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くーな  作者: 藍田陽介
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1 出逢い

初めての投稿作品になります。まだ途中ですが、最後まで書き通すことが今の最大目標です。

時間はかかるかもしれませんが、よろしければお付き合いください。

今になって思い返してみると、背筋がゾッとする。もう二十年くらい経つだろうか。リュウイチがくーなに出会ってから。


リュウイチはまだ大学を出て、ある研究所に就職したばかりの頃である。それまで武蔵野丘陵の一角にあるT大学で、物理学を専攻し、量子力学を学んでいた。その後、就職した研究所は、同じく武蔵野丘陵のまだ周りに雑木林が多く残る中にひっそりと建っていた。

首尾よく就職できたのは、大学のゼミで師事した教授の推薦のおかげである。教授には今も感謝している。

リュウイチは、入所してすぐに、主に原子炉に関連した研究をするプロジェクトチームに入った。普段から身の周りにウランやら、プルトニウムのような、まるで化学の時間に元素記号表でしかお目にかかったことのない放射性金属を、日常的に扱うこととなった。そのせいか、いきおいプロジェクトチームの雰囲気はいつもピンと張りつめた糸のようだった。それは入ったばかりのリュウイチに、想像以上の緊張を強いた。

研究所に通いだしたばかりのリュウイチは、チームの中に一日身を置いているだけで、激しい疲弊感を覚えた。研究所にいる間は、呼吸をするのさえ無意識ではできないような気がした。毎日、その繰り返しだった。

研究所を出て帰宅の途に着くと、ピンと張りつめた彼の神経は、膨張しきった風船に針を刺したかのように、パチンと音を立てて弾けるのが常だった。


その日もそうだった。

研究所に勤めだして、二ヶ月くらい経った頃である。まだリュウイチの神経は、極端な緊張と弛緩を繰り返していた。

異常なほどの神経の緊張状態から一気に開放されたリュウイチの体は、その急激な弛緩に耐えかねた。研究所から駅までの帰り道、道端の電柱に右腕を伸ばして、己が体を支えた。そして激しく嘔吐すると、そのまましばらく肩で荒い息をしていた。

ここに来てからは、何度もあったことだ。

己の吐瀉物ですえた臭いを含んだ空気を何度も大きく吸い込んだ。やがて「ふぅ」と一つため息をつくと、やおら電柱から離れ、再びリュウイチは駅に向かって歩き出した。

いや、歩き出そうとした彼の足は、半歩踏み出したところでピタリと停止した。

リュウイチの視線の先に、まだ少女と呼んでも差し支えないような、一人の女が立っていた。少女は少し笑みを浮かべたまま、リュウイチの視線を的確に捉えた。

リュウイチと少女の間の空気だけが濃度を増した。二人はその濃密な空気の両端に対峙して、約十三秒完全に停止した。

残りの半歩をリュウイチが踏み出すのと少女が口を開いたのは、ほぼ同時であった。

「大丈夫?」少女は、意外にハスキーな大人びた声だった。リュウイチは一度、自分の体から湧き出した汚物のわだかまる電柱を見やった。

「ああ、大丈夫だ」

「よかった、お兄ちゃん」リュウイチは「えっ?」と聞き返した。少女はリュウイチの疑問符を無視して、続けた。

「私、〈くーな〉っていうの」

「くーな、ね。それよりも今僕のことを〈お兄ちゃん〉って言わなかった」

「言ったわよ。いいじゃない。今日からあなたは私のお兄ちゃんよ。〈あなた〉じゃ変ね、名前は?」少女、〈くーな〉は、一気に畳み掛けるように言い切った。

「ミネギシ、リュウイチ」

「じゃリュウイチ兄さんね」そう言うと、くーなは屈託のない笑顔でリュウイチの前まで来た。と、彼の横に立ち、瞬く間に彼の左腕に自分の右腕をすべり込ませた。白く細長いくーなの右腕は、リュウイチの疲れ切った心の桎梏となった。

