概念戦士・本物川2 〜燃焼〜
概念は微笑んだ。
概念戦士・本物川2 〜燃焼〜
燃え盛る炎。
北星ヶ谷の二丁目、三丁目、五丁目に散発的に生じたそれは夏の夜空を赤々と焦がし、周囲は瞬く間に熱気と喧騒に包まれた。遠くから幾つも重なったサイレンの音。悲鳴。怒声。焼けた柱が強度を失い軋んで家ごと倒れる音。
本物川は高い電柱の上にすっくと立って、その光景を見下ろしていた。
『ひでえ……』
「生じた火災を順に消しても事態は終息しない。火災の原因を断たなければ」
『分かるのか?』
「もちろん」
本物川は眼を閉じて意識を集中した。
ミノルにはーー人間にはない感覚が澄み渡り、周囲に波紋のように拡がって行く。
それは音や光ではなく心や精神をもつものの、意識そのものを「視る」感覚のようだった。
嘆き、苦痛、恐怖、怒り、呆然、不安、焦燥。
街に散在する無数の、青白く生温い意識の数々を本物川は軽やかにスルーしながら感覚の円を、街そのものを舐めるように拡げてゆく。
「ーーいた」
本物川の中にいるミノルにも本物川の感覚を通じてそれが分かった。明らかに回りの人間の意識とは色や力強さが違う。
真っ赤に渦を巻く高温のエネルギーの塊……。
暇つぶしに散歩でもするようにぷらぷらと夜の街を歩き回りながら、手近なものに次々と炎を吹き付けて回っている。
「燃焼、だ」
ーーーーーーーーーーーーーーー
安らかな空気のどこか。
だがどこだか全く憶えがない。
違う。ここは「場所」ですらない。
ミノルはその不思議な感覚に戸惑いながらも、その優しく和やかな雰囲気そのものには満足を覚えていた。
ふと周囲に意識を向けると、すぐ側にもう一人、誰かいるのが分かった。いや。それもまた所謂「人」ではない。魂のような、心そのもののような、ふんわりとした誰か。
ミノルはその誰かが好きだった。
その誰かがいるから、今ここはこんなにも心地よいのだ。
隣の魂が穏やかに明滅する。ミノルはそれに応えて同じリズムで明滅した。そう、ミノルも今は肉体を持たない光というか波というか、とにかく魂みたいなものだけの存在だった。
ミノルは更に隣の魂との濃密な接触を欲して、意識の手をそちらへ伸ばした。だが相手の魂は伸ばした手の分だけ遠ざかり、ミノルのそれに触れようとする試みは失敗した。
更に手を伸ばす。また遠ざかる。
何度かそれを繰り返した後、急に周囲の空気が変わった。
暗く息苦しい雰囲気。冷たい風。
ミノルは切実な思いで愛しい魂に手を伸ばした。名前を叫んだ気もする。
だが自分とともにあるべきその魂は急速に遠ざかると、暗転した世界の果てに音もなく消え去っていった。それが永遠の離別だと分かって、ミノルは血を吐くような悲鳴を上げた。
「うわっ!」
自宅のアパートで叫びながら目を覚ましたミノルは、自分の身体と周りの布団や床を思わず手でまさぐって確かめた。霊魂のような存在だった感覚、暗闇の雲の中に飲まれ、無と同化してゆくような感覚が、まだ身体の芯に残っている。時計は5時を少し過ぎたところ。窓の外は白んではいるがまだ暗い。嫌な汗をウェットティッシュで拭って、ミノルは大きく溜息をついた。
「夢、か」
布団から抜け出すとジャージ姿だった。洗濯物は部屋干しされ、整髪料が落ちていることから入浴したことも疑いない。ゴミ箱にはコンビニ弁当の食べがらが捨てられており、切らしていたはずの烏龍茶は飲みさしの2リットルのペットボトルが冷蔵庫に入っていた。
「疲れてんのかな……変な夢を立て続けに」
きちんと充電されているスマホでニュースを検索する。
神社の倒壊も、神主の謎の死も、検索には掛からなかった。
「……だよなあ。パンチの怪人に襲われて、美少女に変身してそれと戦うなんて。あるわけねえわな」
『今後はな』
「……ん?」
『奴は昨夜の戦いで、もう完全に無意味化した。今後あの殴打と戦う心配は無用だ』
沈黙がミノルの部屋を満たした。
ちゅんちゅんとスズメの鳴く声。
原付きのエンジン音が近づき、遠ざかっていく。
「……ん?」
スマホのニュース検索結果の画面に照らされて身じろぎもしないまま、ミノルはもう一度繰り返した。
