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恋愛もの

喧嘩ってのは

作者: 腹黒ツバメ



〈喧嘩ってのは〉



「ふぅ……」

 真冬の冷たい空気が俺の指先に鈍い痺れをもたらす。

 暖かな太陽の陽射しを遮るこの校舎裏に佇むこと、およそ五分。そろそろ身体が隅から冷え切ってくる頃だ。

 俺をここへ呼び出した相手はまだ来ない。まさかこのまま姿を現さないということはなかろうな。

 今日の放課後、下駄箱の中に入っていた無名のメモ書きには“校舎裏まで”とだけ記されていた。簡素な文章と荒々しく男らしい字面から、色っぽい事情ではないらしい。

 太刀の悪いイタズラとも思える不審さにも関わらず、俺は指定された場所へと赴いた。深い理由などはない。言うなればただの気まぐれだった。

 両手を口の前で重ね、温めるように白い息を吐き出すと、吐息の靄が視界を埋める。

 それが晴れた先には、気配もなく男がぽつりと佇み、俯いていた。

「……桜庭(さくらば)?」

 そこにいたのは俺の級友である桜庭だった。

 しかし正直、彼とは深い交友関係にないはずだ。俺を呼び出した相手が彼だとして、わざわざ放課後にふたりきりでなんの用だ。

「俺を呼び出したのは、おまえか?」

 問いに返答はなく、無言で面を上げた桜庭の双眸に、俺は息を呑む。


 明確な敵意の炎が、そこには燃え滾っていた。


「な、おい……」

 わけを尋ねようとするが、あまりの困惑に言葉が紡げない。その間にも桜庭は不安定な足取りで距離を詰め、

憂木(ゆうき)、憂木、憂木……」

 虚ろな声音で、幾度も俺の名を呟いていた――

「……ッ!」

 背筋が凍る。

 本能的に危機を察した足が自然と後ずさるも、桜庭はそれよりも速く、まるで弾丸のごとく突進してきた。

 そして、容赦なく撃ち出される拳。

「な……っ⁉」

 体勢を崩してかわすが、次々に追撃が襲い来る。たたらを踏む俺の脇腹に、桜庭の爪先がめり込んだ。

「ごふ……」

 激しい衝撃に胃の内容物が喉元まで逆流する。それを飲み下しながら、俺は急展開を見せる現状を分析しようと脳の歯車を総動員させた。

 桜庭の暴挙の真意はなんなのか。こんな理不尽な暴力を被って然るべきのような悪事を働いた記憶など、俺にはない。

 しかし、桜庭が俺へ向けた刺すような憎悪は間違いなく本物だ。だから彼の攻撃には一切の加減がない。

「なんだってんだ、この野郎……」

 考えても理解不能だ。腹部を押さえて罵倒を零す。

 勝手に展開していく事態を把握できずいる俺の当惑した表情を見て、彼の両眼の火炎はその勢いを増した。

「とぼけるな! 圭子(けいこ)のこと、忘れたとは言わせねぇぞ!」

 頬への殴打とともに、奥歯を軋ませた桜庭の言葉が脳を揺らす。その“圭子”という名前に、俺は心当たりがあった。

「あいつは泣いてた……。口では“大丈夫だよ”なんて気丈に振る舞ってたが、その声は震えてた……。全部おまえのせいだろうが、憂木ぃ!」

 激痛に身体が沈む。その隙を桜庭は見逃さない。馬乗りになり、遮二無二俺の顔面を殴り続ける。一瞬、意識が遠くに吹き飛び、思考が真っ白に染まる。

 走馬灯のように脳裏を駆け抜けるのは、昨日の放課後の場面。

 ふたりきりの教室で、同級生の少女と向かい合う。彼女の頬は僅かに紅潮していた。彼女は九十度を優に越える角度でお辞儀をして「好きです! つきあってください!」と。俺は返事もなく、彼女に背中を向けた。囁くような小さな声が、かろうじて耳に届く。「そうだよね、急に言ったって、駄目に決まってるよね。ごめんなさい……」言葉は尻すぼみに弱々しくなり、最後はほとんど掠れていた――

