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くーな  作者: 藍田陽介
3/13

3 研究所の朝

東京の梅雨は長く、その日も朝からうんざりするほどしとしとと雨が降っていた。空気は比重を増し、体中にまとわりつくようだった。

傘をさして、研究所までの道を歩くリュウイチの足取りも重かった。研究所に着いたときには、リュウイチの下半身は雨に濡れ、家を出たときと同じ服を着ているとは思えぬほど色が変化していた。濡れたズボンはリュウイチの歩みをいよいよ重くした。

研究所の入り口には、掌をかざす装置があった。これで掌の静脈を読取り、その形や模様から個人を認証し、識別する。

リュウイチは装置に手をかざした。緑色のランプが点灯状態から点滅状態に変わり、三秒経過するとピッという電子音とともに、入り口が解錠し、金属製の扉は滑るように横にスライドする。リュウイチは研究所の中に入った。

入り口のすぐ横にある階段で二階へ上がり、廊下を一番奥まで進んだところにある右側の部屋が、リュウイチの属しているプロジェクトルームだった。部屋の前にも入り口と同様の扉と認証装置が設けられており、研究所員であっても、立ち入りのできる部屋は厳しく制限されている。

また研究所の建物には、窓がなかった。換気ダクトの取り込み口などは設けられているけれども、いわゆるガラス窓というものは一切なかった。

研究所は遠くから見ると、雑木林の中にぽつねんと屹立する〈箱〉に見えた。実際、数少ない近所の民家に住む人々は、研究所のことを〈箱〉と呼んでいた。


リュウイチが箱の中のプロジェクトルームに入ると、その日は朝からざわついた雰囲気に満たされていた。主任研究員であるツジイを中心に、キトウ、ユラ、ミヤシタという先輩メンバーが頭を寄せ合い、何事かを話し合っていた。普段ならプロジェクトで使用している装置やその試験媒体となる重金属などの点検を行う当番である者が、最も早くプロジェクトルームにやってくる。ほかのメンバーは、当番が点検を終えた頃に出社してくるのが通例であった。この日、多くのしかも上級のメンバーがこのように早く出社することは、異様といえる。この日の点検の担当は、リュウイチだったのである。

何か問題があったのではないか。それでプロジェクトの主要メンバーの面々がツジイに呼び出され、こうして集まっているのではないか。

リュウイチはそう推測して、部屋の入り口に掛けてある白衣を着ながら、先輩の集まっている部屋の中心に進んだ。

「おはようございます。何かあったんですか?」

皆がいっせいにリュウイチを見た。口々に「おはよう」と挨拶を返してくれたものの、集まっている理由については誰の口からも説明はなかった。

「リュウイチ、今日の点検当番は確か君だな」主任であるツジイは、今までの話し合いを中断して、そうリュウイチに呼びかけた。

「はい」

「では、まず点検をしてくれ。その後で話があるんだ。できるだけ早く、点検を済ませてきてくれ、頼むよ」

「は……はい」

主任研究員のツジイにそう言われては、点検にとりかかるしかなかった。皆が何を話し合っているのかは気になったが、取り付く島もない。

点検を始めた途端、リュウイチは部屋の様子が不可思議だと感じた。(今朝は、すでに誰か点検をしたのではないか)

いつもなら試験を終えた器具やらが雑然と放置してあり、それを正しい位置に戻すのも点検当番の役割の一つであった。しかしこの日は、一分の隙もないほどに整然とそれらが並んでいた。もちろん床などもきれいに掃除が終わっている。試験内容によっては、空気中の塵芥の類も影響するため、特別な掃除機で床といわず壁といわず、埃を吸い取るのもまた点検作業の一部になっていた。

結局、リュウイチは文字通り〈点検〉はしたけれど、この研究所で点検と称している作業は、この日に限っては何もすることがなかった。

一通り点検を終えた後、リュウイチは皆のところに戻ろうとして、ふと足を停めた。

やはり、おかしい。明らかに、今日はもう誰かが点検をしたとしか思えない。だがツジイ主任は、僕に点検作業をするように命じた。どうしてだ。これはもしかして、僕に(つまり僕のような下っ端研究員に)彼らの話し合いの内容を聞かれたくなかったのではないか?


