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くーな  作者: 藍田陽介
12/13

12 帰還したくーな

いよいよ最終章に近づきました。ここまで読んでいただいた方がいたことが、励みとなり、何とか書き続けることができました。この場を借りて、感謝申し上げます。

次話が最終章となります。是非とも最後までお読みいただければ幸いです。

そしてできましたら、最後までお読みいただいた後、忌憚ない感想をお寄せいただければ、望外の喜びと思います。


拙文ではありますが、どうか最後までお付き合いいただけますよう――。

大和田との研究所への同行を約した朝、新聞の社会面に、次のような見出しと記事が掲載された。


「●●研究所で爆発事故。放射能拡散の危険も」


昨夜未明、研究所から数回連続で小さな爆音のような音が聞こえたと、近隣住民から当局に通報があった。近くの警察が駆けつけたところ、建物の一部から煙が出ていた。被害者の有無、被害の規模については、現在調査中である。云々(うんぬん)


リュウイチはともすれば見落とされそうな、この小さい記事を見て、さっと気色ばんだ。それは自分の推理の完成が間に合わなかったことへの悔しさでもあったが、起きてはならぬことが、現実のものになったことへの憤りでもあった。

リュウイチはくーなに、大至急、父へ連絡をするように要請した。くーなが大和田の携帯電話に連絡したとき、彼はすでに車中にいた。

――おはようございます。お父さん、今朝の新聞はもう読まれましたか。

――ちょうど今、車で読んでいたところだよ。大変なことが起きてしまったようだな。

――はい、気付くのが遅すぎました。

――君の責任ではないよ。君が、自分を責めることはない。いいかい、リュウイチ君。とにかく今は、研究所に足を運ぶしかない。間もなく君のマンションに着くだろうから、今少し待っていてくれ。


程なく大和田から、到着の連絡があった。リュウイチは大和田と同行するため、ツジイに出社が遅れることを連絡しようとしたが、研究所への電話は繋がらなかった。

視察のときと同じく、中川の運転する黒い車が停まっていた。リュウイチは視察のときにこの車に感じた禍々(まがまが)しさを、またもや感じた。はやる心を抑えつけて、リュウイチはくーなとともに、大和田のセダンに乗り込んだ。

研究所までの道中、車内はほとんど無言だった。リュウイチも大和田も、じっと何かを考えるように前だけを見つめていた。くーなもその雰囲気にのまれ、じっと車の中で身を固くしているばかりだった。

やがて景色は、雑木林の合間に民家が立ち並ぶようになった。そして前方に〈箱〉が見えてきた。正面から見る限り、その〈箱〉は完全な形を保っているように見えたが、入り口に群がる人々が、事故があったことを物語っていた。

――お父さん、正面は報道関係の人がいっぱいいるようです。裏に回してもらえませんか。そちらなら所員しか知らない入り口があります。報道陣に見つからないよう、迂回して行きましょう。

大和田は、うむと頷くと、運転手の中川に車を後退させて迂回するよう命じた。

もしこのとき、大和田の車が正面入り口からの突破を敢行していたら、あるいはリュウイチは気付いたかもしれない。入り口に沿った壁の内側の、大きな木が植えられている脇に、ブルーメタリックの車が停まっていたことを。


裏口に回るとさすがに人はおらず、ただ警察が残していった黄色いロープが、壁に張り巡らされていた。裏口は、一見壁に見える部分に、小さな認証装置が取り付けられているのみであり、そこに入り口が存在することを示すものは他になかった。そのためか、裏口付近には、出入りを規制するための警官も配置されておらず、リュウイチたちは誰にも気付かれることなく、研究所の敷地内にすべり込むことができた。

敷地に入ると、箱の裏側が見えた。裏側もその形はほぼ完全だったが、所長室の隣にある倉庫付近の壁に穴が開いており、その周囲だけが黒かった。

――とにかく中に入りましょう。車はどこか離れたところに隠しておいた方がいいかもしれません。正面から入れない記者が、いずれ裏に回ってくるかもしれませんからね。

――そうしよう。

大和田はその黒い穴の近くで、中川に電話をした。車を連絡があるまで、研究所から遠ざけた場所で待機せよとの指示だった。三人は、リュウイチを先頭に箱に足を踏み入れた。

研究所の裏口は、一階の一番奥にある所長室のすぐ隣に設けられていた。所長室も、一階ホールもひっそりとして人気が感じられない。リュウイチはホールの隅にあるベンチに、二人を連れて行った。

