『新生世界(ホームレス・タウン)』
20XX年。
度重なる大規模な自然災害・いじめ拡大による若年層の自殺数増加・及び諸外国との交友関係の悪化により、一時は立て直したかと思われた景気が低迷の一途を辿る日本は、失業率がなんと10%を越えるまでになっていた。
そんな中、深刻化する諸問題の一つに、経済崩壊の煽りをまともに受けて事業に失敗し、家族さえ失って路頭に迷う根無し草――いわゆる『ホームレス』の急増があった。
今、日本の首都東京では、街を歩けば横断歩道を見つけるよりホームレスを見つける方が簡単だ、と嘯かれてさえいる。これでは、職場に向かう大人たちが「いずれは我が身か……」と自らの、あるいは日本の将来を憂いて意気消沈してしまうのも無理からぬことである。
そこで。
某月某日、与党は極秘裏に対策会議を設置、協議の結果、ある一人の政治家の出した突拍子もなく、一見合理的で、しかし実情は血も涙もない意見が、あっさりと満場一致で承認され、翌年には正式に法律として認定された。
その名称は、『ホームレス保護法』。
「――ハ、ッハ、ぎ、ひ――――」
ネオンサインの点滅する夜の街を、中年の男は走っていた。
冷たく無機質な裏道を、使い込まれたスーツを脱ぎ捨てながら、何かに急かされるようにただ、必死に。血走った瞳は、焦点の合わぬ目つきで何を探すでもなく右往左往している。
頭上に広がるは、蒼黒の絨毯と真円の満月。下々の苦労など知らぬ、とばかりに燦然と輝く満月は、どこか酷薄でさえあった。
「くそっ……なんで、こんなっ………!」
酸素が足りず、白熱していく脳裏で、中年の男は舌打ちする。
思えば――自分の人生に、いいコトなど、数えるほどしかなかった。
生まれは平凡な家庭。裕福でもなく、かと言って貧乏でもない、一般的な生活水準には達している家だった。
家族は四人。両親、そして一つ上の姉がいた。両親は当時においては珍しいくらいに仲がよく、何かにつけて自分が女であることを主張する姉は少々苦手だったが、別に嫌いという訳でもなく、まぁ姉弟としては妥当な距離を保って接していたと思う。
転機が訪れたのは、平均少し下の高校・大学を経て、不況に辛酸を舐めさせられながらもようやく生活が安定してきた二十四歳の春。
母が、「姉が結婚する」、と電話で言ってきた時は、思わず自分の耳を疑った。あの色気もクソもない姉が。聞けば、相手は某大企業の社長だとか。あの姉に他人に媚びを売るような器用さがある筈もなく、本当に両者が愛し合っているのか、さもなくば――
――そんなことを、遠い世界の出来事のようにぼんやりと考えていた。
そもそも、二十歳を過ぎてからはロクな交流もなかったのだ。盆休みに帰省した折に鉢合わせすることは何度かあったが、この不況時に何日も有給休暇が取れる訳では勿論ないので、二言三言儀式めいた定型句を交わして終わっていた。
だから、彼女が結婚した、と聞いても、自分の中に湧いてきた感慨はそれほどでもなかったのだ。ただ、もう戻れない若かりし日々を思い出して、今の自分はなんて薄汚れてしまったのだろう、と自嘲したことだけを覚えている。
同年、夏。職場恋愛の末、麻子と婚約、翌年を待たずに結婚した。いわゆる出来ちゃった結婚というヤツで、結婚式場で「なんか恥ずかしいね」、と少し膨らんできたお腹を愛しげに撫でていた妻の穏やかな笑顔を覚えている。それから三年が、人生において、一番幸せな時期だったように思う。それから――少しずつ、人生が狂い始めた。
二歳になった息子の孝太は二語文を話せるようになり、やや好き嫌いが多いのが気に掛かったが、「あなたの息子だもんね」と妻に笑われ、まぁ仕方ないか、と苦笑するに留めた。
だが、破綻し始めていたのは子供ではなく、大人の方だった。
相変わらずなんの肩書きもない平社員の私は、ボーナスは減っていくわ反比例するように残業は増えるわで、家庭に心を配る時間と余裕が少しずつ削がれいく。片道一時間、鮨詰めになって帰宅した頃には体を重ねる気力などすっかり残っておらず、倒れこむように眠りについた。妻は妻で結婚と同時に専業主婦になり、初めこそ「毎日がお休みだね」と嘯いていたものの、子供が生まれてからは、丸みを帯びていた肌は年を重ねる毎にやつれ、口調も次第に刺々しいものになっていた。