「ふざけんなよ! 純粋な好意を斬り捨てた憂木も、平気な振りして笑ってた圭子も! 全然大丈夫じゃねぇよ、――だって、涙を流してるんだろうが!」

 一方的な暴虐。一方的な悪罵。

 それらを俺が甘んじて享受していたのは、しかしほんの刹那の間だけだった。

「なにかと思えば、くだらねぇ」

「ぐっ……」

 桜庭の手首を掴み、不条理な連撃に終止符を打つ。

「オラァ!」

 驚愕にまぶたを見開く桜庭の鼻面へと、俺の鉄拳が吸い込まれるように直撃した。

 これで、おあいこだ。

「告白してきたのは圭子の都合だろうが。結果がどうであれ、おまえが横から口を挟む理由なんざ、どこにもありはしない」

 不意打ちに上体を反らした桜庭へと逆に飛びかかり、全力で体当たりする。桜庭は背中から地面に衝突し、小さく呻いた。反撃の勢いは緩まない。今度は俺がマウントで拳を固めて殴りまくる。

「それに圭子が泣こうが喚こうが、知ったことじゃないんだよ。薄情? 関係ねぇな。あいつの想いを受け入れれば、俺は自分の女を裏切る羽目になっちまうんだからな!」

 そう、俺には既に恋人がいた。だから圭子の気持ちに答えるわけにはいかない。赤の他人が人知れず枕を濡らしても、激昂して暴力に訴えてきても……それでも、譲りきれないものがあるのだ。

 俺は腕を振り下ろし続ける。桜庭の戦意を粉々に打ち砕くまで、彼の憤怒の炎が消沈するまで、何度でも。

「――なおさら気に食わねぇよ!」

 しかし桜庭の瞳は、依然熱い輝きを失してはいなかった。彼の膝が俺の股間を打ち、たまらずのけ反る。

「好きにしろ! おまえの気分なんざどうだっていい、なにを言われようと、俺はカノジョ以上に他人を大事にするのはごめんだ!」

「その態度が気に食わねぇつってんだ‼」

 満身創痍の桜庭が、雄叫びを上げて回し蹴りを繰り出す。身を屈めて回避し、彼の軸足に頭突きを食らわす。しかし桜庭は怯まず、踵を俺の背中に叩きつけてきた。たまらず呻き声が漏れる。

 桜庭の口上は止まない。

「どうしておまえらがイチャつく代償に、圭子が泣かなくちゃいけないんだよ! 屁理屈こねやがって……正論ぶっても、一皮剥けばただの自己中野郎だろうが!」

 目尻に溜まった涙を振り撒き、トドメと言わんばかりに倒れ込む俺に肘鉄を落下させる桜庭。風を唸らす一撃が迫り来る中、しかし耳朶はその言葉を一分の隙もなく聞き取っていた。

 ――桜庭は、圭子が好きなのだ。

 問答の始終を聞いていれば、そして彼の意志を読み取れば、誰でも至る推測だ。でも、だったら――

 俺は身体を反転させ、交差させた両腕で彼の肘を、重い体躯を受け止め、叫ぶ。

「おまえが圭子を泣かせなければいいんだろ!」

 ふたり、地面を転げ回る。そもそも互いに喧嘩慣れするような性分ではない。小学生の取っ組み合いのように、髪を引っ張り、腹に拳を押しつけ、首を絞め、とにかく揉みくちゃになった。当人たちは真剣だが、第三者からすれば、さぞ滑稽極まりない光景だったのだろう。