「少し待っていてください」と言い残して、彼は二階に続く階段を駆け上がった。


プロジェクトルームに入ると、すぐにツジイと目が合った。今回のプロジェクトには参画していないユラを除き、キトウとミヤシタもいたが、ユイはいないようだった。

――どうした、リュウイチ。随分遅い出社じゃないか。

――すみません。今朝電話を入れたんですが、繋がりませんでした。

――そうか、昨夜の事故で電話が不通になってしまっていたんだった。とにかく今は待機を命じられている。リュウイチもあまりうろつくなよ。

そう言って仕事に戻ろうとするツジイを、リュウイチは呼び止めた。

――ツジイさん、一緒に来てもらえませんか。

――聞こえなかったか、今は待機だと言っているんだ。

――分かっていますが、急ぐんです。

リュウイチの目は、あくまで真剣だった。

ツジイに、階下に防衛庁の大和田局長を待たせていることを耳打ちした。何か喋りだしそうになったツジイを目配せで制して、リュウイチは、お願いしますと頭を下げた。

ツジイは仕方なさそうな顔で、行こうと言った。ツジイは他の所員に「絶対に部屋を離れるな」と大声で命じた。突然の号令に、呆然(ぼうぜん)としているメンバーを尻目に、リュウイチとともに静かに部屋を出た。


一階で、リュウイチはツジイを大和田とくーなに引き合わせた。大和田はツジイを見ると、すぐに立って、握手を求めた。

――先日は視察でお世話になりましたな。

――大和田局長、今日はまた急にどうしました?

ツジイは唐突に目の前に現れた大和田に驚いていた。そして隣に座っているくーなに目を移した。

――こちらのお嬢さんは?

リュウイチに尋ねた。

――先日お話した、僕の〈妹〉です。いや、正確には、大和田局長の娘さんです。

――いったいどういうことなんだ。訳が分からないぞ、リュウイチ。

ツジイはからかわれたと思ったのか、やや声を荒げた。物音一つしない、事故から明けたばかりとは思えぬほど静まり返ったホールに、ツジイの声は事の外よく響いた。リュウイチはたしなめるように、「しっ」と指を唇に当てた。

――すみません、ツジイ主任。今はあまり詳しくお話している暇がありません。急いているんですよ。ところでツジイ主任に、もう一つお願いがあります。

ツジイは憮然とした表情のまま言った。

――何だい。

――ツジイ主任は、確か所長室への入室ができるんですよね。

――ああ。それがどうかしたのかい?

リュウイチは声を(ひそ)めて、耳打ちするような調子で言った。

――実は大和田局長が、荒木所長にお会いしたがっています。今日、研究所に来られたのもそれが目的です。ただ所長室に入るまで、荒木所長には悟られたくない。だからツジイ主任に、所長室を開けていただきたいのです。

傍らにいた大和田も、口添えした。

――ツジイ君、私からもお願いする。

ツジイは困ったような顔をしたが、渋々ながら承知した。

――分かりました。大和田局長をお連れすれば、所長も文句は言わないでしょう。ただ所長は、事故がショックだったようで、朝から部屋に入ったきりなんです。

――実は私も、そのことで話をしに来た。君の悪いようにはしないつもりだ。

大和田のきっぱりとした言葉に、ツジイも心を決めたように、行きましょうと言った。

ホールの廊下は薄暗く、所長室の隣にある倉庫代わりの部屋の前に、『立入禁止』の札が立てられているのが物々しかった。

ツジイは所長室の前に立つと、ゆっくりと認証装置に手をかざした。緑色のランプが点滅し、ピッという電子音が静かな廊下に響いた。

ゆっくりとドアが開いた。


部屋の中には、荒木と二人の女性がいた。三人はデスクの前に置かれた円卓を取り囲むように、正三角形を描く位置に座っていた。ツジイとリュウイチがまず部屋に入った。大和田とくーながそれに続いた。

リュウイチとツジイの間からテーブルを見たくーなが、声を上げた。

――あら、ユイさんとお姉さんもいたのね。

そのとき不思議なことが起きた。荒木のデスクに置かれた、小さな四角いスピーカーが、くーなの発した声を、ほんの少し遅れてややノイズが入った音で繰り返したのである。

テーブルに座った三人は反応を示さなかったが、たった今この部屋を訪れた四人は、一斉にそのスピーカーを見た。

――何だこれは?