「……ん?」
ーーーーーーーーーーーーーーー
「あいつは片付いたんだ。もう元の世界に帰れよ」
『この世界に逃走した偽非概念は殴打だけじゃない。奴を含め全部で四十二の重隔離偽非概念がこちらに来ているはずだ。それらを無意味化するまでは、帰るわけには行かない』
混乱の夜は明け、見掛け上はいつもと変わらぬ朝が来た。
時刻は8時20分。大学に向かう道を自転車で走るミノルの、ペダルを漕ぐ足取りは重い。
「重隔離偽非概念?」
『……君にも分かるように、順を追って説明しよう』
ミノルの胸中に相反して、抜けるような青空の爽やか極まる朝である。
早起きな蝉の鳴き声。挨拶を交わしながら行き交う地域の人々。交通安全ボランティアの老人と、彼らに導かれて道路を横断する集団登校の子どもたち。
ミノルはこの街の朝が好きだった。
埼玉の中堅都市の端っこの、古き良き下町の佇まい。決して都会育ちとは言えないミノルの肌身に丁度良いのどかさ加減だった。
『先に言っておくが、私の使う用語の名称や用法は、君の世界のーーこの世界の辞書的な意味や用法とは必ずしも合致しない』
「どういうことだよ」
『私の世界にしかない事象を、この世界の表現で正確に表すことができないからだ』
「大体なんでお前はこの世界の言葉がペラペラなんだ?」
『君の記憶中枢と言語野を間借りして常時参照させて貰いながら会話している』
「便利なもんだな」
『ここまでできるようになるまで苦労した。全てが初めてで、手探りだったからな』
「……で?」
『だからこれから私がする説明は、君の記憶中枢にある様々な言葉や概念の中から、比較的語弊が少ないだろう用語を選んで無理矢理に私の世界の事象を説明することになる。それを前提で聞いてくれ』
「断る権利はないんだろ」
『君にとっても重要なことのはずだ』
校門を抜け、左に折れて駐輪場の屋根の下に自転車を停める。止まり木のスチールパイプにワイヤーロックを掛けると、ミノルは自分の学部の教室が集中する6号館に向けて歩き出した。
『昔むかし、肉体を持たない色々な概念が住む概念の世界がありました』
「お前……ちょっと俺の頭を悪く見積もり過ぎじゃねえか?」
『概念の世界にも悪い奴がいます。他の概念と相容れず、ただただ自分の概念を押し付け無理強いし、他の概念の害になって概念世界の調和を乱す、偽非概念です』
「犯罪者、みたいなもんか」
『概念世界の住人たちは偽非概念を取り締まり、程度の酷いそれらは厳重に隔離して、平和を保っていました。その行使者が、本物の強い概念たちです』
「警察官や衛兵みたいな立場だな」
『さて。そんなある日、重隔離偽非概念たちが閉じこめられている永久論理閉鎖区画に異常事態が起こります』
「異常事態?」
『隔離されていた一人の天才偽非概念が論理閉鎖区画のその内側で、一つの演算式を完成させたのです。それはーー』
その時、ぽん、とミノルの肩を叩くものがあった。
「よ。岸くん。朝から独り言?ビリー・ミリガンごっこ?」
同じ学部で同じサークルの銭谷ケンジである。
茶髪に派手なTシャツ、やれたジーンズに革のポーチ。下がるチェーンは財布に繋がっているのだろうか。
ミノルは曖昧に笑って誤魔化した。
「社会福祉概論か。銭谷も一限から真面目だな」
「お互いな。学費の分は身につけるもの身につけないと、親に申し訳ない」
女性とは大した縁のないミノルから見て、整った顔立ちで今風な銭谷に彼女がいないのを知り合った当初は不思議に思ったものだが、今ではその理由がなんとなく理解できた。
この男の、今時なやや不良っぽい出で立ちにどこか古風で律儀な性格、という取り合わせが災いしているのだ。
所謂チャラい女性はその意外に真面目な立ち振る舞いに息苦しさを感じるだろうし、古風で真面目な女性はその見た目のセンスで敬遠するのだろう。
『説明がまだ終わってない』
「後にしろ。俺の社会的地位が抹殺されたらお前も困るだろ」
銭谷に気付かれないように注意しながら、ミノルは頭の内側から話しかけてくる本物川を制した。
