10 父との再会
その朝、研究所で一仕事を終えたリュウイチを、ツジイが休憩コーナーに誘った。休憩コーナーにはユイもいた。
ツジイは席に着くなり、開口一番、リュウイチに唐突な質問を浴びせかけた。
――リュウイチ、君と一緒に暮らしているっていう妹さんは、本当に君の妹なのか?
リュウイチはどきりとした。一瞬口ごもった。しかしツジイの目は真剣であり、決して冗談で聞いているようには思えなかった。
隣で二人の会話を邪魔しないように座っているのがユイだけであり、かつ彼女はすでにあらかたリュウイチとくーなの関係を知っている。そのことがリュウイチを決心させた。
――実は一緒に暮らしているのは妹ではありません。嘘をついたり、隠したりするつもりはありませんでした。ただ何て言うか、つまりタイミングがなかったんです。すみません。
よく分からないまま、リュウイチは何となく謝った。
――いや別に、謝ることはないさ。君だって大人だし、僕も君のプライベートに、不必要に介入するつもりで聞いたのではないんだ。ただ所内で噂になってしまっていてね。気になったものだから。
――そうでしたか。それでその噂というのは、一体どんな話なんですか?
――最初は君が〈妹〉と称する女性と、急に一緒に暮らし始めたという、こう言っては何だが興味本位の噂話だった。先日の打ち上げで、君から聞いた妹の話を、ついキトウやミヤシタ達に話してしまった。それが発端だったかもしれないし、そのことについては僕が謝らないといけないかもしれない。しかし最近は、単に噂話と放っておけないような話が持ち上がってきていてね……。
――というと?
――うん。
そこでツジイは言うべきか、言わざるべきか、やや逡巡した。そして意を決したように、きっぱりと言い切った。
――君と一緒に住んでいる、君が〈妹〉と称する女性が、実は大和田局長の娘ではないのかという話が出ているんだ。まさかとは思うが、本当なのか?
――実を言うと、僕にもはっきりと分かりません。ですが、彼女の本当の姓が『大和田』であることは事実です。ですから、大和田局長の娘である可能性は、否定できません。
真摯なまなざしで話したリュウイチを見て、ツジイも一応納得した表情を見せた。ツジイは「根掘り葉掘り聞いて、すまない」と言い、リュウイチの肩を一つポンと叩くと、コーヒーを飲みほし、席を立った。
横でコーヒーを静かに飲んでいたユイも、驚いていたようだった。
リュウイチは噂話の出所については、詮索しないつもりだった。そんなことをすれば、却ってくーなに累が及ぶ可能性がある。それにツジイもわざわざ直接リュウイチを呼んで、問いただした以上、今後不必要な他言は避けてくれるであろう。ユイにしても今まで蔭ではリュウイチやくーなの助けになってくれたのだ。余計な噂などすまい。そもそもユイには、噂話なんて似合わない。
しかしリュウイチは、くーなの本当の出自については知る必要があるのではないか、と考えた。
確かに今まで、大和田という姓の一致と、くーなの父親が防衛庁に勤める人物であることから、くーなの父親はすなわち〈大和田局長〉であると考えてきた。しかし果たして防衛庁に勤務する大和田姓の人物が、いかほどいるだろう。
(やはり確かめておかなくてはいけないだろう。)
帰り道、リュウイチはくーなの父親と会う決心をした。
もし彼女の父親と対峙するとなれば、リュウイチはまだ二十歳にも満たない少女を誑かした、とんでもない男だとの誹りを免れないかもしれぬ。少なくともくーなは、再び彼女の父の庇護下に置かれ、リュウイチとの二ヶ月にも満たない蜜月は、間違いなく幕を引くこととなるであろう。
それでもリュウイチは会わなければならないと考えた。それは悲壮感で満たされた決心だったけれども。
その決心は、くーながかの文豪トルストイの言葉を借りて語った言葉に、後押しされたものかもしれなかった。