――どこから声が出ているの?

リュウイチとくーなの声が、重なり合った。それらの声もスピーカーは忠実に繰り返した。

リュウイチは憤りに満ちた顔で、デスクに歩み寄り、スピーカーのスイッチを切った。そして怒りに蒼ざめた顔で、荒木に掴みかからんばかりの勢いで言った。

――荒木所長。あなたはここで、僕やくーなの話を盗み聞きしていたのですか?

荒木は含み笑いをしていた。彼はリュウイチの発言を無視して、大和田を見た。

――やあ大和田。連絡もなく研究所に来るとは、どうしたのだ。まあ、君が来ることは分かっていたがね。

――いったい昨夜の事故は、どういうことだ。まさか、お前……。

すると荒木は堪え切れないといった風で、「あっはっは」と自虐的に笑った。

――おい、荒木。何が可笑しいんだっ!

――まあそう怒るなよ、大和田。実験にはありがちな些細なミスさ。それにこの実験は、君のために行なったとも言えるんじゃないかね。

――ということは、貴様、やはり私の資料を盗んだんだな。

――人聞きが悪いな。資料は君に返したじゃないか。

――コピーしたのだろう、あの視察の日に。そうしてお前は、あの資料に書かれた製法にしたがって、恐ろしい物を作ったんじゃないのか。

――〈恐ろしい物〉を考えたのは、お前の方だぞ。しかしあのような事故が起きてしまったし、今更隠しても仕方があるまい。確かに作ったよ、プルトニウム爆弾の試作品だ。無論、実験目的だから、ごく微量のプルトニウムしか使用していない。しかしこれほどの威力を発揮するとは、な。やはり科学者というものは、何事も実験し、実証しなければならないのだよ。大和田、君もそうは思わないか。

――今は、科学者としてのあり方を議論しているんじゃない。お前の作ったものが、そしてやろうとしている実験が、どれほど危険なことか、まさか分からないはずあるまい。

――分かっているよ。だから予想を上回る速さで、プルトニウムが自発的に核分裂を始めたときは焦ったさ。それでつい爆発音を聞いて、隣の実験室に使っていた倉庫に入ってしまった。

――入ってしまった? ということは、荒木、お前まさか!

――ああ、私としたことが。科学者としてあるまじきことだが、私は無防備で部屋に入ったからな。どうやら大量の放射能を浴びてしまったようだ。恥ずかしいことだが、〈被曝〉したよ。

――どうして。なぜそんなに実験にこだわるんだ。

――君の研究成果がすばらしいからさ。大和田、君の資料は本当に素晴しいものだったよ。(ねた)ましいほどにね。だから私の手で作りたかったのさ。

――だからと言って……。お前自身が危険な目に遭ってどうするんだ。しかも関係ない人間まで巻き込みやがって……。

そこまで言うと大和田は絶句し、その場にしゃがみ込んだ。


くーなが父の横で、心配そうに背中に手を当てて、何かしら声をかけた。リュウイチの頭には、ここ数日、何度も考え、検証した推測が、これまで以上の現実感を伴って去来した。父を気遣うくーなの様子を見て、言い得ぬ憤怒が、腹の底からこみ上げてきた。全ての事実をつまびらかにすることを、リュウイチは自分の心に誓った。

リュウイチは狂気めいた、うつろな目をして座っている荒木を睨みつけた。こみ上げる怒りを必死になだめながら、リュウイチは努めて冷静に切り出した。だがその声は、少し震えたビブラートになっていた。

――荒木所長。僕からもいくつかお聞きしたいことがあります。よろしいですか?

