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くーな  作者: 藍田陽介
11/13

11 懺悔

くーなは今、ここにいる幸せを堪能していた。父とのわだかまりも解け、リュウイチも彼女の隣で、朝食を頬張っている。

父はくーなに、リュウイチへの恩返しの時間を与えてくれた。リュウイチの傍にいることを許した。きっと母は出迎えたきり、いつの間にか煙のように消え去った、親不孝な娘を大いに嘆いているのだろう。

空想はいつだって楽しい。くーなはにやにやと笑っている。今、彼女は自分の空想の世界を、大きな羽を広げて飛び回っているのだ。

だが空想とは、架空の世界(ヴァーチャル)である。そこに〈今〉はない。「今を懸命に生きる」ことを説いたくーなは、〈今〉を忘れ去り、時間軸のない世界に身を委ねていた。

しかし彼女が〈今〉の存在する、現実世界に生きることを放棄しようとしまいと、現実の世界(リアリティ)は、確実に未来を取り込み、それを〈今〉というフィルタで漉しとり、過去を(つむ)ぎ出す作業を飽くことなく繰り返す。だからくーながふっと我に返り、再び〈今〉を意識したときには、すでにリュウイチは朝食を食べ終えて、コーヒーを飲みながら、すでにフィルタで漉された〈過去〉という残滓(ざんし)を吟味し、これから訪れるであろう〈今〉の連続を、頭の中で分析(シミュレート)していた。


大和田が作成した資料が、もし研究所の何者かにわたっていたとしたら……。リュウイチはまず、その可能性から出発した。

その機会があるとすれば、おそらく大和田が視察に訪れた機会だろう。実際に研究所内を視察に周っていたときには、大和田は無論そんな資料は手にしていない。それは視察に同行したリュウイチ自身も見ていることだ。

ならばその資料は、視察の間、どこにあったのか?

(所長室?)

そうだ所長の部屋だ。視察前に大和田は、荒木所長と部屋でまさにその資料を見て、議論していた、と言っていた。視察の間、その資料は所長の部屋にあったのだ。

ではその時、所長室はどうなっていたのだろう。視察を担当したのはツジイ主任だった。荒木所長は視察には同行していない。

もちろん荒木所長は視察から戻った大和田に、彼のライフワークの成果とも言うべき、「原子爆弾の製法」が書かれた資料は返しただろう。だが、もしも、視察の間自室にいた荒木所長が、その資料をコピーしていたとしたら……。

そしてくーなが持っていた本が、もし彼の手に落ちていたとするならば……。


リュウイチの思考が、そこで停止した。


「リュウイチ」遠くでくーなが呼んでいる声がする。彼の心には、にわかに、その顔の色とは対照的な、どす黒い雲が立ち込めた。

リュウイチ、リュウイチ。呼びかけながら、くーなが体を揺すっている。

――ねえ、リュウイチ。どうしたの、変よ。

リュウイチは、はっと我に返ったが、すぐにくーなの肩を掴んだ。その目はまるで幽霊を見たかのように、大きく見開かれ、くーなは思わず息を呑んだ。

――くーな、お父さんに電話してくれないか。確か昨日、君のお父さんは『もう一度荒木と会う必要がある』って言っていたよな。

――そうね、言っていたわ。電話するのはいいけど。

くーなは携帯電話を取り出し、大和田の携帯電話にダイヤルした。三回かけ直した。しかし彼女の携帯電話は、空しく留守番サービスのアナウンスを繰り返すばかりだった。

――じゃあ今度は、自宅にかけてみてくれ。

――わかったわよ。でも、どうしてなの?

――理由はあとで話すからさ。まずは君のお父さんが、家にいるのか確かめて欲しいんだ。

くーなは再び携帯電話を開き、自宅に電話した。受話器から、絹代の声がした。

――はい、大和田でございます。

――もしもし。

――あら匡子ちゃん。昨日はどうしてまた出て行ってしまったの。てっきり帰って来たものと思っていたのに。

――ごめんなさい、お母さん。お父さん、いるかしら。

そのとき大和田は、庭の植木の手入れをしているところだった。絹代に呼び出されて、間もなく大和田が電話に出た。

――匡子か、どうした。リュウイチ君と喧嘩でもしたのか。

受話器から、隣にいるリュウイチにもはっきりと分かるほどの笑い声が聞こえた。

――そうじゃないわ。実はね、リュウイチがお父さんと話したいって言っているの。

「かわるわね」と受話器に言うと、それをくーなはリュウイチに手渡した。

――大和田局長、お休みのところ申し訳ありません。実はもう一つお聞きしたいことがありまして……。

――リュウイチ君だね。何だい?