「今を懸命に生きる」こととは、そういうことではないのか。仮に明日、くーなとのかけがえのない蜜月が終わるとも、僕はくーなを守ると決めたんだ。
いつしかリュウイチは、くーなによって強くなった自分を省みた。
明日は週末という夜、リュウイチはくーなに己の決心を切り出した。
――君の父親に会いに行こう。
くーなは狐に鼻をつままれたような表情になった。さもあろう。リュウイチの言葉は、くーなにとって、父の許へ帰れという通告でもあったから。
――どうして。もう父のところへなんて、帰りたくないわ。私が邪魔なら、そうはっきり言ってくれてもいいのよ。でも父の所へは、帰らない。どうして急にそんなこと言い出すのよ。
たちまちくーなの目には、リュウイチの決心を最も鈍らせてしまう、ダイヤモンド色の涙が溢れた。実際、リュウイチは一瞬、己の言葉を取り下げるべきかとさえ考えた。しかしリュウイチは、もう以前の彼ではなかった。
――誤解しないでほしいんだ、くーな。君が邪魔だなんて、考えたこともない。いやむしろ、今の僕にとって、君は何よりも大切な人だ。だからこそ、僕は君の父親と会う必要がある。
涙で真っ赤になったくーなの目をまっすぐ見据えて、リュウイチははっきりと言った。
それから彼の研究所での噂話について、説明した。彼とくーなのことを秘密にすることはおろか、はっきりしておかないと噂は必要以上の尾ひれをつけて、二人の大切な時間を蝕むかもしれないことも。
そしてリュウイチは、ここ数日、一人でじっと考えていたある推量を語った。
――これはまだ僕の考えでしかないんだが、君を事件に巻き込んだのは、僕の研究所の人間ではないかと考えているんだ。
リュウイチはくーなに、彼の頭に数日来わだかまっていた考えを話した上で、事は急を要する、と言った。
それでもくーなは執拗に反対した。彼の胸に飛び込んだくーなは、まだ大人になりきれない駄々っ子のように、激しく頭を振った。
――でも、父の所に行ったら、きっと連れ戻されるわ。そうしたらもう、リュウイチともおしまいよ。私はまたあの開かずの間の隣に、幽閉されてしまうかもしれない。そんなの、嫌よ!
くーなの言葉は、リュウイチにも痛いほど同感できた。ただ出会って、一緒に生活を始めただけの、二人の時間を妨げる〈何か〉を恨んだ。リュウイチのその〈何か〉と対峙しなければならないという決心は、もういささかも揺るがなかった。
――大丈夫だ。君は僕が守ると決めたんだ。きっと君のお父さんにも分かってもらうさ。分かってもらえるまで、僕は何度でも話す。僕を信用してくれ。今のままでは、おそらく君は安全ではない。僕は君を守りたい!
訴えかけるリュウイチの眼力が、かたくななくーなの心をようやく融かした。
くーなはまだ泣きじゃくったまま、彼の胸の中でかすかに頷いた。
翌日、二人は夏の日差しに今にも融解しそうな、アスファルトの緩やかな坂道を、並んで歩いていた。
瀟洒な邸宅が立ち並ぶ東京の山の手郊外の一角に、ひときわ目を引く、広い庭と高い塀に囲まれた家がある。黒い大理石でできた表札に、美しく彫られた名前は〈大和田〉である。
リュウイチはくーなの案内で、門の前に立った。圧倒されるほどの邸宅の大きさに、息を呑み、思わず足がすくんだ。横を見れば、くーなは手馴れた様子で、門柱に取り付けられているインターホンを鳴らしていた。
リュウイチは慌てて心の準備をしなければならなかった。
――はい。大和田でございます。
齢を重ねたと思われる落ち着きと邸宅にふさわしい上品さを兼ね備えた声が、インターホンから聞こえてきた。
――私、匡子。今、門の前にいるの。開けてちょうだい。
――匡子なの? お父様から、今日来ることは聞いていたわ。では今から開けますから、お入りなさい。
三秒後、金属製の重そうな門はその重厚さにふさわしく、威厳ある音を立てながらゆっくりと開いた。門の向こうには、ちょっとした森を思わせる植え込みと車が数台あった。さらにその奥に、簡素なデザインでけばけばしさを極力抑えながら、しかも高級感は損なわずに聳え立つ家があった。
