2 くーなの夜話
「ただいま」
マンションに近づくと、リュウイチの部屋の明かりが点いていた。まだくーなは部屋にいるらしい。
玄関を開けると「おかえりい」という大きな声がした。くーなは元気よく話すときに、語尾を伸ばす癖があるらしい。部屋の中は、カレーの匂いが充満していて、玄関までその匂いは届いた。
部屋で上着を脱いで、ベッドの上に置いた。くーなが素早く取り上げて、ハンガーに掛けた。その甲斐甲斐しい様子を見て、リュウイチは照れくさい気持ちになった。
――いいよ、自分でやるよ。
くーなが笑いながらリュウイチに言った。
「居候だから、これくらいやるわよ。お兄ちゃんには感謝しているしね」
着替えて、手と顔を洗い、部屋の小さなテーブルに着くと、くーながカレーライスを盛った皿を運んできた。
「こんなものしかできなくて」
「カレーライスは大好物だよ」
その言葉に気を良くしたのか、くーなは「いただきまあす」と元気良く、語尾を伸ばした。くーなの言葉を合図に、二人は食事を始めた。二人とも黙々とカレーライスを頬張った。
食事を終えると、リュウイチはテーブルの上のリモコンで、テレビのスイッチを入れた。
テレビでは、防衛庁の不正への糾弾をする野党党員へのインタビューが流れていた。続いて国際問題に関するニュースが始まり、核兵器開発に関する諸外国の対応をテーマにした特集が始まった。
(自分の関わる仕事も一歩間違えれば「核兵器」にもなり得るな。)リュウイチはサイケデリックな花柄模様の蛇を見たような顔になった。
「ねえお兄ちゃん、どうしたの?」
先程から食い入るようにテレビを見ているリュウイチに、くーなが呼びかけた。
「いや、なんでもない。ただニュースを見て、軍事的な問題は怖いなと思っただけさ」
大学で学んで以来、リュウイチは、いわゆる核融合という化学作用の持つポテンシャルエネルギーの威力が、すばらしく強烈なものであることを知った。しかし核の持つ潜在的な威力が、専ら兵器開発という側面で利用されていることは恐ろしかった。
すでに核兵器を持つ国が、新たに核兵器を持とうとする他国をあたかも極悪人のように批判し、糾弾し、必死で止めさせようとすることは、大いなる矛盾であると感じた。我知らず、リュウイチは大きなため息を付き、眉間に大きなしわが刻まれた。
「お兄ちゃん、本当にどうしたのよ。疲れてるの」
心配そうにくーなが顔を覗き込んだ。リュウイチは何かを振り払うように大きく、数度頭を横に振った。そしてくーなの方に向き直った。
「ここのところ自分の生活も大きく変わったから、疲れているのかな。昨日もいろいろあったしね」
「私のこと?」
「うん、それもだ。ところでくーなはどうして僕のところに来たんだい。それに、なぜ僕が君の〈お兄ちゃん〉になったのかなあ」くーなの口調を真似てみたが、くーなは笑わなかった。
しばらく、くーなは黙っていた。何事か、考えている様子だった。リュウイチも黙ってくーなが口を開くのを待った。
リュウイチは何としても、くーなの出自、自分の前に現れた理由を聞き出すつもりだった。そうしなければくーなをここに置いておけない気がした。突然現れて自分の妹を名乗るくーなを、どう扱っていいものか決めあぐねていた。
ややあってくーなは決心したように毅然とした表情で、リュウイチの顔を見た。あどけない表情に、今は厳しさが絶妙の割合でブレンドされていた。
「じゃ話すわ」
リュウイチが大きくうなずくと、くーなは毅然としたまま話し始めた。
くーなは防衛庁の今は幹部である父を持つ。その父は、先程ニュースで糾弾されていた与党議員とも何らかのパイプがあるらしい。
くーなの父は自分の書斎には常に施錠し、家族といえどもその部屋に入ることは堅く禁じられていた。くーなが小学生の頃、一度たまたま鍵を掛け忘れた父の書斎に入り込み、そこで本を読んでいたことがある。くーなはその部屋で、いつしか寝入ってしまった。
帰宅した父は烈火のごとく、くーなを叱り飛ばした。以来、くーなは父に肉親の親愛よりも〈敵〉に対する憎しみといった感情を持つようになったらしい。
それからも常に家族さえも立ち入ることのできない結界に足を踏み入れてしまったくーなを父は疎ましく思ったようだった。はっきりと父の口からそのような感情が語られたわけではないが、くーなははっきりと父の思いを感じ取った。