――できたらお会いして、お話させていただきたいんですが。お時間ありますか?

――そうか。

考えているのか、少し大和田は無言になった。リュウイチは祈るような気持ちで待った。

祈りは通じた。

――夕方でも構わないかね。

――ええ、ご都合のいい時間と場所をおっしゃってください。

――間もなく私も外出してしまう。夕方五時に新宿でどうかね。西口の……そうだな、JR改札で落ち合うことにしよう。

――わかりました。必ずその時間に伺います。ありがとうございます。

――何、構わないさ。夕方以降は、どうせ空いている。それに不謹慎かもしれないが、君の昨日の推理は、なかなか聞いていて楽しかった。ではまた、夕方会おう。

電話が切れた。

くーなはテーブルに携帯電話を置くと、リュウイチに尋ねた。

――父と会うの?

――ああ。夕方五時に、新宿で会って貰えることになったよ。

――でも昨日、父とは話をしたばかりじゃない。どうして急にまた?

――もう一度、確かめておきたいことがあるんだ。それに、いい忘れたことも。

結局、くーなへの説明はそれだけだった。


午後になって、二人は新宿に向かった。くーなが、折角だから買い物をしたいと言い出したからだ。デパートのレストランで昼食をとった。その後は夕方まで、リュウイチは足が棒になるほどくーなの買い物に付き合わされることとなった。

(それにしても女という生き物は、どうしてショッピングとなると、恐ろしいほどのバイタリティを発揮するのだろう)

ねえ次はあの店に行こう、と言って、くーなはリュウイチの腕を引っ張る。リュウイチはデパートでは、完全にくーなの操り人形と化していた。

ようやくくーなの買い物への情熱は治まり、色とりどりの女性服売場が立ち並ぶフロアの一角にあるカフェに、二人は入った。リュウイチは干からびた魚のようになった体に、冷たい飲み物を注ぎ込み、ほっと生き返った心地がした。

隣の空いている椅子に、大きな紙袋を二つ置くと、くーなもオレンジジュースを瞬く間に飲んでしまった。

――ああデパートで、買い物なんて久しぶり。楽しかったわ。あちこち連れ回してごめんね、リュウイチ。

今更ながらにくーなは、すでに疲れた顔をしたリュウイチを気遣っていた。

――うん、くーなもここのところ、大変だったしな。楽しかったのなら、良かったよ。

「大変だった」という己の言葉が、またくーなを巻き込んだ事件を思い出させた。否が応にも、〈あの事件〉を考えてしまう。くーなへの心配が、鎌首を持ち上げる。一体僕には、そしてくーなの前には、何が待ち受けているのだろう?

しかし未来は(おぼろ)げにしかその姿を現さない。リュウイチはすでに〈過去〉に押しやられた出来事の残滓(ざんし)をかき集めて、やがて〈今〉となる未来を予測するしかないのだ。そんな危うい未来予測に、くーなと自分の命運を託しているのかと思うと、リュウイチはふと「本当にくーなを守れるだろうか?」という弱気な気持ちになった。

(とにかく突き進むしかないよな、リュウイチ)自分に向かってそう呼びかけ、とにかく弱気な心を眠らせる。気持ちを(ふる)い立たせ、真っ直ぐ前を向く。

その視線の先にある時計は、午後四時三十分を告げていた。

約束の時間に遅れまいと、リュウイチは席を立った。くーなが抱えていた大きな袋を持ち、小さい袋はくーなが肩にかけて、二人は連れ立ってカフェを出た。

週末の夕方に差しかかる時間、デパートから駅へと向かう人で、新宿の街はごった返している。JRの改札までの道のりはさほど長いものではなかったが、人垣を掻き分けて改札にたどり着くまで、たっぷり十五分を要した。

改札の前もまた、恐ろしくなるほどの人たちが、波のように右へ左へ揺れていた。こんな中で大和田を発見するのは、広い波打ち際で落とした一粒の石を捜すようなものだと思った。その感慨から、リュウイチは過去の残滓の一つを拾い上げた。

(あの外来患者が行き来する病院のエントランスで、アキさんはよくくーなのピアスを見つけられたな)

感慨に浸っていると、捜すまでもなく大和田は二人の前に現れた。

――やあ、待たせたね。

――お父さん、なんだか外で会うというのも不思議な感じね。

そう言ってくーなは、左腕を父の腕に回し、もう一方をリュウイチの腕に絡めて、行きましょうと言った。大和田は、間にくーなを挟んで、首だけを横に向け、ともすると人波が発する雑音にかき消されそうになる声を張り上げて話した。