くーなの肩をリュウイチがぽんと叩いた。くーなはリュウイチを見て頷いた。そして「行きましょう」と言って、まるで行進でもするように大きく手を振り、門の中に入って行った。その仕草は、自ら出て行った家に再び舞い戻ったことへの、照れ隠しにも見えた。
門をくぐり、邸宅の木製のドアに向かって進み始めたとき、ドアが開かれた。中からは、髪を短く揃えた和装の女性が現れた。
くーなが「お母さんよ」と、リュウイチに小声で言った。ドアから顔を出した女性は、久しぶりの娘との再会を喜んでいるのか、ドアの前に出て大きく手を振っていた。
くーなの母の顔がはっきりと分かるところまで進むと、リュウイチは彼女に向かって、一つ頭を下げた。くーなの母も頭を下げ返した。我が娘が男性をエスコートして、久しぶりに帰ってきたことにも、さほど頓着はしていなかった。きっと世俗全般に疎いまま、齢を重ねてきた女性なのだと、リュウイチは思った。
母が二人を快く迎えてくれたことで、リュウイチは一時に緊張感が解け、膝が、がくりとする感覚に襲われた。
ドアの前に到着すると、二人を見比べながらくーなに母が尋ねた。
――匡子ちゃんのお友達?
――そうよ。リュウイチさん。お友達っていうより、命の恩人って感じかしら。
「まあ、そうなの!」とくーなの言葉を文字通り受け止めた母は、大仰な調子で驚いた。そしてリュウイチを頭から爪先まで、ずっと眺め、もう一度大きくお辞儀をした。
――何があったか存じませんで、申し訳ありませんが、匡子がお世話になりました。
まだ家にも入っていないうちに、くーなの母によって、リュウイチは覚えず英雄に祭り上げられてしまった。予期しない展開に、彼はどぎまぎしながら、くーなと彼女の母の顔を交互に見ていた。
くーなの母に促され、二人はようやく邸宅の中に入った。大理石でできた広い玄関で靴を脱ぎ、それに続く廊下を奥に進んだ。廊下を突き当たったところに、リュウイチの住むマンションの一室を飲み込んでしまうほどの大きさの応接間が控えていた。二人は広すぎるその部屋に通され、くーなの母からしばらく待つようにと、グレーの大きなソファを勧められた。
十分間、ソファに座ったまま、応接間に並ぶ豪華な調度品を眺めていた。やがてくーなの母は、盆に載せたコーヒーと一人の男を伴って、再び応接間に入ってきた。リュウイチの目はその男を、素早く捕捉した。
――やはり、あなたでしたか。
唐突なリュウイチの言葉にも、その男は官僚らしい慇懃さと尊大さを崩さなかった。しかし男の目には、にわかに警戒の色が浮かんだ。それを察知したリュウイチは、慌てて挨拶もなくいきなり話しかけた非礼を詫び、改めて自分の名を名乗った。
――防衛庁、防衛政策局の大和田局長でしたね。以前、●●研究所視察の折に、お見かけしました。
――そうか。君は荒木君のところの所員かね。いかにも私は、防衛政策局の大和田だ。
リュウイチが荒木の部下であることを知り、大和田も警戒心も少し解いた。大和田は茶色の紙巻煙草を取り出すと、「失礼するよ」とリュウイチに言い、火をつけてうまそうに一息吸い込んだ。
くーなを見て一言、「久しぶりだな」というと再びリュウイチを見た。
――何か私に話があるそうだが。
――はい。今日はいくつか大和田局長に確かめたいことがあって、お邪魔しました。
――ほう。何だね。
――その前に、一つお断りします。これから確認させていただくお話は、もしかすると大和田局長のお仕事に関わることかもしれません。もし局長の、あるいは防衛庁の機密に関わるのであれば、お人払いしていただいても構いませんが。
――ふむ。なかなか君は機転が利くな。では念のため、そうさせていただこう。
妻君に、「絹代、私が呼ぶまで下がっていてくれ」と言った。続いてリュウイチに「匡子は?」と尋ねた。
――これまでの経緯もあるでしょうから、匡子さんにはここにいてもらいましょう。いいよね、匡子さん?