だから、だろうか。
ある日――入社してきた、一人の女性に心を奪われたのは。
早苗という名の五つ下の女性は、いかにも今時の若者らしい性格で、上司に物怖じもせず、何事も失敗を恐れずに積極的に行動していた。かと言って全く礼儀知らずという訳でもなく、最低限の節度を踏み外すことはない、という絶妙なバランスを保っていた。そこに――在りし日の姉を重ねた自分を愚かだと、人は笑うだろうか。そう考えて、自分は年を取ったのだな、と苦々しげに見上げた薄く広がる灰色の雲は、先の見えぬ不安を現す、あるいは結果の見えている未来を隠す鏡のようだった。
私と、その早苗という女性が深い関係になるのに、そう長い時間は必要としなかった。どうやら相手も今の生活に漠然とした不安を抱えていたらしく、結果的に相手の隙に付け込む形になっていたが、それほど気にならなかった。
だが――よくよく考えてみれば、あれだけ嘘をつけぬ姉の弟である私に、そんな器用なことが出来る筈もなかったのだ。
発覚は結婚五年目の一ヶ月前。むしろ丸々一年間バレなかったことの方が驚きだが、とにかく、その時既に精神的安定を失っていた妻は、離婚の際に私に多額の慰謝料を請求してきた。一方的に責任のある私に拒否権などある筈もなく――いや、確かに議論の余地はあっただろう。それでも、麻子との最後の会話を、金の大小などという醜いもので飾りたくなかった、というのは我ながら本当に子供じみた感情だったが、結果として私は彼女の案を全面的に了承した。
それから今に至るまで、自分が何をし、何を見、何を考えて生きてきたのか、ほとんど覚えていない。機械的な日常を繰り返し、奇怪的な非日常を笑い、視界に映るものは全てが他人で、期待したものには全て裏切られて。これまでと大して変わらぬ十数年間は、しかし本当に自分が歩んできた道なのか、と首を傾げるほど緩慢にして曖昧だった。
気づけば早苗は他の同世代の男に心変わりし、会社は不況の煽りを受けてあっけなく倒産し(姉の夫の会社も倒産したらしく、嗚咽交じりの泣き言を聞かされたが、心身共に疲弊し切っていた私は最早何も感じなかった)、家も失って路上生活。まさに絵に描いたような転落ぶりで、自分がこれまでどれだけ平和な日常を送っていたのか、とその時になって初めて理解した。
そんな時。あの法律が、施行された。
『ホームレス保護法』。
「――ッ、ハァ、ク、ハ――――」
全力疾走など、何年ぶりのことか。中学・高校と陸上部だった時の記憶を呼び起こし走ってみたものの、体の衰えは明らかで、一キロと経たぬ内に、心臓が口から吐き出せそうなほど息苦しかった。
……『ホームレス保護法』は、要約すると、路頭に迷う彼らを一箇所、過疎に悩む農地に集中させ、その中で独自の社会を形成させることによって再出発を促す、というものだった。一見するとなんら問題のない、むしろ効果が期待出来そうな法令だったが、しかし、一つだけ落とし穴があった。
つまり。――独立した社会であるその場所では、日本の法律が適応されなかったのだ。
建前は、今の日本と同じような末路を辿らせぬため。しかしその実、政府の本音は、いたずらに増加するだけで害のみしか生み出さないホームレスの『間引き』に他ならなかった。
やがて、ホームレスはつつがなく一箇所に集められ、独自の社会を形成し始めた。親族に見捨てられた元大企業の重役の老人達・才覚がありながら不運にも家を失った若い事業家達が中心となり、経済を手際よく構成していく。事実、傍目には全ては上手く行っているように見えただろう。一度挫折を経験した彼らの熱意は目を見張るものがあり、その熱気たるや、戦後復興時の日本を思わせるに相応しいものだった。
通称、『新生世界』。
が。『新生社会』にもやはり、格差というものは頑として存在した。
貧富の差。階級の差。身分の差。差。差、差、差。皆生まれた時は平等に裸で生まれてきたというのに、まるでそれが人間の宿命であるとでもいうように、差は全てを支配し、位の高き者はより富を得て、位の低い者はより貧しくなっていく。それは、一度視てきた世界の見事な再現だった。