――どうだい。折角だから少し早いけど、食事でもしながら話をするというのは。

――はい、僕はどこでも構いません。

――じゃ店は私に任せてくれるね。

三人は間にくーなを挟んで、蝶のようにひらひらと人の間を潜り抜け、高層ビルの立ち並ぶブロックへと向かった。

空にまで届くのではないかと思われる摩天楼が、いくつもいくつも伸びる高層ビル街に着くと、大和田はその中でもとりわけ高いビルに入っていった。

一階は広いホールになっており、低層階と高層階で利用するエレベーターが分かれている。大和田は高層階用のエレベーターに乗り、五十二階のボタンを押した。

エレベーターは音もなく上昇し、リュウイチの耳をキーンとさせながら、あっという間に五十二階に到着した。

大和田はエレベーターを降りると、迷うことなく、間接照明がほの暗さを演出したイタリア料理店に入った。大和田の顔馴染みの店なのか、彼が店の入り口に顔を出すと、すぐさま接客用のきっちりとしたユニフォームを着た店員が出てきた。「こちらでございます」と案内された席は、店の一番奥に個室風にしつらえられたテーブルであった。すぐ脇の窓に目を移せば、気が遠くなるほどはるか下方に、新宿の街並みが照らし出すネオンが、やや薄暗くなりかけた景色を彩り始めていた。

魚介が鮮やかな野菜とともに皿に載せられたアンティパストと、アペリティフのシェリーが運ばれてきた。くーなの前に、ミネラルウォーターのボトルも置かれた。くーなは真っ先にグラスを取り上げ、乾杯とグラスを突き出した。

食事が始まると、大和田はシェリーをちびちびとなめるように飲みながら、リュウイチに話しかけた。

――さあ、そろそろリュウイチ君の話を聞こう。そのために来たんだからな。

――そうですね。大和田局長は……。

話しかけたリュウイチを、大和田が遮った。

――その『局長』というのは、やめてくれないか。君は僕の部下ではないし、ましてや娘の友人じゃないか。いや、〈命の恩人〉だったかな。ま、大和田さんでもいいし、別にお父さんと呼んでくれても構わない。だが局長は、よそよそし過ぎる。

そこでくーなが合いの手を入れた。

――『お父さん』にしちゃえば。いずれそうなるかもしれないしね。

くーなはリュウイチに、軽いウインクをした。思わず、グラスに伸びたリュウイチの手が止まった。

リュウイチは、気まずそうな咳払いを一つして、話を続けた。

――では……お父さん。

横でくーなが「きゃっ」と言いながら手を叩いた。大和田がくーなをたしなめると、赤面しながらリュウイチは続けた。

――視察に来られた日、実際に視察に周られる前に、荒木所長と所長室で話をされていましたよね。

――いかにも、それはもう昨日話したと思うが。

――失礼、たしかにそれは昨日お聞きしました。僕が聞きたいのは、その後のことです。大和田、いえお父さんが視察されている間、例の資料は所長室に置かれたままでしたか?

――ええと、そうだな。置いてあったはずだよ。あんなものを荒木以外の所員に見せる訳にも行かないだろう。だから視察の間、荒木に預けたよ。

――やはり……。

――それがどうかしたかね。

――ここからは、あくまでも僕の推察に過ぎません。昨日、お父さんとお話してから、いくつかの可能性を考えてみたんです。

――ほう。

大和田はやや身を乗り出して、リュウイチの次の言葉を待った。大和田の仕草を見て、くーなの好奇心は父親譲りかもしれないなと、リュウイチはこの場にそぐわない感慨を覚えた。

――つまり視察の間に、荒木所長はお父さんの計画、つまりあの計画書をコピーすることができたのではないかと。

――うん、あの計画書は二十枚程度のものだし、視察の間にコピーすることくらい、訳ないだろうな。だが視察を終えて、彼のところに戻ったときに、そのようなコピーがあるようには見えなかったがな。

――そこなんです。もし荒木所長がコピーしたという事実を知られないために、コピーをどこかに隠したとしたら……。元の資料をお父さんに返してしまえば、あたかも何でもなかったかのように思いますよね。しかし、あくまでも可能性の話ですが、計画書のコピーを荒木所長が今も手にしているとしたら……。

――なるほど。荒木に疑いを持っているという訳かい。

――お父さんの友人を、悪く言うつもりはないんです。お気に障ったのなら、謝ります。しかし事実、匡子さんも理由なく危険に晒されている。しかもそれは、あの視察のすぐ後に起きた。