リュウイチから「匡子さん」と呼ばれたくーなは、くすぐったそうに肩をすぼめて、黙って首を縦に振った。
盆を持ったまま大和田の脇に立って控えていた絹代は、静かに応接間を出て行った。
――さあこれでいいかな。早速話を伺おう。
――はい。まず匡子さんがこの家を出て行った原因からお話しします。
リュウイチはそう切り出した。
そしてくーなに代わって、大和田の書斎に忍び込んだこと。それはただ単に、読むべき本を探すためであったこと。たった一度、開かずの間に入ったことをなじられ、そのことへの反発として、高校を卒業すると同時に家出することを決心した、ということをかいつまんで説明した。
大和田はただ黙って、じっと煙草をくゆらしたまま聞いていた。リュウイチはそこで、第一の矢を放った。
――ところで匡子さんは局長の部屋に入ったとき、マル秘と書かれた『核兵器開発』に関する書類を見たと言っています。それは本当のことですか。
それまで黙って聞いていた大和田の瞳が、ゆっくりと大きく見開かれた。その目はリュウイチを射抜くかのように、鋭かった。そしてその鋭い眼光のまま、視線の先をくーなに移しながら口を開いた。
――いかにも。君が人払いをした理由も分かったよ。しかしそれは、防衛庁とは何ら関係のない資料だ。部屋に入ったのなら、匡子にも分かるだろうが、私はいわば個人的な趣味で兵器の研究をしていた。
――信じていいですね?
リュウイチは再び向けられた、大和田の鋭い視線を押し返しながら、念を押した。
――ああ、もちろんだ。
大和田は大きく頷くと、やおら自分の研究について、とつとつと話し始めた。
――まだ防衛庁に荒木もいた頃だ。随分前になるが、彼と私は半ば冗談で原子爆弾の製造ができないか、などという話をしていたことがあってね。冗談で始めたんだが、そこはお互い、元々が研究者だ。二人とも、そのテーマに夢中になっていた。しかし理屈は知っていても、なかなか実際には製造できないんだね。一つ間違えれば、自分が死んでしまうかもしれない危険なテーマだ。だが、それだけに私も荒木も夢中になった。
そこで一息つくと、大和田はコーヒーで喉を潤した。リュウイチが言葉を継いだ。
――そうすると局長の机に載っていた資料というのは……。
――そうだ、その冗談で始めた研究の成果だ。実を言うと、匡子が部屋に入った段階で、原子爆弾の設計図とも言うべき計画は、ほぼ出来上がっていた。ただ一箇所を除いてな。
――その一箇所とは?
その質問に大和田は逡巡した。話すべきか、決めかねているように腕を組み、およそ二十秒間じっと考え込んだ。
くーなは父の様子をじっと見ていた。一言も発することなく。
大和田とくーなの目が合った。その瞬間、彼は話す決心をした。
――そう、それこそが私の計画の要だった。けれどもその箇所は、今の私にもわからない。
――どういうことです?
――つまりその答えは、匡子が私の部屋から、パズルの最後のピースを持ち出したんだ。本人は否定しているがね。
くーなと目を合わせたまま、さも残念そうな面持ちで、大和田は吐き出すように言った。
第二の矢が放たれた。
――それは本ですか。
――そうだ。君も読んだことぐらいあるだろう。トルストイの「戦争と平和」だよ。
思わず、リュウイチとくーなは顔を見合わせた。
――その本を読んでいるときに、突然最後の一箇所が、私の頭に閃いたのだ。それはもう嬉しくてね。しかしベッドの灯り以外、部屋を暗くしていたから、思わず手近のペンで、その本にメモをした。資料には後で書くつもりでな。
――それで結局、資料にはそのメモは書かれたんですか?