そのまま高くもないテンションで、銭谷から振られたサッカーの話題に興じる。
級友と交わす取り留めのない日常の会話。当たり前であるはずのそんななんでもない行いが、今のミノルには乾ききった喉を潤す冷たい水のように、切実に必要なものとして急速に染み渡っていった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「お疲れ様でしたー」
「お疲れ様でーす」
サークルの部会が終わり、ミノルは荷物を片付けて帰ろうとしていた。
「ミノル君」
そんなミノルを、誰かが呼び止めた。
振り向けば、アースカラーの服に肩までの髪、黒目がちな大きな瞳の小柄な女性が立っていた。
2年生の加野リョウコである。
ミノルも銭谷も加野も、地域の子供会支援サークル「ミラクルキッズ」に所属する。子供が親しみやすいよう、活動中は先輩後輩関係なく下の名前で呼ぶ、というのがサークルでのルールだった。
「リョウコ先輩。なんです?」
「会報委員の件、考えてくれた?」
北星ヶ谷近郊の四つの地域の子供会を支援するボランティアサークル「ミラクルキッズ」は現役の学生だけでも総勢八十余名の大所帯である。創設から三十周年を数えるこのサークルは、その創設当初から会員向けに四子供会の活動報告や最新の子供会事情、児童関連のニュースなどを纏めた「わらべ」という月刊の会報を連綿と発行し続けている。会報製作は有志の会報委員によってなされるが、今年の1年にはまだ一名しかそのなり手がおらず、副部長でありまた会報委員長を兼任する加野からミノルに声が掛かっていたのだ。
「あー。俺、バイトが割と忙しくて……うち、兄弟が多くて仕送り少ないんで、がっつり働かないと生活苦しいんですよ」
「そこをなんとか!お願い!メイコちゃんだけじゃ大変過ぎるし……『わらべ』を私たちの代で途切れさせたくないのよ」
ミノルは迷った。
銭谷ではないが、大学ではきちんと勉強もしたい。読みたい本もあるし、一人暮らしの生活は暮らしそれだけで意外なほどリソースを喰う。バイトとサークルの通常の活動の準備と、更に会報の原稿や校正、編集……。
オーバーワークではないだろうか。
だが正直に言ってしまえばこの先輩のことは好きだった。女性として意識している。いや。なるべく表に出さないようにしているが、恋心を抱いていると言っていい。
理性と情愛の間に板挟みになったミノルは眉を寄せて唸った。
「ね!今度、ごはん奢るから」
困った顔の美人の先輩のその一言で、ミノルの心の天秤は片側に大きく傾いた。
「分かりました……いいですよ」
我ながらなんてチョロいんだ、と自分に呆れながらも、ミノルは喜んで謝辞を述べる加野の姿にささやかな幸せを感じていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
『さっきは面白かった。男と女、恋愛感情か。肉体に準拠する概念に触れるのは新鮮で、私にとっては良い経験になる』
「……俺にもうプライバシーはないのかよ」
自宅のアパートで洗濯をしながら、ミノルはなんとかこの本物川を頭の中から追い出す方法はないものか、と深い溜息をついた。
とっぷり日も暮れて夜の帳は滞りなく北星ヶ谷の街を押し包み、付けっ放しのテレビではお笑い芸人が海外の絶叫マシンに乗る様子が虚しく垂れ流されている。
『昨晩、殴打と戦った時。好きな姿を思い浮かべろ、と言われてなぜあの加野リョウコを思い浮かべなかったんだ?』
「そこは我ながらGJだと思うわ。もしそんなことになってたらリョウコ先輩にめちゃくちゃ迷惑がーー」
掛かる、と言い切る前に目の前が真っ暗になった。ミノルの身体の自由は奪われて、本物川がゴシックな服装のツインテールの美少女の姿で、ミノルの部屋に現出した。
『あ!こら!勝手に……』
「ふむ……この姿は女性のようだが、やはり加野リョウコとは違う」
本物川はユニットバスの鏡で変身後の自分の姿を確認していた。その眼を通して、ミノルにも初めて変身した自分の姿の全貌が見えた。