下級層が住む町は廃退した。景気悪化に伴い、最低一千万は掛かると言われる子供の養育費を払い切れぬ家庭が爆発的に増加し、次々と『新生社会』に送り込まれる子供達。彼らが徒党を組んで暴力的行為によって己の存在を示そうとするのに、そう時間は掛からなかった。
そして。男は、路地裏の行き止まりに突き当たっていた。
不法に投棄された生ゴミやら動物の死骸やらがそこら中にばら撒かれており、呼吸をする度に吐き気が催すほどの腐乱臭が鼻の中を容赦なく掻き回す。
成る程――確かに、自分が生涯を終えるのに相応しい場所だ、と皮肉でなくそう思った。
何一つ成し遂げず、何一つ守れなかった自分には。こんな、腐敗した国の腐敗した連中を集めた腐敗した世界の中でもとびきり腐敗した路地裏こそが。
そう考えた時――彼の中に渦巻いてきた激情が、何やら憑き物が落ちたように、すうっ、と引いていった。
やがて、一つの足音が聞こえた。半ば諦観、半ば期待を込めて見やると、十代後半ほどに見える少年が、その容姿にそぐわぬナイフやらスタンガンを持って、血走ったというより悲壮な面持ちで慎重に近づいてくる。
「……なぁ。一つ、頼みがあるんだが」
男は、ひどく穏やかな声で話しかけた。
「……なんだ? 命乞いなら聞かないぞ」
少年は、無愛想に言葉を返す。それは、殺す相手に情を移さぬようにするための、彼なりの自己防衛の手段だった。
「うん。……せめて、長生きして、幸せになってくれ」
私の分まで、とは流石に言えなかった。もう苦しまずに済む、という反則めいた諦観からこぼれる言葉など、この少年が気にする必要もないのだが、そこまで言うのは躊躇われた。
それに。
未練を残さず死んでしまうというのも――今まで踏み付けてきた全てのもの達に対して、申し訳ない。
「な――――」
果たして、少年は愕然として足を止めた。
無理もない。これから殺そうとする相手に、恨み言を言われこそすれ、希望を託されるなどという経験は皆無だった。
しかも運の悪いことに。少年の驚きは、それだけでは済まなかった。
「あんた……麻子って女を、知ってるか?」
会話をすればするほど、決意に躊躇いが生じるのを覚悟の上で。
少年は、尋ねた。
「え――」
それまで雲に覆われていた月が、ここぞとばかりに少年のシルエットを鮮明なものにしていく。それは――――昔どこかで見た、懐かしい景色だった。
「君は……孝太、なのか?」
途端、少年が息を呑む声が聞こえた。これ以上なく明瞭な、回答だった。
「……そうか。なら、尚更悔いはないな」
独り言のように、男は呟く。
「……どうして」
まだ動揺の残るまま、少年は平静を装って尋ねる。思えば、これが親子として初めての、そして最期のまともな会話だった。
「私の人生には、嬉しいコトなんて数えるくらいしかなかったけどな」
――最期にこうして、立派に成長した息子の顔を見れたのだから、と。
一点の翳りもなく、男は告げた。
「………バカだよ、あんた」
少年には、その言葉が理解出来なかった。
育児に疲れていた母親を捨て、幼かった自分を捨て、他の女に走った卑劣な男。ずっと、そう思ってきた。母親が事故で亡くなり、『新生世界』に移されてからも、恨まない日などなかった。
その相手が、目の前にいるというのに。
なんだって、こんなにも、取り留めない、言い表せない感情が溢れてるんだ――――
「……っ」
血が滲むほど、唇を噛み締めた。
これ以上躊躇うと、もう本当に進めなくなる。
生きるために。これからの生活を繋げていくために、この男を殺さなくてはいけない。この世界とはそういうものなのだ――そう言い聞かせて、しかし目を合わせず、ナイフを男の心臓に向け、駆け出す。
男は抵抗するそぶりも見せず、ただその場に立ち尽くし。
「大きくなったな、孝太」
そう言って、ゆらりと崩れ落ちた。
……意識が薄れていく。
見上げると、頭上には大きな月。その燦然とした輝きが、初めて自分を見て、祝福を与えてくれているような気がした。
耳元では僅かな嗚咽。頬に流れてくる涙のぬくもりを感じながら――男の意識は、緩やかに薄れていった。
なんだか一気に書き上げてしまった作品。
当初の予定だと、もう少しライトにする筈が……でも、これはこれで良かったと思ったり思わなかったり。(どっちだ