――いや、だから言っているだろう。その本は、私が資料に書く前に、私の部屋から持ち出されてしまったんだよ。閃きはそのまま、本とともに私の頭の中から消え去った。閃きというものは、いくら理詰めで考えようとしても出てこないものだ。だから私の研究もそこで頓挫した。いや、一気にその研究への情熱が、失われてしまったと言うべきかな。
リュウイチは激しく動揺した。予感はあった。だが今まで、彼の心は、そんな恐ろしいものが在るという事実を受け入れることを拒んでいた。これまで彼が、己の理性で否定し続けたものが、在った。
それゆえ、リュウイチは、揺れた。
次の質問に移るまでに、リュウイチはかなりの時間を要した。大和田もくーなも、しかしその空気を察知してか、リュウイチが再び口を開くのを黙って待った。
やがて上ずったような、半オクターブ高い声で、リュウイチは話しだした。
――では次の質問をさせていただきます。
――ああ。
――その資料は視察の際に、研究所にお持ちになりましたか。そして荒木所長とその資料について、論議されましたか。
大和田は一度、彼の秘私的な事実について話したせいか、もはや澱みなく言った。
――持って行ったし、荒木にも見せたよ。そもそも荒木に、私の研究成果を見せるのが、視察の真の目的だった。荒木は核分裂や核融合の分野では、私よりはるかに先んじていたよ。だが彼には、兵器に関する知識が欠けていた。それが、彼が防衛庁を離れて、研究所を立ち上げる端緒だった訳だが……。いずれにせよ、私か原子爆弾の製法を完成させたと話したとき、彼は我が事のように絶賛していたよ。是非拝見させてくれ、と言っていた。それで視察という名目で、資料を持っていくことにした。まさか堂々と原子爆弾について、議論すると言うのは憚られるし、私も公務が忙しくて、そんな口実でも作らないと、純粋にプライベートな時間に荒木と話をする余裕もなかったのでね。
衒うことなく、淡々と語る大和田の言葉を、リュウイチは信じた。そうして素直に頭を下げた。
――ありがとうございます。私のような者に、包み隠さず話していただいて。
――仕方ないだろう。娘が連れてきた男だ。私も娘を持つ親として、粗末に扱う訳にはいかないよ。
そう答えた大和田の顔に、微かではあるが初めて笑みらしい表情が浮かんだ。官僚の顔が、いつしか父親のそれに変化した。
テーブルに置かれたコーヒーは、とっくに冷めていた。リュウイチは一口飲み、大和田は二本目の煙草を取り出した。
続いてリュウイチは、彼がくーなと出会ってから一緒に生活を始めた経過を、かいつまんで話した。リュウイチがくーなを〈女〉にしたことは伏せた。父親の顔を見せた、大和田の心情を慮ってのことであった。
そして話はくーなが、何者かに襲われ、昏睡状態になったことに及んだ。父親になった大和田は、驚きを隠そうともせず、かつ心配そうな表情でリュウイチの話を聞いていた。
病院での医師との会話を、リュウイチは反芻した。医師の見立てに拠れば、くーなはエーテルを用いて昏睡状態にさせられたと話した。大和田はその見立てに、科学者らしい反応を見せた。
――エーテルか。まるでテレビドラマだな。だがエーテルが、そう簡単に作れるかな?
リュウイチと全く同じ感想を漏らした大和田に、リュウイチは思い切って己の推測をぶつけることにした。
――私もそう思います。
一瞬そこで間を置くと、リュウイチは一気に言い切った。言いづらいことではあったが、第三の矢は放たれねばならなかった。
――だから匡子さんを襲った暴漢は、研究所の人間ではないかと考えています!