中学生の頃ハマっていた美少女バトル漫画の登場キャラクターである。
「では誰なのだ?これは」
『漫画の登場人物だ。実在の誰かじゃない』
「書物の絵画の人物?君は同じ血肉を持つ生殖も可能な実在の女性より、紙媒体に印刷されたインクの象形であるところの架空の人物の方が好きなのか?」
『咄嗟のことだったから……よく憶えてねえよ』
「架空のキャラクター、か。肉体自体も加野リョウコより大分未成熟なようだが」
本物川は美少女の自分の身体の胸や尻を揉んだり引っ張ったりして確かめだした。
その感触が本物川の触覚越しにミノルにも伝わって、ミノルは本物川の中で赤面した。
『やめろよ!俺が悪かった!謝るから、なんかもう誰か他の姿になってくれ!』
「それは無理だ。君の中で私は、この姿、『本物川』という名前で定義された。概念そのものである私は、この世界の拠り所である君の定義を外れては存在できない」
『再定義すればいいだろ』
「君はこの世に生まれ直すことができるのか?」
『そこは概念なんだから、ふわっと柔軟になって対処しろよ』
「朝も言ったろう。私の使う用語は、必ずしもこの世界の辞書的な意味とは合致しない、と。分かりやすく説明するとだ。例えば水の中に魚がいたとしてーー」
そこまで言いかけた本物川は言葉を切ると、何かに気付いて弾かれたように窓に向かい、一気にそのガラスを全開にした。
『おい、そのかっこで窓から顔出すなよ』
「静かに!」
本物川は耳を澄ませるような仕草をした。
「感じないか?」
『……何を?』
「奴らの内の一体が、また具象化した」
『奴らって……まさか、おわっ⁉︎』
本物川はアパートの二階の窓から宙に身を躍らせると、一度アスファルトの生活道路に着地し、更に跳躍して塀から立ち並ぶ住宅の屋根へと上がり、屋根伝いに矢のように疾走した。
ーーーーーーーーーーーーーーー
燃え盛る炎。
北星ヶ谷の二丁目、三丁目、五丁目に散発的に生じたそれは夏の夜空を赤々と焦がし、周囲は瞬く間に熱気と喧騒に包まれた。遠くから幾つも重なったサイレンの音。悲鳴。怒声。焼けた柱が強度を失い軋んで家ごと倒れる音。
本物川は高い電柱の上にすっくと立って、その光景を見下ろしていた。
『ひでえ……』
ミノルは最初こそ眼前の光景をフィクションの動画か何かのようにどこか他人ごとめいて見ていたが、家々から街の住人たちが口々に何かを叫びながら逃げたしてくるのを眼にして、自分が住まう街の平穏が脅かされているのが堪らなく哀しくなった。
そしてその次に、仲間をやられた獣が抱くような荒々しい本能的な怒りが彼自身全体を満たした。
「生じた火災を順に消しても事態は終息しない。火災の原因を断たなければ」
『分かるのか?』
「もちろん」
本物川は眼を閉じて意識を集中した。
ミノルにはーー人間にはない感覚が冴え渡り、周囲に波紋のように拡がって行く。
それは音でも光でも、まして匂いでも熱でもなく、心や精神をもつものの意識そのものを「視る」感覚のようだった。
嘆き、苦痛、恐怖、怒り、呆然、不安、焦燥。
街に散在する無数の、青白く生温い意識の数々を本物川は軽やかにスルーしながら感覚の円を、街そのものを舐めるように拡げてゆく。
「ーーいた」
本物川の中にいるミノルにも本物川の感覚を通じてそれが分かった。明らかに回りの人間の意識とは色や力強さが違う。
真っ赤に渦を巻く高温のエネルギーの塊……。
暇つぶしに散歩でもするようにふらふらと夜の街を歩き回りながら、手近なものに次々と炎を吹き付けて回っている。
「燃焼、だ」
『概念の世界にも燃焼があるのか』
「逆だな。燃焼という概念があるから、この世界で火が燃えるのだ」
『止めなくちゃ』
「同感だ」
本物川は電柱の天辺からまた跳躍し、道を飛び越えて向かいの家の屋根に着地すると三区画ほど先で火つけを繰り返す「燃焼」を目指して駆けた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「火事だー!」
誰かがそう叫ぶのを聞いた時、銭谷ケンジは自宅のワンルームの座椅子で第二外国語のフランス語のテキストを読みかけのままうとうとしていた。