だからくーなは家を出ようと思った。やがてくーなの決心は、彼女の成長とともに具体的な計画の実行へと昇華する。
――高校を卒業したらね、家を出ようと思っていたの。そうして本当に家出しちゃった。
くーなは一気に話し終えて、一つ息をついた。
(そういえば自分も同じようなことを思った時期がある)リュウイチはかつての自分に重ね合わせた。
くーなの話によれば、くーなは本名を「大和田匡子」という。「くにちゃん」と呼ばれていたのが「くーにゃん」になり、最終的な愛称として「くーな」と呼ばれるようになった。
「ということは、やっぱり僕は君のお兄ちゃんではない。つまり血を分けた兄弟ではないということなんだね。それに君が昨日、『本名なんてわからない』と言ったこともウソ、ということになる」リュウイチはやや非難するような目でくーなを直視した。くーなは決まり悪そうな顔をした。
「えへへ」そう言って、くーなは頭を掻くふりをした。
「だってあんなところで、今のような話をするのも変でしょ。それに自分の名前も嫌いだったわ。だから言いたくなかったの」
「家を出たくらいだから、それはそうかもしれないけど、何でよりによって僕を〈お兄ちゃん〉に選んだの?」
「何となく、かな」くーなは冗談めいた口調で言った。
「だってお兄ちゃん、優しそうだったし、そもそもあの場所まで駅から歩く間、お兄ちゃん以外の人に会わなかったよ」
「たしかにあの駅は人通りも少ないけどさ。よりによってどうしてあの駅で降りたのさ」
「それも、何となくね。風景が田舎っぽくて気に入ったの。こういうところなら、きっと優しい人がいるにちがいないって思ったのよ」
「それで、電柱に寄りかかってゲロしていた僕が、その〈いい人〉だったって訳かい」
「ちょっと見ていて痛々しかったけどね」くーなはそこで大笑いし、リュウイチもまた、つられて笑ってしまった。
テレビではまたニュース番組が始まっていた。内容は、先程見たものと変わりなく、どの番組でも「核を放棄しろ」、「役人が税金を無駄遣いすることはけしからん」といった、ステレオタイプで大衆うけのする論調を〈解説員〉と称する人間が、生真面目な顔をしてテレビカメラに必死に訴えていた。その必死さが可笑しかった。
「ところでくーなのお父さんが、家族にまで秘密にしたかったことって、何なんだろう」
「さあ、本当に必死に隠し通していたから分からないわ。でも一度父の部屋に忍び込んだとき見たんだけど、本棚にはやたら『核兵器』に関する本がたくさん並んでいたわね。英語で書かれた本もたくさんあったわ。私は小学校の宿題で、感想文を書くために何かいいお話がないか、探しに入っただけなんだけど。我が家で本といえば、父の部屋以外にはほとんど置いていなかったから」
「ふうん、核兵器ね」リュウイチの心に、何かが引っかかった。それは先程から、ニュースでやかましく核問題について、繰り返し語っていたからかもしれなかったが。
リュウイチが腕組みをして、ニュースを眺めているとくーなは思い出したように、頓狂な声を出した。
「父の部屋に入ったとき、何となく覚えているんだけど、マル秘のマークが入った分厚い書類が机の上にあったの」くーなは何かを思い出すように、二秒間黙った。
「確か『日本の核兵器開発に関する』何とかって書いてあったような気がする。子供の頃のことだから、よく覚えてないけど」
「えっ、くーながお父さんの部屋に忍び込んだというのはいつのこと?」
「確か小学三年生だったわ」
「ということは……」
「今から十年くらい前ね」
リュウイチは自分の思いつきに空恐ろしいものを覚えて、それを口にするべきかどうか、逡巡した。いくらか顔が青ざめたように見えた。
「お兄ちゃん」心配そうにくーながリュウイチの顔を見た。
リュウイチは口をつぐんだままだった。二人の間には三十秒間、沈黙が居座った。リュウイチはそれを払いのけるように、重い口を開いた。
「今のくーなの話を聞く限り、君が小学校三年生だった約十年前から、日本は核兵器を開発していた、いや少なくともしようとする計画があったってことになるんじゃないのかな……」
リュウイチは言ってしまってから、自分の言葉の重みを改めて思い、再び口をつぐんだ。