再び大和田は、沈思の表情になった。黙ってしまった大和田に向かって、リュウイチは己の推測の根拠を述べた。
――研究所なら、エーテルの原料になる試薬もありますし、エーテルの製法を知る者もいると思います。
さらにリュウイチは「一つ、大事なことをお伝えするのを忘れました」と前置きして、まるで苦いものでも吐き出すような調子で、言った。これが最後の矢であった。
――しかも局長がメモを書かれた本も、先日、何物かが僕の部屋に忍び込んで、盗んでいきました。
大和田の顔が蒼ざめたが、それでも彼はじっと考え込んだままだった。
散りつく島もない大和田を前に、リュウイチも黙るしかなかった。横で、くーなが、停滞してしまった空気を、不安そうな顔で見つめていた。
そのまま長い五分が経過した。目を閉じて、考え込んでいた大和田は、静かに瞳を開くと、独り言のように呟いた。
――これはもう一度、私が荒木と会う必要がありそうだな。
大和田の呟きが意味するところを、リュウイチは尋ねたかった。だが大和田が苦渋に満ちた表情をしていた。それは一研究者としての苦悩とも、愛娘を危険に晒す要因を作ってしまった父親の苦悩ともとれた。くーなを守ることを使命に、この邸宅にやって来たリュウイチは、主に父親としての苦悩に同情した。結局、彼はその問いかけを飲み込んだ。
リュウイチはやや大和田の表情に柔和さが戻ったところで、再び話し出した。
――これで僕が大和田局長に確認したかったことは、全てです。ただ最後に一つ、お願いがあります。
――何だね。言ってみなさい。
大和田の言葉には、腹を割って話した男同士の気安さが、いつしか含まれていた。リュウイチもその言葉に、大和田の表情を窺うことなく話すことができた。
――その……匡子さんをもう一度、この家で住まわせてください。
くーなは弾かれたように、リュウイチを見た。驚きと悲しみをない交ぜにしたような表情で、彼女は頭を振った。
――それは私と君が決めることではないよ。
大和田はきっぱりと言った。
――そもそも匡子がここを出て行ったのは、私の責任なんだろう。私はやはり、何としても、娘を、いや誰も私の書斎に入れるべきではなかったのだよ。そう、私はやはり大きな過ちを犯したのだ。だから今は、匡子の気持ちを尊重したい。もちろん、この家に残ることは歓迎するがね。
大和田は父としての顔を、くーなに向けた。くーなも眩しそうに、父の顔を見返した。これまでの、一般的な家庭ではおよそ交わされることのない会話は、確実に、大和田とくーなの間に長いこと横たわっていた確執を洗い流していた。
――どうする、匡子?
そう尋ねた大和田の顔は優しかった。
――私、今日家に帰ってきて、良かったと思っている。でもね、私も私自身の恩返しが終わっていないの。リュウイチさんは、行き場をなくしかけた私を救ってくれただけでなく、この私を守って、庇ってくれたわ。だから私もリュウイチさんから受けた恩は返さなければならないと思うの。
――いや、それは違うよ。くー……
言いかけたリュウイチの言葉を、畳み掛けるようにくーなが遮った。
――リュウイチさんは、私にとってかけがえのない人なのよ。お父さん、信じて! 私はこの恩返しができたら、きっとお父さんの所に戻ってくる。だから少しだけ、私に恩返しの時間をください。
いつしかくーなの目からは、大粒の涙が溢れていた。リュウイチはもう何も言わず、そっとくーなの肩に手を置いた。
大和田は腕を組んだまま、その様子を見ていた。
――ふむ……分かった。
組んでいた腕を解くと、大和田はリュウイチに歩み寄り、その右手を取った。固い握手をした大和田の目にも、心なしか光るものが浮かんでいるように見えた。
そして泣きじゃくるくーなに言った。
――そっと静かに家を出るんだよ。絹代にばれたら、また一騒動起きてしまう。
そう言って快活に笑った。もう二度とくーなに会えなくなるかもしれないという覚悟で臨んだ、大和田との二度目の邂逅で、リュウイチは図らずも大和田の父親、研究者、官僚のそれぞれの矜持を垣間見ることとなった。
大和田は静かに応接間のドアを開けると、首だけを廊下に突き出した。誰もいないことを確認すると、人差し指を口に当てて、二人に合図した。その顔は何かいたずらを仕掛けようとしている少年のように、生き生きと楽しげであった。
手招きされてドアに歩み寄る二人の背中を、大和田はそっと静かに押した。忍び足で玄関に向かう二人の背中に、父は小さく手を振った。
家に帰る道すがら、リュウイチは大きく伸びをしながら、前を歩くくーなに向かって叫んだ。
――素敵なお父さんだね!