点検はすでに誰かが作業した後をなぞるようなものだった。普段なら慣れているメンバーでも、三十分くらいかかるところだが、十分ほどで終わってしまった。ツジノはできるだけ早く戻ってくるようにと言っていたが、あまりに早く終わってしまった。今すぐ彼らのところに戻れば、点検作業の手を抜いたと思われる可能性がある、と考えた。そこでリュウイチは、部屋の奥にある衝立の中の、コーヒーなどが置いてあるちょっとした休憩コーナーに行った。


衝立の中にある休憩用の丸テーブルには、先客がいた。

同期で研究所に入社したユイである。彼女は研究所の数少ない女性研究員であり、リュウイチが所属するプロジェクトチームの唯一の女性メンバーでもある。少しだけ褐色の長い髪が印象的な、美しい女性だった。背が高いこともあろうが、落ち着いた風貌は実際の年齢よりも年上に見えた。しかしそれは、彼女の美しさを低減することはなく、むしろその〈落ち着き〉は、彼女の魅力に華を添えていた。

今やユイは、研究所創設以来のビューティフルウーマンとして、すべての男性所員に認知されていた。しかしその美しさは、容易に他人が近づくことのできない、不可侵領域を彼女の周りに形成するものでもあった。そのためか、今のところユイは、特定の男性所員との噂などはなかった。

ユイは今朝も、オリュンポスの山に住むアフロディテのように、気高い美しさを伴い、静かにコーヒーを飲んでいた。白衣を着て、優雅に伸びた足を組み、静かにコーヒーを飲んでいる姿はやはり美しかった。

コーヒーをカップに注いで、テーブルの脇にフラクタルな形状を構成するように置かれている四つの椅子の一つに、リュウイチは腰かけた。その椅子の位置は、ユイの椅子と六十度の角度に置かれていた。椅子に座ると、ユイのスラリと均整のとれた足が、眩しくリュウイチの目に飛び込んできた。

昨夜、くーなと飲んだコーヒーと比べたら、小豆のとぎ汁のように不味いコーヒーを一口すすった。あまりの不味さにやや顔をしかめて、その顔のままユイの方に向き直った。おはよう、とユイに声を掛けた。

「リュウイチ君、おはよう。今朝はずいぶん早かったのね。私も早めに来たけれど、すっかり点検が終わってたんで驚いたわ」

「いや、そうじゃないんだ。確かに今日は僕が点検当番だったんだけど……」

今朝出社したら、錚々たるメンバーが集まって、何事かを話し合っていたこと。ツジイ主任に点検を指示されたこと。点検をやろうとしたが、実際には点検はもうすっかり終わっていたことを、ユイに説明した。

――だからあっという間に点検もおわってしまって、仕方なくコーヒーを飲みに来たんだ。

するとユイが答えた。

「そうなのよ。ツジイさん達が集まって、話をしていたから、私もなんだか入りづらくて、結局ここに来てしまったの」ユイは形の良い唇の端を少しだけ持ち上げて、ヴィーナスの微笑をたたえながら、そう言った。

「それにしても、一体、何を話し合っているんだろう」

「よく分からないけど、皆さん、とても真剣な顔をしていたわね。近づくな、というオーラを発しているみたいだったわ」

「本当にそうだね。『点検』の指示も、まるで僕に『この場から去れ』と言っているように思えたな」

「そんなことはないと思うけど……」

二人はコーヒーを飲みほすと、どちらともなく、そろそろ戻ろうかと言った。ユイは美しく伸びた髪をさっと翻し、立ち上がった。リュウイチと自分の空の使い捨てカップを取り上げると、傍らのダストボックスにポンと放り込んだ。カランとカップとダストボックスが奏でた、乾いた音だけを置き去りに、リュウイチ達はツジイ主任と先輩メンバーが話し合いをしていた結界に向かった。


二人が再び、そこに戻ったとき、ツジイを中心とした結界は、すでに解けていた。ユイとリュウイチが近づくと、今度は結界の中心にいたツジイも、名前通りオニの形相で結界の境界に守役のように立っていたキトウも、快く笑顔で迎えてくれた。

「おはようございます」

ユイとリュウイチの挨拶が、研究所の部屋にシンクロナイズされて反響した。

「おはよう」ツジイもすぐに挨拶を返し、リュウイチのほうを見て、手招きした。

リュウイチは三歩半進み、ツジイの正面に立った。太字のフォントで印刷された一枚の書類を、ツジイは手にしていた。正面のリュウイチからは、その太い字が、逆さまに見えた。その文字は「●●研究所 視察計画」と読めた。さらに目を走らせると、小さく判読し難い文字も見えた。「大和田」と書いてあるようだった。

「おい、リュウイチ!」

ツジイの呼びかけに、心ここにあらずといった表情のリュウイチは、ばね仕掛けの人形のように飛び上がりながら「はい!」と反射的に答えた。

「なにをボーッとしてるんだ。今日は〈特別な日〉なんだ。ちょっとお願いしたいことがあるんだよ。説明するから、そこに座ってくれ」ツジイは自分の後ろにある椅子に腰を掛けながら、その正面の椅子に手を差し伸べて、リュウイチに勧めた。