くーなにもその重みは伝わった、ようだった。岩にへばりつく貝のように堅く口を閉ざしたリュウイチとテレビとの間を、くーなの視線は行き来するばかりだった。
リュウイチは知ってしまった、あるいは気付いてしまった者の煩悶にもがいた。傍目からは瞑想でもしているかのように見えたが、自分の研究テーマでもあり、己の生業としても関わりのある〈核〉というものが、このような形でくーなという一人の少女とともに入り込んできたことに、言い得ぬ戸惑いを感じた。
リュウイチの前に、不定形の大きな「何か」が立ちはだかっているように思えた。恐怖とともに、好奇をくすぐられた。我知らず高揚していた。
くーなが夕食の後片付けを始めたので、リュウイチは風呂に入った。入浴を終えて、再びテレビを見始めたリュウイチの横に、後片付けを終えたくーなが座った。
「私もお風呂に入っていい、お兄ちゃん」くーなは最後の〈ちゃん〉のところで少し甘えるような口調になった。リュウイチはこれまで兄弟を持ったことはなかったが、あたかもくーなが本当の妹であるような錯覚を覚えた。(妹がいるのも悪くないな)
「うん。バスタオルは、洗面台の下の棚に入っている」
「ありがとう」くーなはそう言い残して、スキップでもするような足取りで浴室に向かった。くーなは妹としての地位を得つつあった。
「ああ、やっぱりお風呂っていいわね」くーなが年寄りじみた口調で言いながら、浴室から出てきた。風呂上りで頬を赤く上気させた彼女を見て、リュウイチの心拍数は毎分八十五回まで上昇した。
二人はしばらく風呂上りのコーヒーを楽しんだ。くーなはまだ未成年だったし、リュウイチもあまり酒をたしなむ方ではなかった。食後のコーヒーならぬ、風呂上りのコーヒータイムは、この日以来二人の習慣となった。
コーヒータイムを終えると、リュウイチはくーなに、そろそろ寝ないかと提案した。昨日から、リュウイチの身に様々なことが続けさまに起きたせいで、リュウイチは心も肉体も疲弊していた。
「くーなはそこで寝ろよ」
リュウイチは今まで自分が寝ていたベッドを指差した。自分は昨夜くーながベッド代わりに使った、部屋の片隅に打ち捨てるように置いてあるソファに毛布を持っていった。
「お兄ちゃんがベッドに寝たらいいじゃない。私はソファでいいわよ」
「いいから、ベッドで寝ろよ」リュウイチはさっさとソファに横になり、上から毛布をかけた。くーなは暫く立ったまま、どうすべきか迷っていた。やがて寝ていたリュウイチの腕を取り、彼の体を強く引っ張った。
「ねえ、お兄ちゃん。そんなところで寝たんじゃ、寝た気しないでしょ。あっちで一緒に寝よ」
リュウイチの体はソファから引きずりおろされた。「いてて」と言いながら、リュウイチは仕方なく立ち上がった。
「何するんだよ。もういいから、ベッドで寝ろよ」
「だからあ、ベッドでお兄ちゃんと一緒に寝るう」やたらと語尾を伸ばした口調だった。リュウイチは狼狽した。
「何言ってんだよ。あんな狭いベッドに二人も寝れないよ。それにくーなは女だし、な」
「別に男も女もないじゃない。だって私とお兄ちゃんは兄弟なんだから」
言い合いは一分三十秒の間続き、軍配はくーなに上がった。リュウイチは狼狽した顔のままベッドに入った。身を横たえるとすぐに、くーなが横にすべり込んできた。
リュウイチは眠ったふりをした。しかし横でくーながぴったりと身を寄せて寝ていると思うと、再び心拍数が毎分八十五回になった。眠ることなんてできなかった。くーなはそんな様子に気付くことなく、リュウイチの腕にしがみつくように横になり、果ては足まで絡めてきた。
(困った、全然眠れない。)リュウイチは仕方なくくーなの寝顔を見た。しかしくーなはまだ起きていた。至近距離で目と目が合った。くりっとした丸いくーなの目が、微笑をたたえて細長くなった。
「お兄ちゃんに会えてよかったな」
くーなは一言呟くと顔をリュウイチの腕に埋めた。程なく静かで、安らかな寝息が静寂で満たされた部屋に響いた。すぐ目の前には、安心して警戒心を完全に解いてしまった仔犬のように眠るあどけない少女がいた。
リュウイチは手を伸ばして、枕元の照明スタンドの灯りを消した。
それからもリュウイチはくーなを起こしたりしないように、じっと体を硬直させたまま、まんじりともせず、時間だけが過ぎた。
結局リュウイチがうとうとしたのは、もう空も白み始めた頃だった。