 いつしか意固地になり血が上った頭の片隅に、しかし桜庭の言い分は正しいと、冷静に思う自分がいた――



 トマトのように赤く熟した夕陽が、大地に寝そべるふたりの傷だらけの全身を照らした。

 光を拒絶するように校舎の影に位置していたここにも、緩やかに角度を傾がせた太陽は、柔らかい熱を運ぶ。

 珍しい、冬の夕焼けだ。

「……なあ」

 しばし沈黙を守っていた桜庭が、消え入りそうな小声で呟いた。照れるように、申しわけなく思うように、顔を背けて。

 俺は茜空を眺めながら、無言で続きを促した。

「きっと、おまえの言う通りだったんだよ。俺は圭子に好かれてるおまえに嫉妬して、その癖度胸が足りないせいで圭子のためになにもしてやれなくて、そんな自分が嫌いで……」

 じわじわと滲むように緩やかに語られる自虐。

 それは、顔を合わせた瞬間からは想像もつかないほどに謙虚な言葉だった。

「だから八つ当たりしてただけなんだ。本当はすぐにでも、俺があいつの涙を拭ってやれればよかったのに――」

「そうじゃない」

 達観したように淡々と自身の未熟を嘆く彼の言葉を、俺はまっすぐに否定した。

 桜庭が俺と拳を――意志をぶつけあって、自らの過ちに気づいたのならば、それは俺も同じだ。

「桜庭、俺の方こそ逃げてたよ。――自分が圭子を泣かせちまったって事実から。ひと言謝れば済むはずが『俺は悪くない』って自分に言いわけをして、そのために桜庭や、自分のカノジョすらも利用したんだ。誰かを泣かせたなら、経緯なんて関係なく、謝らなきゃ筋が通らないはずなのにさ。だからおまえはなにも悪くない」

『譲りきれないものがある』なんてただの自分への卑怯な免罪符だ。犯した間違いを覆い隠したって、それは張りぼての自己暗示でしかない。いずれボロが出て、必ず後悔する。

 ちょうど、今このときのように。

 視線は中空を彷徨わせたまま。でないと、涙が零れ落ちてしまう。

「いや、違う……」

「悪いのは全部……」

 同時に声を発する。

「…………」

「…………くっ」

 つい、笑いが漏れてしまう。

「はははっ。キリがねぇよ、これじゃ」

「まったくだ」

 互いに『自分が悪い』の一点張りで、またも禅問答。実は桜庭とは気が合うのかもしれない。

 なんとなく顔を見合わせると、なぜか面白くなってしまい、たまらず俺たちは一心不乱に笑い続けた。

「――よし、じゃあ約束だ」

 先刻とは真逆の理由で目尻に涙を浮かべた桜庭が、指先で瞳の滴を払いながら口を開いた。彼の瞳はまた空を見ていた。

「約束?」

「俺は圭子を慰める。だから、おまえもしっかり謝れ」

「……ああ、任せろ」

 そうだ、誓おう。圭子の恋心に応えることはできない。だが、それで俺が逃避できる道理などないのだから。

 決意を固めて隣を見ると、視線が重なる。今度は声に出さず、俺たちは静かに笑った。

 俺たちは、わかりあえた。

 それぞれの信念を掲げて拳を交え、しかし最後には双方が納得できる道が開けたのだ。

 きっと圭子もすぐに失恋の悲壮感から立ち直れるだろう。だって、俺より何百倍も“いい男”がこんな近くにいるじゃないか。

 よかった。心の中で呟く。喧嘩の相手が桜庭でよかった。本音をぶつけ合ったのが桜庭で、よかった。

 満身創痍の肉体とは裏腹に、すこぶる清々しい気分で俺はまぶたを下ろす。

 ――もう少しの間、こうしていよう。

 霜柱の立った地面はまるで氷嚢のように、傷ついた四肢を癒してくれた。







 読んで頂きありがとうございます!

 タイトル「喧嘩ってのは」に続く言葉は、「こういうもんだ」です。

 喧嘩とは他人を傷つけ、そして傷つけられる行為です。だからこそ、拳にしろ罵倒にしろ、決して安売りしていいものではない――そんな思いを込めて執筆致しました。

『背骨のある意志』と『痛みを背負い、相手にも与える覚悟』。この二種類を兼ね備えて初めて、人は喧嘩に挑むべきなのではないでしょうか。


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