跳ね起きて時計を見れば9時少し前。とにかく様子を確かめようとアパートを出て、外を見た銭谷は驚愕した。街の夜空が、そこを流れる雲が、燃え盛る炎に照らされて赤々と輝いていたのだ。察するに周囲一帯が火の海と言ってよさそうだ。
銭谷は一度部屋に戻り、財布と携帯、携帯の充電器、印鑑通帳の入ったポーチをナップサックに放り込むと部屋を駆け出して安全な場所に逃げようとした。
駆け降りる階段の上から見下ろす混乱状態の街角。
そこに銭谷は異様な人物を認めた。
全身を真っ赤な炎に包まれたままふらふらと歩く人物だ。路地の先にちらりと見えただけだったが、銭谷はそれが燃え盛る人間だとはっきり分かった。
咄嗟にアパート階段下に備え付けの消化器を引き掴み、哀れな火災の犠牲者が歩み去った路地の先に駆け込む。自分が早々に火を消せて救急医療の処置さえ間に合えば、あれだけ燃えていても助かるかもしれない。
だが曲がった角の先で銭谷は、その自分の認識が根本から間違っていたことを知った。
その人物は、火災の犠牲者ではなかった。火災の原因、いや、ヒトの形をとった火災そのものだったのだ。両手から、口から、映画で観た火炎放射器のように長く伸びる炎を吹いて、そこら中に火を放っている。
誰かの身体が燃えているのではない。身体そのものが火炎なのだ。
おごっ、おごっとその炎の怪人は炎に包まれる街を見て恐らく……嗤った。聞いただけで怖気の走る不気味な嗤いだった。
余りに予想外な状況に思考の停止した銭谷は、消化器を手にその頭から爪先までを完全に硬直させた。
炎の怪人はそんな銭谷の気配に気づいて、ゆっくりと振り返った。
逃げようと思ったが腰から下が随意に動かず、銭谷は消化器を取り落として地面に尻餅をついた。
炎の怪人は両手を銭谷に向かって差し伸べる。もちろん助け起こす為ではない。
その怪人は一歩、二歩と銭谷に近づきながら、おごっ、おごっと嗤った。
銭谷は死を覚悟した。
灼熱の炎の来襲を予期して銭谷が身を固くした次の瞬間ーー
彼と怪人との間に小さな人影が踊り込んだ。
地面を蹴る。鋭い踏み込み。その影は一切の逡巡なく怪人との間合いを一気に詰める。そして渾身の力でその腹を殴った。
怪人は、くの字に身体を折り曲げて吹っ飛ばされ路地の奥のゴミ捨て場の金属コンテナに強かにぶつかって動かなくなった。
後には揺らめく炎に照らされて、一人の少女が立っていた。
銭谷は、その少女が、その佇まいが、その髪の揺れる様が、強い意志を秘めた瞳が、美しい、と思った。
「怪我はないか」
「あ、ああ」
少女は無駄のない身のこなしで倒れた銭谷に近づくと、小柄な体躯にしては意外な力強さで彼の身体を引き起こした。
「走れるな?川の方はまだ燃えていない。振り向かずに走れ。あいつの相手は私がする」
「え!君が……?」
「早く行ってくれ。正直、邪魔だ」
「わ、分かった」
振り向いて走り出しかけた銭谷は、立ち止まって振り向いた。
「あ、あの!」
「まだなにか?」
振り向きもせず本物川は答える。何かを吹っ切って、銭谷ははっきり言った。
「助けてくれて、ありがとう」
本物川はその言葉に振り向いて、にっこりと笑った。
銭谷は炎を背景に微笑むその少女の笑顔を、意識して脳裏に強く焼き付けた。
本物川が行け、と眼で合図をする。銭谷は頷いて燃え盛る夜の街を川に向かって駆け出した。
『焦ったぜ。銭谷が無事でよかった』
「だが問題がある」
『問題?』
「奴は強い……どうやらこの世界では燃焼という概念は相当に根源的な、強力な概念のようだ」
『さっきのパンチは効いてただろ』
「殴打の概念か。確かに一旦退けはしたが……これを見ろ」
本物川が自分の右腕を示す。そこには黒焦げに爛れたぼろぼろの腕があった。ミノルは息を飲んだ。
「一発殴ってこれだ。このままではーー」
見ればゴミ捨て場の金属コンテナが輝く液体となってどろどろと流れ落ちてゆく。
その中からさっきよりも一層激しい炎を吹き上げながら燃焼の魔人はゆっくりと立ち上がる。
「ーー勝てない」