荒木は疲れ切った目を、少しだけ動かした。

――何だね。

荒木の全身からは、倦怠感が噴き出していた。

――あそこにいるのは、大和田局長の娘さんの、匡子さんです。彼女が家出したことはご存知ですよね。

――ああ。

荒木は無関心な顔で、投げ遣りな返事をした。しかし横に座り、先ほどから黙って成り行きを見ていたユイは、リュウイチの言葉に驚きを隠さなかった。

――そうだったの。

思わずユイの口から、呟きが漏れた。アキはただ能面のように無表情なままだった。

――では荒木所長は、匡子さんが家を出た後、新宿の店で働いていたことも知っていましたね。

――すっかりお見通しって訳か。ああ、知っていたよ。

――どうして、それを?

――ユラとアキに調べさせたのさ。

――アキ?

――おお、そうか。まだそのことは知らなかったのか。まあいい。私ももう永くはないだろうし、いい機会だから紹介しておこう。私の長女のアキ、それに次女のユイだ。

この言葉には、リュウイチも心底驚いた。脳天から、太い鉄の棒を撃ち込まれたような衝撃があった。アキがくーなも巻き込んだ一連の出来事に関与しているとは薄々感じてはいたが、よもや親子だったとは。

リュウイチはアキとユイの顔を見た。アキは(うつむ)いて黙っていた。ユイは先程の驚きの表情を脱ぎ捨てて、無表情の仮面を被り、荒木の方を見ていた。

――なるほど、そういうことでしたか。

――君がどこまで突き止めたのかは分からんが、どうせ終わったことだから話してやろう。

そして荒木は胡乱(うろん)な表情のまま、静かに話し出した。

荒木は、大和田が作成した資料を探していた。荒木には到底考え出すことのできないアイデアを大和田は持っていた。荒木は、どうにかしてそのアイデアの書かれた資料を入手しようとした。せめてその計画を、自らの手で具現化したいという、科学者としての矜持でもあり、嫉妬でもあった。

そんなことを考えていたら、大和田から電話があった。くーなが家出をしたという連絡である。荒木は「それは大変だ」と大和田を慰めたが、それは彼にとって千載一遇のチャンスでもあった。最初はくーなの居場所を突き止めて、それと引き換えに資料を入手しようとした、らしかった。

最後に、「大和田は天才だよ」としみじみとした声で付け加えた。

――では、どうして所長は、匡子さんに、僕のところに行くように仕向けたんですか。メモを渡してまで。

すると後ろで、くーなが何かを思い出したように、あっと声を上げた。

――リュウイチ。確かにこの人だわ。私に店でメモをくれたのは。

――君なら私と大和田の関係について、知らなかったからな。私は大和田の娘をどこか自分の目の届くところに置いておきたかったんだよ。それに幸い、君の住んでいるところは、アキの家から近かった。つまり君という人間が、私にとって、彼女を預けるのに一番好都合だったってことだ。

――何てことを!

リュウイチは絶句した。思わず荒木につかみかかりそうになる衝動を抑え、努めて淡々と言葉を(つむ)いだ。まだ確かめねばならないことが残っていた。

――もう一つ、確認したいことがあります。これが今回、僕が真相を突き止めようとしたきっかけです。荒木所長はどうして匡子さんを昏睡させなくてはならなかったんです。

――大和田が視察に訪れたとき、本に書かれたメモのことを話したからさ。あの視察の機会に、私は待望の資料の写しを、図らずも入手することができた。だから娘さんは、何らかの方法で大和田の許に返そうと思ったよ。しかし大和田自身が、その資料は完全ではないと話した。そうしてその資料を完全なものにするには、娘が持っている本が必要なのだとな。

――匡子さんが持ち出した本に書かれた〈メモ〉が、ということですよね?

――その通りだ。だから私は大和田の娘を、もう少し君のところに留めておくことにした。そしてそのメモを入手するための方法を考えたのさ。


堪りかねたように、大和田は獣のような咆哮を叫びながら、荒木に掴みかかった。高級官僚として荒木に接していた、視察の時の姿はもはや微塵もなかった。

慌ててリュウイチとツジイが、間に割って入った。もう大和田は怒りから来る興奮を隠そうともしなかったが、荒木は一層倦怠感を剥きだしにして、椅子にぐったりとした。

いけないと思い、リュウイチは矢継ぎ早に質問した。

――それではそのメモを探すために、匡子さんを昏睡させたと?