――そういうことになるかな。

――もう一度、計画書に話を戻しましょう。いいですか、お父さん。あの計画書はお父さんの書斎、それも通常は誰も入れない部屋で管理されていた訳ですよね。けれどもあの視察の日、それは研究所にあった。そしてお父さんが視察をしていた時間、それはほんのわずかの時間かもしれませんが、お父さんの管理下から離れた。つまりあの計画書を複製できるとしたら、おそらくその時間しかない。そして実行できる人は……。

――荒木しかいないわけか。確かに視察に出た後、彼の部屋には他の所員はいなかったな。だが、どうして?

そこへウェイターがパスタを盛った皿を運んできた。続いて肉料理も運ばれてきた。

大和田はウェイターに「いつものやつを頼むよ」と言った。ウェイターは、まるでイタリア女性を思わせる、ふくよかな丸みを帯びた赤ワインのボトルを持ってきた。

ウェイターが赤ワインを、大和田とリュウイチの前に置かれたグラスに注いで去った。

くーなは運ばれてきた料理を頬張っていたが、二人の話に聞き耳を立てることは忘れていなかった。ワインを飲みつつ、パスタに手を伸ばしている二人に、くーなが口を開いた。

――そうするとこういうことなのかな。リュウイチの研究所の所長さんは、お父さんの資料をコピーしたとするでしょ。でも仮にその資料を手に入れたとしても、実際にはお父さんがメモした本がないと、計画書の通りに〈爆弾〉を作ることはできないのよね。

――その通りだ。荒木なら爆弾らしきものは作れるかもしれないが、あくまでも〈らしきもの〉でしかない。さらに言えば、荒木は完全主義者なところがあるぞ。おそらく仮にあの資料を見たとしても、その通りには作るまい。あの資料は完全には完成していないのだからな。実際、視察前に彼に資料を見せたときも、『まだ完璧ではないんだな』と言って、残念がっていた。それで何となく議論も終わり、私は視察に向かったんだよ。

――もし所長さんが、お父さんのメモを手に入れたとしたら、爆弾は作れるの?

――ああ、あの資料の唯一の(きず)はそこだけだからな。荒木ほどの実力があれば、作れるだろうよ。それにあの研究所なら、材料には事欠かんしな。

リュウイチが大和田を見た。

――そう、僕が考えたのも、その点です。そしてお父さんに、今日最も確認したかった点も。

――というと?

――視察前に荒木所長と議論されているときに、お父さんはそのメモの書かれた本について、所長と話をしましたか?

大和田は天を仰ぎ、荒木との会談を思い出していた。彼は、彼の頭の中に残った数多(あまた)の過去から、荒木との会談の記憶を選別するため、しばらく唸りながら考え込んだ。そして再び、リュウイチを見て、言った。

――うん、思い出した。確かに言ったな。荒木はそのメモさえあればと、我が事のように残念がっていたよ。

――そのメモは本に書かれていることも話したんですね。

――話したよ。

――荒木所長はその本がどこにあるかということを、お父さんに尋ねませんでしたか?

――荒木が聞く前に、私がそのメモについて話したときに、一緒に説明したな。『うちの馬鹿娘が、一番大事なメモを本ごと持って、どこかに行ってしまったよ』とな。実際そのときは、匡子は家を出てしまっていたし、私の書斎に入った者は、私を除けば匡子しかいないからね。

――ひどい! 『馬鹿娘』はひど過ぎるんじゃないかしら。責任は感じますけどね。

横でくーなが甘えたようなふくれっ面をしていた。リュウイチは思わず「くーな」と、いつもの呼称で呼んだ。

――でもその本を君が持って出たことが、君を事件に巻き込んだ元凶かもしれないんだぞ。

くーなはきょとんとした顔をしたが、すぐに合点が言ったようだった。

――そうね。もし所長さんがメモを手に入れようとすれば、その本を持っている私を狙うって訳ね。

――動機としては十分考えられる。

――何ということだ。

大和田は父としての憤りを、一瞬露にした。リュウイチは続けた。

――でもまだ、僕の中で完全にパズルは完成しない。一つ腑に落ちないことがあるんです。

――いや、君の洞察力には驚いたよ。私も長年の友人を疑いたくはないが、やはり一度荒木に確かめねばなるまいな。

――その前に、もう一つ確認させてください。くーなが、いや匡子さんが……。

――「くーな」でいいじゃない。

そう言ってくーなが笑うと、大和田も頷いた。

――じゃくーなさんが家出したことを、荒木所長に最初に話したのはいつですか?

