13 二十年後のエピローグ
私の当サイトでの初投稿作品「くーな」も、本章で最終話となります。これまで読んでいただいた方に、お礼を申し上げます。
最後まで書き続けられるだろうかと心配にもなりましたが、読んでくださる方がいることを励みに、ここまで何とか漕ぎつけました。
最終話、是非お楽しみください。
そして拙作への感想も、是非一言お書き添えいただけますよう、お願い申し上げます。
――お茶、いかが。
リュウイチの前に、美しい白髪をたたえた上品な老女が、コーヒーの入ったカップを置いた。カップにはコアラの絵が描かれている。随分使い込んだカップで、ところどころ黒ずんでおり、デザインも今のリュウイチにはいささか不似合いに思われたが、彼は今もそれを好んで使っている。
絹代が淹れるコーヒーは絶品だ。二十年前、この家の応接間で、絹代が給仕してくれたコーヒーの味は、今も変わらない。彼女の入れたコーヒーは、いつもたおやかに香りが立ち昇り、リュウイチはいつまでもその香りを嗅いでいたくなる。
香りとともに、過去が今も色褪せることなく、鮮明に蘇る。
今になって思い返してみても、背筋がゾッとする。もう二十年の歳月が経過した。リュウイチがくーなに出会ってから。
リュウイチがくーなとの出会いに思いを馳せていると、絹代がテーブルの上に一通の封書を置いた。封筒の表には『大和田隆一様』と書かれている。見覚えのある筆跡だ。今は亡き、くーなの父、大和田琢麿が書いたものであろう。
――お母さん、これは?
――実はお父さんが亡くなる前、あなた宛に残した遺書なの。お父さんは『私がもし死んだら、これをリュウイチ君に渡して欲しい』と言っていてね。私はそれをずっと預かっていたのよ。
――しかしお父さんが亡くなられて、もう十五年くらい経ちますよ。
――ええ、そうね。本当はこんなもの、見せずにおこうと思っていたの。私とともにあの世に持って行って、お父さんに返してしまおうとね。だってこれを読めば、あなたはきっと辛い出来事を思い出すことになるわ。
リュウイチは「はあ」といささか間の抜けた相槌を打った。
――でも、やはり気になるのよ。
――読んでいないんですね。
――もちろんよ。それでお父さんの遺志を、このまま封印していいのかしら。やはりこれはあなたに読んでもらうべきなのではないかな、とも思ったの。そもそも開封もしないで、リュウイチさんに渡さないまま、中身を勝手に想像して、封印したまま私があの世に抱いていって、もし想像した内容と違っていたらお父さんに怒られてしまうわ。だから。
「さあ読んで聞かせてくださらない」絹代はそう言って、テーブルの上を手探りで自分のカップを探し、コーヒーを飲んだ。
いつもリュウイチを、そしてくーなを物静かに支えてくれていた、盲目の母は、見えないはずの目をじっと閉じて、それきり黙ってリュウイチが読むのを待っていた。
絹代は三年ほど前から、急に視力が衰え、今はほとんど見えない。それでも住み慣れた家の中のことは、手が覚えていると言い、健常者のように何でもこなしてしまう。
彼女の最近の口癖は、「ただ字だけは読めないのよ」だった。視力の衰えに伴って、彼女の気力もまた衰えたようだった。静かな物腰の中に気丈さを備えていた絹代も、もう以前の彼女ではなくなっている。
リュウイチは、「では読ませてもらいます」と言い、目の前の封筒を開けた。封筒は何の飾り気もない純白だったが、中にびっしりと文字の書き込まれた便箋もまた純白だった。
飾り気のないところも、まるで定規を当てたようにきっちりと真直ぐに書かれた字も、父らしいなとリュウイチは思った。
一度絹代の手に触れて、読みますよと声をかけてから、リュウイチはゆっくりと遺書を読み始めた。
隆一君
今、これを読んでいる君は、匡子と一緒だろうか。そうであって欲しいと、死に際してそれだけが今の私の願いだ。
我が友にして、永久の仇敵でもある荒木毅彦が、匡子と君を巡り合わせて以来、君が匡子のために奔走し、助けてくれたことは感謝に堪えない。ここに匡子の父として、今一度感謝したいと思う。
思えば君と匡子を引き合わせたのも、私が元凶だった。家庭も我が娘のことも顧みず、ただひたすら神を冒涜するようなことに盲進してしまったがゆえ、君は匡子とともに、実に数奇な出来事に巻き込まれてしまった。荒木もまた、私が犯した罪の哀れな犠牲者となった。
かくも罪深い私を励まし、匡子を救うために身を盾にしてくれた君に、図らずも出逢えたということだけが、唯一、神が私に与えたもうた僥倖だったかもしれない。
私には科学者としての資格はなかった。科学は人を不幸にしてはならないし、人に隠れてこそこそと研究するものでもない。
私は自らの手で、大切な友を始め、多くのものを失った。だが幸いにして、君は匡子とともに、今も私の傍にいてくれている。
だから我が心の友なる君に、いささか親に似て不出来な娘と、私が遺した遺産の全てを譲ることとしたい。また身勝手なお願いであることは承知の上で、残された絹代を匡子とともに支えてはくれまいか。
おそらくは絹代も反対はすまい。
糟糠の妻なる絹代に、私は何の恩返しもできないまま、あの世に旅立つこととなってしまった。だから君に、私の持てる全てを譲るとともに、我が妻に、私が考えうる一番素敵な贈り物、すなわち君を匡子とともに遺して旅に出ようと思う。
大和田 琢麿
最後の数行はやや字が乱れていた。父はこれを、まさにいまわの際の、最後の力を振り絞ってしたためたのであろう。
絹代は静かに泣いていた。そのうつろな目からは、とめどなく流れる涙が、天井から降り注ぐシャンデリアの光を反射して美しく輝いていた。
むせび泣きながら、絹代は「やはり、読んでもらって良かった」とリュウイチの手を握った。何度も、ありがとうよと繰り返した。
リュウイチはくーなの耳で光っていた、ピンクのピアスの輝きを思い出した。絹代の涙の輝きを見て、再び二十年前の出来事に思いを馳せた。
唐突に目の前に現れて、〈妹〉になると主張したくーな。無遠慮にリュウイチの部屋に上がりこみ、それでも憎めなかった。そして妹から女への秘めやかな儀式。
あれは恋だったのか?