荒木は力なく頷いた。その目は半開きで、口を開くエネルギーさえ残されていないように見えた。荒い息を吐き、肩が激しく上下した。

――それで、そのスピーカーから何故匡子さんの声が……。

そのとき荒木は、完全に目を閉じて、椅子から崩れ落ちた。

アキが荒木に駆け寄る。「お父さん」と言いながら、何度も体を揺すったが、もう荒木は何の反応も示さない。ツジイが救急車を呼ぶと言って、部屋を飛び出した。大和田は床に這いつくばってしまった旧友の姿を、複雑な表情で見つめるばかりであった。


ツジイはすぐに戻ってきて、正面はまだ人が一杯なので、裏口に音を鳴らさずに来てもらうよう依頼した、と言った。そして救急隊員を誘導するために、再び部屋を出て行った。ユイがツジイの後を追いかけた。

部屋に残された大和田とくーな、リュウイチ、アキの四人は、床に横たわる荒木をそっと入り口の近くに運んだ。しばらくするとツジイが戻ってきて、救急車の到着を告げた。続いて救急隊員が担架を持って部屋に入ってきた。荒木は謎と科学者の矜持を抱えたまま、ツジイとユイに付き添われて、病院へと運ばれていった。


残った四人はしばらく無言のまま、家主のいない部屋に立ち尽くした。やがてアキが観念したような溜息とともに、重い口を開いた。

――続きは私がお話しますわ。

そう言ってアキは、再び円卓の脇に置かれている、とうに正三角形を形成していない椅子の一つに腰をかけた。くーなと大和田も残りの椅子に座った。リュウイチだけが荒木のデスクにもたれかかるように立ったまま、アキの方を見た。

――ではアキさん、まずこのスピーカーからくーなの声がしたのは、何故ですか。

――ピアスです。くーなちゃんのピアスに、小型集音マイクを埋め込みましたの。私がしたことです。

アキはすまなそうに、赤面して(うつむ)いた。

――なるほど、あなたが病院で渡したピアスが、それだったんですね。

くーなは驚いて、両耳からピアスを外した。左右を見比べると、なるほど右のピアスに埋め込まれた石の中心に、ほんの小さな黒い点が見える。それが集音マイクなのだろう。それは、一目では見分けがつかないほど精緻(せいち)に作られていた。

リュウイチが再びスピーカーのスイッチを入れて、くーなに何か話してみて、と言った。くーながピアスに向かって、「リュウイチ」と呼びかけた声は、果たして机の上のスピーカーからこだました。

――しかしくーなは、ピアスを落としたと言っていました。彼女がピアスをなくしたことを、あなたは、あるいは荒木所長はどうして知ったのでしょう。

――知ったも何も、それも私がしたことです。くーなちゃんが病院に運ばれた翌朝、リュウイチさんが病院に来る前に、眠っているくーなちゃんの耳から私が抜き取りました。

話し始めると、アキは堰を切ったように説明を始めた。それは例え自分の父である荒木に加担したものにせよ、どこかで自分の理性を曲げたことへの自戒にも見えた。

――少し(さかのぼ)ってお話します。リュウイチさんがユイや先程の主任の方と打ち上げをした夜、駅でお会いしましたわね。

リュウイチは聞き役になり、「ええ」とだけ相槌を打った。

――実はリュウイチさんが駅に着いたことは、すぐにユイから連絡がありました。私の携帯電話にです。それで私は、すぐさま車から出て、改札に向かいましたの。

――ずいぶんタイミングがいいと思いましたよ。でもどうして僕に会う必要があったのですか?