――ああ、電話で話したな。匡子が出て行った翌日だ。私もあのときは少し動転したよ。それですぐに荒木に相談した。

――そうでしたか……。

リュウイチは両手で顔を覆うと、大きく深い溜息をついた。大和田とくーなが心配そうに彼を見た。

――大丈夫かね、リュウイチ君。気分でも悪いのかい。

――いえ、大丈夫です。今まで私が知りえたことから考えた推察は、以上です。後は直接、荒木所長と話をするしかないようです。


いつしかテーブルには、コーヒーとデザートが運ばれてきた。ボトルにまだ半分ほど残っているワインを見て、ウェイターが「お気に召しませんでしたか」と心配そうに尋ねた。

――いや、いつも通り最高のワインだよ。気にせんでくれ。

優しく静かに、ウェイターに大和田がささやくと、ようやく安心したようにボトルが下げられた。どっしりとした赤ワインの後の、苦味が効いたコーヒーは心地よかった。

――ところでリュウイチ君。私は早速明日にでも、荒木と会おうと思う。君の推察が正しければ、話は早い方がいい。

――どうしてですか。

――相手は荒木だ。しかも推理通りなら、資料は揃っていることになるじゃないか。荒木も科学者だ。科学者というものは、常に〈実証〉したがるものではないかね。

――つまり荒木所長が、資料通りに原子爆弾を作ると……。

大和田は大きく頷いた。

――荒木ほどの実力があれば、あの資料から実験用の爆弾を作ることくらい、そう難しいことではないはずだ。

リュウイチは背中に、うそ寒いものを感じた。

――急いだ方がいいですね。できれば、その場に私も同席させてください。

――しかし君からすれば、彼は所長だ。一般の企業なら、さしずめ社長だよ。そんな男を敵にしてしまうかもしれないが、それでもいいのかい?

――ええ、もし私の推測が正しいならば、荒木所長は……、所長である前にくーなに危害を加えた敵ってことになります。もし僕の推察が誤りならば、そのときはもう一度始めから、くーなの敵を探さないといけませんからね。いずれにしても彼女の身の安全を確保することが、今の僕にとって第一の使命(ミッション)ですから。

――リュウイチ。

くーながリュウイチを見つめた。その視線は、熱かった。

――リュウイチ君、君はそこまで匡子のことを……。

大和田も一瞬、やや声を詰まらせた。その語尾は不明瞭になって、聞き取れなかった。

――よろしい。じゃ荒木へは私が連絡する。敢えて君が同行することは、伏せておこう。いいね。

――はい、その方がいいと思います。荒木所長と話をする前に、所長に何らかの予見を持たれるのは、今は得策ではないですからね。

――承知しているよ。

――もう一つお願いがあります。その場に、その、できればくーなも同席させたいんですが。リスクは承知していますが、推察を確信にするためには、彼女の助けが必要です。

そしてくーなを見て「いいね?」と言った。くーなは力強く頷いた。

――お父さんにこんなことをお願いするのが、どれほど非道なことかは理解しています。そこを曲げて、是非お願いします。

――言ったじゃないか。そもそも私が匡子を危険に晒したんだ。こんなお転婆を独りで放っておいたら心配で仕方ないが、今は君がついている。大丈夫だよ。

――ありがとうございます。

心から感謝の気持ちを込め、深々と頭を下げた。

――いや、私こそ、君と話をしていて、大いに反省したよ。何て、とんでもないものを作ってしまったんだってね。しかも我が娘にもひた隠しにして、挙句の果てには危険な目に遭わせて……。

そこで大和田は声を詰まらせた。彼が(まと)っていた威厳の鎧は脱ぎ捨てられた。重い鎧を背負っていた肩を落とし、両手をテーブルについた。

――リュウイチ君には、本当に大切なことを教わったね。私にとって〈何が一番大切なもの〉だったのかを。匡子にも心配と迷惑をかけてしまったな。

テーブルに手をついたまま、大和田は慈愛に満ちた父の目でくーなを見た。涙もろいくーなの目は、すでに潤んでいた。大和田はひとつ大きく深呼吸した。長く重い深呼吸であった。

「すまなかった、この通りだ」

大和田は、テーブルに手をついたままの格好で、テーブルクロスに額を擦りつけるのではないかと思うほど、深々と頭を下げた。


すでに外は夜の(とばり)が下りて、ネオンはより一層くっきりと、夜空に()えた。その光は、はるか高いビルの窓にも射し込み、大和田の心を照らした。

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