昼食の方も手配できました。昼食は、お昼前にこちらに届けてもらうよう、お願いしてきました」リュウイチが答えた。
「そうかい、ありがとう」
「ところでツジイ主任」
「うん、何だい?」
「先ほど所長が、ツジイ主任に、自らコーヒーを持ってくるよう念を押していましたが、どうしてですか?」
「あの部屋に入れるのは、きっと所長以外に僕だけだからじゃないかな」
「そうなんですか!」
「今日の視察の案内を任されたときに、所長がいろいろと打ち合わせもあるからと言って、下の管制センターに所長室への入室権限リストに私も登録してくれるよう、お願いしてくれたんだ」
「なるほど、そういうことですか。ほかに登録されている人はいないんですね」
「うん。確かに所長以外には、僕だけのはずだ。所長の部屋にはいろいろと機密情報もあるからなあ。そうそう誰でもが立ち入れるようでは、困ってしまうだろう」
そういうとツジイは立ち上がった。「じゃ、これから打ち合わせが始まるんで、何かあったら連絡してくれ」
リュウイチとユイも、ひとまず今日の実験の準備にとりかかった。
結局、荒木と大和田の会談は、その日の午前中いっぱいの時間を要した。