四肢から吹き出す炎を推進力に「燃焼」が突っ込んで来る。体重を前に掛け、腕を身体の前で十字に組んで受け止める構えの本物川はしかし、激しく衝突した「燃焼」のエネルギーに抗し切れずに、炎に包まれながら後方に吹き飛ばされた。
ミノルは本物川の中で声にならない悲鳴を上げた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
瓦礫と廃材の巣と化したどこかの家の、他には無人の子供部屋でぶすぶすと煙を上げながら、本物川は倒れていた。
『どうなるんだ……俺。死ぬのか?』
「協力してくれ、ミノル。奴はこの具象世界の物理の力を自分の概念の力に上乗せして、私を圧倒している」
『どうすればいい?』
「燃焼の反対の概念……その物理現象を奴にぶつける」
『燃焼と反対の、物理現象?』
「それで少なくとも、上乗せ分の奴の力は相殺することができるはず」
『その物理現象って?』
「それを君に訊きたいのだ。私は君ほど、この世界の現象に詳しくない」
『水だ。思い切り大量の。奴にぶっかけろ』
「水はどう用意する」
『水道やバケツじゃとても間に合わないな。川までは遠い。今、ここに、大量の水……』
ミノルは必死に考えた。ミノルの本物川へのアドバイスにミノル自身の、この街の命運が懸かっている。
浮かんでは消える様々な水のイメージ。そして無数のそれは、ミノルの脳裏で重なりあってたった一つのはっきりした像を結んだ。
『雨、だ』
「承知!」
ミノルの中にある「雨」についての知識が、概念が、洪水のように本物川に注ぎ込まれる。
本物川は か、と眼を見開くとあちこち焦げて燻る身体で瓦礫を押しのけながら起き上がった。
「ミノル。説明の続きだ」
『さっきの、水の中の魚のか?』
「違う。朝の……我々の世界の、私と奴らの、だ」
本物川は跳躍する。高く。高く。
「一つ。我々概念世界の住人は、この世界の物理法則に働きかけて、ある程度それを捻じ曲げることができる。物理法則もまた、それぞれが独立した概念だからだ」
住宅地全体を見下ろす高架線の鉄塔に左手左足で捕まり本物川は右手を天高く突き上げる。
「重力を軽減して高く跳躍したり、上昇気流を強化して……雨雲を生んだりな」
折からの火災で生じた夜空を焦がす熱風は本物川の物理法則への干渉で強い上昇気流と化し、見る間に北星ヶ谷上空に雷鳴を伴う厚い雨雲を生んだ。
「二つ。どうやら我々概念体の依り代は、ある程度複雑な精神を持つ存在に限られるようだ。この世界では即ちーー人間だ」
閃く稲光。轟く雷鳴。
ぽつり、と本物川の頬に雫を落とした雨は、瞬く間に唸りを上げる豪雨となって燃え盛る夜の街に降り注いだ。
本物川はまた跳躍し、先程「燃焼」と一戦交えた現場に着地する。
そこには銭谷が取り落とし、放置された消化器があった。本物川はそれを拾い上げた。
「三つ。無限にではないが、我々概念体は概念の変容の性質を用いて、この世界の物体を相転移させられる。君の身体と服を、今の私とその服に変えたように。奴らが普通の人間を、怪人に変えたように。今私がこの消化器をーー」
本物川の手の中で消化器は滲み、ピントのぼやけた写真のようになった。と思うと次の瞬間にはまたピントが合い始め、完全に鮮明に戻った時にはすらりと長い刀に変じていた。
「炎を制して消す力、そのものの刃と変えたように」
滝のように降る雨に、燃えていた家々の火は次々に鎮火する。白煙を上げるそれらの間を、立ち尽くし雨に打たれるままうなだれる人々の間を、風のように駆け抜ける一人の少女の姿があった。
「ーーその天才偽非概念は、特別な演算式を完成させた。決して出ることのできない概念の牢獄、永久論理隔離区画の中で」
『演算式?』
「そうだ。概念世界では力のある演算式ーー論理体系は強力な兵器と同じだ。奴は同じように隔離されていた他の重隔離偽非概念6体を解体して材料に使い、位相次元超膜励起穿孔張力波跳躍航法理論の式を完成させ、走らせた」
『つまり?』
「別世界への、ワープ装置だ」