リュウイチがやや緊張した面持ちで腰掛けると、ツジイが手にしていた先程の書類を見ながら話し出した。

「実は今日、防衛庁のお歴々がこの研究所の視察に来られることになった」

「えっ? 防衛庁!」

「そうだ、防衛庁だよ。この研究所では、原子炉関係の研究が主なテーマだ。けれどうちの荒木所長は、一時期、防衛庁にいたことがあってね。その頃一緒に兵器に関する調査なんかをやっていた、〈大和田〉さんという方がいる。間もなく書記官に昇格されるという噂もあるキャリア組だよ。その大和田さんが、所長に『一度視察させてくれ』と依頼してきたらしいんだ。その視察というのが、実は今日で、私はその視察の案内役を所長から仰せつかったって訳だ」

説明しながら、先程見た「大和田」という文字を指差した。今は、はっきりと見える。そこに書かれた文字は、「大和田」に相違なかった。

ツジイは続けた。

「そこでだ。相手は何せ防衛庁のエライさんだ。しかも所長の親友にもあたる。粗相があっちゃいけない。」

「はい」リュウイチの声は、緊張のため若干ビブラートを帯びていた。

ああ、それと、とツジイはより厳しい顔をして言った。

「もちろん今日の視察のことは、トップシークレットだからな! 大和田さんもお忍びで来られる。だから、私も今まで、君たちにも大和田さんが来られることを黙っていたんだ」

「わかりました」二人の声が、絶妙のハーモニーで響いた。その声は、この日突然降ってきたイベントの重要度を、十分に理解していた。

「よし。無論、所内の案内、説明は私が行う。荒木所長の特命だからな。だが所内を一通り見て回るだけでも、結構大変だろ。だから君とユイ君に、休憩の際、コーヒーの給仕や所長との昼食の準備をお願いしたいと思っている。いいな。」

後ろで立ったまま、話を聞いていたユイの方を一度振り返り、顔を見合わせて軽くうなずいた。リュウイチは、二人を代表して「承知しました」と答えた。

「ところでツジイ主任。コーヒーは、あのいつもの休憩所のコーヒーでよろしいでしょうか?」

「何言ってるんだ。あんな不味いコーヒーをVIPに出してどうする。昼食もVIPが来られたとき用のお弁当を調達する店がある。君たちには、今から外でそれらを調達してきて欲しい」

そういうとツジイは机上のメモを一枚取り、白衣の胸に挿してあったボールペンでお弁当を調達する店の名前と簡単な地図を書いた。そして「ほい」と言いながら、それをリュウイチに手渡した。

「さあ、大和田さんは、十一時過ぎにはこちらに到着されることになっている。もう一時間そこそこしか残っていないぞ。手分けして、抜かりのないように急いでくれ」

そういうとツジイは、ポンポンと二つ大きく手を叩き、「じゃ、一旦解散」と言って、書類を手にして部屋を出て行った。


(「大和田」……どこかで聞いたような。くーな? そうだ、確かくーなの本名が「大和田匡子」って言ってたな。しかもくーなのお父さんは……確か防衛庁のお偉いさんじゃなかったか。まさか! 今日来る大和田という人が、くーなのお父さん!)

座ったままで、いつまでも立とうとしないリュウイチに、後ろで立っていたユイが凛とした良く通るソプラノで、彼の頭上から声を掛けた。

「リュウイチ君、時間がないわ。遅れるとまずいでしょ。早く行きましょう」

ユイの声は、細く研ぎ澄まされた針のように、痛みを感じることもなくリュウイチの頭に刺さった。彼は我に返った。

「ああ、ごめん。そうだね、早く行こう」リュウイチは椅子に座ったときと同じように、ばね人形になった。


研究所を出ると、リュウイチはユイに、手分けして「おいしいコーヒー」と「VIP弁当」を買いに行こう、と申し出た。彼女も同意した。

「じゃ、私コーヒーを買ってくるわ。おいしいのをね」〈おいしい〉の部分だけが、一オクターブ高かった。ユイは少し上目遣いで、意地悪そうな顔をして笑った。

「じゃ僕も、せいぜい大和田先生でも、箸をつけていただけるようなVIP弁当を探してくるとしよう」

リュウイチは研究所から駅に向かう道に出た。最初に交差する四ツ辻で、手を振りながらユイと別れて、左に折れた。三十分後に研究所の前で落ち合うことにし、遅れそうなときは、互いの携帯電話に連絡することを申し合わせた。「粗相のない」ように、である。

弁当を買いに向かう道すがら、リュウイチはくーなの顔と「大和田」の文字をずっと反芻した。

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