アキは言いにくそうに逡巡した。ややあって口を開いたが、その声はそれまでの闊達さを失い、震えを帯びた。

――父が……父が、その……くーなちゃんのところにおりましたから。本当にくーなちゃんには、もう何て言っていいか。今更ですけれど、本当にごめんなさい。

アキの目には、みるみる涙が浮かんだ。彼女の慙愧(ざんき)の気持ちは、()え切れず涙となって流れ落ちた。

くーなが、目の前の自分を恐怖に陥れた首謀者の肩に手を置いて、慈愛の目で彼女を見た。こんなときでも、彼女の目は潤んだ。リュウイチは、そのくーなの姿に、聖母を見出していた。くーなはマリアの優しさで、アキを包み込んでしまった。

――アキさん、あなたもお父さんに頼まれてやったのでしょ。それに私はもう、ほら、ぴんぴんしているわ。

アキはその言葉で、とうとう陥落した。その場で崩れ落ちるように椅子から降りると、大和田とくーなに向かって、繰り返し頭を下げた。

そのアキの姿を見ながら、リュウイチは思い出していた。病院からの帰り道、駅前の書店から、駅の改札口は見えなかったことを。そしてそのことが、彼の心に(おり)となってこびりついていたことに気がついた。

それゆえにリュウイチは、打ち上げの晩、アキが見事なタイミングで改札に現れたことに、違和感を覚えたのだ。今にして思えば、荒木所長とその二人の娘の、あっぱれとも言いたくなるような連係プレイだった。

その間、アキは大和田の慰めで、ようやく己の慙愧(ざんき)への(みそぎ)を終えようとしていた。泣き腫らした目を隠すように下を向いたまま、アキは再び椅子に座りなおした。

――アキさん、最後に一つ、確かめておきたいことがあるんです。

アキはまだしゃくりあげたまま、頷いた。

――僕の家に忍び込んで、くーなの本を盗んだのは、誰なんです?

――それも、私です。

しゃくりあげながらアキが語るには、事実はこうだった。

くーなを昏睡させた夜、眠り込んだくーなを見て、荒木はリュウイチの部屋に忍び込んだが本は発見できなかった。鍵のありかも分からないので、荒木は粘土のような物で鍵穴の型を採った。後日、その型から、荒木は合鍵を作ってアキに渡した。アキはくーなが退院する前に、リュウイチの部屋から本を奪うことを、荒木に指示されたそうである。それでアキは、本を盗み出すまでの間、常にリュウイチの動向を(うかが)い、リュウイチがくーなを見舞っている間に彼の部屋に忍び込んだという。

この一連のくーなを巡る事件で、アキの果たした役割は、それは彼女の自発的な行動ではないにせよ、大きかった。そしてそのターゲットに、アキの近くに住んでいる、何も知らないリュウイチを選んだ、荒木の計算の巧妙さに今更ながら身の震える思いがした。

全てが終わり、リュウイチと共に謎を紐解いたくーなも、彼女自身の受難から解放された。


結局、荒木は搬送先の病院で、まもなく死亡した。アキは泣いた。ユイも泣いた。そして大和田も。

大和田は自分が興味本位で作った、些細な数頁の資料が、かような結果を招いたことに、すべてが明らかになった後も、ずっと己を責めていた。己の資料のために、旧友を失い、愛娘を危機に追い込んでしまったがゆえに。

大和田はこの事件から五年後、絹代に看取られながら、まだ若いと惜しまれつつ荒木の後を追うこととなる。しかし彼は、いまわの際まで自分を責め続けたという。


ともあれ全てを白日の下に晒して、(あるじ)を失って崩れかけた〈箱〉を後にした三人は、中川の運転する車で大和田の邸宅に戻ってきた。前と同じように、絹代は快くリュウイチを迎えてくれた。

リュウイチが通された部屋は、居間だった。絹代の心づくしの料理がテーブルに並べられて、ささやかな饗宴が始まった。

食事の席で、大和田はリュウイチが止めるのも聞かず、何度も床に頭をこすりつけてお礼を言った。

――本当に君がいなければ、私も、そして匡子もどうなっていたか分からない。君にはどれだけ感謝しても、し尽くせないほどだ。

饗宴の間、大和田は感謝の言葉を繰り返した。そのときの大和田の顔は、まるで憑物(つきもの)が落ちたように、晴れ晴れとしていた。


居間では四人の笑い声が、途切れることなく、いつまでもいつまでも続いていた。

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