本物川は雨の夜空に何本も上がる鎮火の白煙の中で最も激しく上がる白煙を……その源を目指してひた走る。手に日本刀によく似た鎮火の刃を握りしめて。飛ぶ。黒焦げの自動車を踏み台に。三階建てのマンションの屋上へ。
「天才は牢獄の中に異世界への扉を開き、仲間もろともそれに飛び込んだ。その時そばに居合わせた本物の概念は一人。彼は事態の仔細の報告とメッセージを仲間に送り、自らはその扉に飛び込んだ」
『メッセージ?』
「自分が旅立った後、この『扉』となる式を壊せ、と」
『仲間はそれを実行した?』
「分からない。だが私なら、そうするだろう」
『本物川、お前……』
本物川はマンションの屋上から降り注ぐ雨にしゅうしゅうと音を立てて激しく白煙を上げながらよろよろと歩く「燃焼」の姿を認めた。鎮火の刃を構えまた本物川は、迷わずそれに向かって跳躍する。
「敵はもう増えない。だが、味方ももう来ない」
本物川に気付いた「燃焼」は口から炎を吹いて迎え撃つ。だがその炎は雨に打たれさっきとは比べ物にならない弱さだった。
落下と跳躍の勢いで吐きつけられた炎をそのまま突っ切って、本物川は「燃焼」に身体ごとぶつかって行った。手にした鎮火の刃は深々と「燃焼」の胸に突き刺さりその背中まで刺し貫いた。
「たった一人の、戦いだ」
鎮火の刃はその概念の力を速やかに解放した。それが白く輝いてガラスのように砕けると「燃焼」の身体はその傷口から連鎖して崩壊し始めた。
それは概念解体のドミノ倒しであり、一度始まったそれを止めようとする「燃焼」の凡ゆる試みは失敗した。
胸の傷を押さえ、よろよろと後退りした「燃焼」は天を仰ぐと、きゃぁぁぁぁ、と女のような悲鳴を上げた。
傷口の連鎖はやがて怪人の全身に及び、全身に入った亀裂は遂に怪人を輝く火の粉の爆散へと変え、辺りに撒き散らした。火の粉は雨滴に打たれちゅんちゅんと細かい白煙に変わり、やがて全て雨音と夜の闇の中へ溶けて消えた。
荒く息をしながら、本物川は雨のアスファルトに片膝をついてしゃがみ込んだ。力を使い過ぎたようだ。
『たった一人、なんて……言うなよ』
ミノルは疲れ切って、佇むだけの本物川に敬意と労わりの気持ちを込めて言った。
『頭数は一人かも知れないけど……中身は二人、だろ』
本物川は大地に雨を注ぎ続ける雨雲を見上げた。そしてそのまま、ゆっくりと目を閉じた。
「……ありがとう」
雨を顔に、身体に一杯に浴びながら本物川はほんの少し、本当にほんの少しだけ微笑んだようだった。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「岸くん、僕は恋をしたよ」
「ああ……銭谷か、おはよう」
雨上がりの爽やか極まる朝である。
大学の自転車置き場で、全身の筋肉痛に苦しみながら、ミノルは級友に挨拶をした。本物川の負ったダメージは丸々全てではないもののミノルにもきっちりフィードバックされていて、ミノルは昨日カッコつけて本物川に協力したことを少し後悔した。
「で?何が恋したって?」
「僕がだよ。僕は昨日の火事の中で運命の女神に出逢ったんだ。彼女こそ、僕の運命の人だ。名前も知らないんだけど間違いない。もう僕には彼女以外の相手は考えられないよ。どんな手を使ってでも、必ず探し出してみせる」
銭谷は、彼にしては珍しく興奮気味だった。ミノルは少し嫌な予感がした。
「彼女は可憐で、強くて、実直で、美しくて……」
銭谷は潤んだ瞳で付け加えた。
「おまけに、僕の命の恩人だ」
ミノルは駐輪しようとしていた自転車を倒してしまった。自転車はドミノのように次々に倒れ、結局自転車置き場にあった全ての自転車が絡み合って倒れ伏した。そんな事を全く意にも介さず、銭谷は空に謎のゴシック少女の微笑みを想い描いているようだ。ミノルの嫌な予感は的中した。
『男と女、恋愛感情か。面白い』
「面白くない!どうすんだよ……あいつお前に……つまり俺に惚れてるんだぞ」
雨上がりの爽やか極まる朝である。
空の想い人にハートを飛ばす級友の隣でミノルは、近年稀に見る暗澹たる思いで深い深い溜息をついて、倒れた自転車を順番に起こし始めた。