それともくーなが巻き込まれた、数々の苦難から彼女を救ってやろうという、青臭い英雄主義に過ぎなかったのか。
くーなとの思い出は、どれも過去へのフィルタでろ過されることなく、今もリュウイチの中に在る。いやむしろ、思い出は二十年という歳月の中で、精製され、美しい結晶として昇華している。
くーなはいみじくも言っていた。
今を生きろ、と。
そして父は、母を支えてくれと遺した。
だから、とリュウイチは考えた。くーなと僕を逢わせてくれた父のためにも、くーなと母を支えなくては。
リュウイチが再び父の遺書に目を戻したとき、隣で母はリュウイチの手を握ったまま、テーブルの上に顔を伏せていた。リュウイチは、眠ってしまったのかな、と思った。
絹代は、最後まで静かに、安らかに息を引き取った。
くーなが娘とともに家に戻ってきたとき、リュウイチは絹代の手を握って、静かに絹代の顔を見ていた。リュウイチと絹代の周囲だけ、時間が凝固したように見えた。
「パパ」と叫びながら、娘の圭が駆け寄った。まもなく中学生になる圭は、母であるくーなの面影を映して、愛くるしい顔立ちをしていた。リュウイチは圭に、目を細めて優しく微笑みかけた。
――お祖母ちゃん、寝ちゃったの?
――圭、お祖母ちゃんはね。つい今しがた、お祖父ちゃんのところに行ったんだよ。
部屋の入り口で、リュウイチに駆け寄る圭を見て、微笑んでいたくーなが、急に顔色を変えて絹代のところに駆け寄った。絹代の体を揺すりながら「お母さん」と呼びかけた。絹代の体はもはや自律性を失い、くーなの腕にもたれかかった。
くーなが、わっと泣き声を上げた。その声に驚いてか、圭も呼応するように泣き出した。
(泣き虫なところまで、そっくりだな)
リュウイチは泣き声で合唱する母娘を見て、現在の状況にはそぐわない感慨を持った。
リュウイチの腕にすがりついて、泣きじゃくる圭に、彼は父の慈愛を込めて、優しく諭した。
――お祖母ちゃんはお祖父ちゃんの待つ、天国に行ったんだよ。見てみなよ、圭。だからお祖母ちゃんは、こんなに幸せそうな顔をして、眠っているじゃないか。もうお祖母ちゃんは、お祖父ちゃんと天国に住むって決めたから、起きることはないけれどね。でも圭、君にはパパもいるし、優しいママもいる。だから、そろそろお祖父ちゃんに、お祖母ちゃんを返してあげよう。お祖父ちゃんも独りで寂しいのさ。
圭は納得したように、涙を拭いて「うん」と首を振った。父の腕にすがりついたまま、祖母の安らかな〈寝顔〉を見ている圭の表情もまた、優しかった。それはいつか、リュウイチがくーなの顔に見出した聖母の表情であった。
その日、しめやかな通夜が行なわれた。読経が終わり参列者も皆帰った部屋で、リュウイチは独り、絹代の眠る棺の前に座っていた。棺の前で一度合掌すると、リュウイチは立ち上がって、そっと棺の蓋を持ち上げた。青白い顔をした絹代の、白装束の胸元に、リュウイチは胸のポケットから取り出した何物かを差し込んだ。
それは父、琢麿の遺書であった。
――これは僕とお母さんだけの秘密です。くーなのことは僕が守ります。圭のことも。だから安心して、父の許へ旅立ってくださいね。そして父に『ありがとう』と伝えてください。
小声で眠る絹代にそう呟くと、リュウイチは再び棺の蓋を閉じた。
絹代が荼毘に付された日。
絹代と父の遺書を天に送るかのように、煙突から出る黒煙は真直ぐに空へ立ち上った。左に圭、右にくーなと、しっかり手を繋いで、リュウイチは天に昇る竜にも似た煙を、じっと見送った。
リュウイチは微笑んで、〈今〉も過去もない世界で、待ち遠しそうな顔をして、祖母の帰りを待っている祖父を見ていた。そっとくーなと繋いだ手に、力を込めて。
(了)
「くーな」最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
次回作で、またお逢いできることを楽しみに……。