リュウイチはくーなを左腕にぶら下げたような格好で、下を向いて二十七歩歩いた。その間くーなは、雑木の群れの間に民家の立ち並ぶ変哲のない風景を見回していた。

二十七歩、足を進めたところで、リュウイチは顔を上げて立ち止まった。

「〈くーな〉っていうのは、本名じゃないよね?」

「多分、ね。私にも分からない。でも誰もが私のことを〈くーな〉って呼ぶわ」

「そう。じゃ名前そういうことにしよう。けれどもどうして、僕が君のお兄さんになるんだい」

「どうもこうもないでしょ。お兄ちゃんはお兄ちゃんよ」

「……そう言われても、ついさっきまで僕は自分が一人っ子だと思っていたよ。二十二年間、兄弟と呼べる人はいなかった。だからさ、急に君が妹として名乗り出てきても困るんだよ」実際、リュウイチは二十七歩の間、隣を歩くまだ幼さの残る〈くーな〉をこれからどうするべきか逡巡していた。「今まで君はどこでどうしていて、どこから来たのさ」

「一度にたくさん聞かれても、答えに困っちゃうな。おいおい話すから、まずは家に帰ろうよ」くーなの言葉には、すでに兄弟の親しさが十分に込められていた。

「帰るって、どこへ」

「お兄ちゃんの家に決まっているじゃない」

「君もかい?」

「そうよ」

「しかしそこは、僕の住処であって、君のではない」

「いいじゃない、兄弟なんだから。それに……」

つとくーなは前を向くと、今度は彼女がリュウイチを引きずるような形で、数歩歩いた。リュウイチはいきなり引かれ、バランスを崩して転びそうになって、慌てて走るようにくーなの横に行った。

前につんのめるような格好で走ったリュウイチの目に、くーなの胸元が映った。

くーなの胸はあまり豊かではなかったけれど、ギリシャ彫刻を思わせるような白さで、首から胸にかけてのラインはミロのヴィーナス像を想像させた。リュウイチは少し眩しそうに眉をひそめた顔をした。

「いきなり引っ張るから、コケそうになったじゃないか」早口で、少し強い口調で言った。くーなは全く意に介さない様子で、前を向いたままぼそりと呟いた。

「他に……、行く所なんてないんだもん」

それきり二人は黙って、再び歩き出した。


空気は重く、二人の間に垂れこめた。駅までの道すがら、雨が降り出した。梅雨のどっしりとした空気はいよいよ重さを増し、二人の肩にのしかかった。息苦しささえ覚えるほどである。雨がアスファルトの道を叩き、土埃の臭いが充満した。

リュウイチはカバンから折りたたみ式の黒い傘を取り出した。それを横から奪うようにくーなが取った。手早く広げると、くーなより頭一つ背が高いリュウイチに合わせて、左腕をぐっと伸ばし二人の間に差しかけた。

傘は二人で共有するには小さすぎたが、くーなはリュウイチにぴったりとくっつくようにして駅まで歩いた。


京王線を調布で降りると雨は止んでいた。止んだばかりと見えて、駅前の道にはまだそこかしこに雨水が溜まっていた。

二人は結局、車中でも口を利くことはなく、黙って改札口を抜け、黙って空を見上げた。背格好こそ違え、まるで映し鏡のように二人は同じ動作をした。

駅からリュウイチの部屋のあるマンションまでは、リュウイチの足できっちり十分間かかる。この日はくーなを連れていたので、十三分を要した。

家に着くと、まずリュウイチはバスタオルを二枚持ち出して、薄桃色の方をくーなに手渡した。

「濡れただろ。拭きなよ」

玄関で立ったままのくーなに言った。長いこと黙ったままだったので、うまく声が出なかった。

傘からはみ出していた右肩を拭いながら、部屋に入ろうとしたとき、玄関からくーなの声が響いた。

「お邪魔しまあす」

くーなはバスタオルを頭に載せて、部屋に入ってきた。まるで薄桃色のフードを被ったような格好で。

食事に行こう、とリュウイチが提案した。しかしくーなは、先にシャワーを浴びたい、と言った。

「困ったな。でもうちには、くーなが着るような服はないよ」

「やっと私のことを普通に〈くーな〉って呼んでくれたね」くーなは出会ってから初めて、天使の笑顔を見せた。相変わらず問いかけとくーなの答えはかみ合わない。

「……だからさ、とりあえず食事に行こう。その帰りに服を買ったらいいだろ」

あえてリュウイチもくーなの返事に取り合わず、もう一度提案した。少し照れくさそうに、横を向いた。

「分かったわ。じゃ行きましょう」

リュウイチはこの期に及んで初めて気がついた。くーなはバッグ一つ持たずに、あの研究所から駅に続く道に佇んでいたのだった。

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