窓際の猫
僕は猫だった。
そりゃもうハンサムな三毛猫で、人間だけじゃなくて猫にだってとてもモテモテだった。僕に見合う綺麗な猫と子供を三匹作って、まぁ幸せに暮らしてた。飼い主さんも優しい人で、飢えることも寒さに凍えることもなかった。
でも、所詮猫の寿命なんて短いもんさ。十年ぐらいで僕は死んでしまった。飼い主さんは泣いて悲しんでくれたけど、どうせすぐに忘れるだろう。
そしてまぁ、輪廻転生っていうんだっけ?死んだあと、僕は生まれ変わったわけだけれど、悲しいかな人間に生まれてしまったよ。残念なことに前世の記憶を引きずって。
しょうがないと思いながら生きてきて24年。安いマンションで一人暮らし。人間に生まれてからは全然モテなくなった僕は、彼女なんてできないさ。むしろ、あまり寄せ付けようとしなかったのは僕のほうだし。
先日、隣の一軒家に老人夫婦が引っ越してきた。世界って狭いんだな、昔の飼い主さんのお子さんだったんだよ。僕が死んでしまったときはまだ小さい子供だったのに、もうこんなに年をとって、優しそうな人と結婚できたみたいで。時が経つのは早いもんだ。
それで、その老人夫婦は綺麗な白い猫を飼っていたんだ。僕の部屋の窓から見える、隣の家の窓際で、いつも日向ぼっこをしている。昔、僕と一緒にいた猫に良く似ていた。
バイトの帰り道、暗い中を一人でとぼとぼ歩いていたら、塀の上を歩いていたその子とすれ違った。息が止まった。―――一目ぼれだった。
今日の天気は晴れ。あの一目ぼれから2年ほど経ったけれど、いまだに老人夫婦とは顔を合わせたことがない。窓から見る窓際の猫は、今日も丸くなって日向ぼっこをしていた。僕といえは某株式会社に就職が決まり、いつもいつも忙しく毎日を過ごしている。通勤途中で野良猫の集まりや飼い猫が自由に歩き回っているのを見ていると、本気であのころに戻りたいと思うことが何度もあった。けれど、人間だってまぁ、悪くはないかな・・・。
今でもあの子には片思い中だ。
今日は仕事も速く仕上がって、空が明るいうちに家に帰れそうだ。人の少ない電車に乗って、駅からは歩いて家に向かった。上機嫌に鼻歌なんか歌って。途中、小学生くらいの子供が3,4人なにかおもちゃを持って集まっているのを見かけたが、気にせずに歩いていた。
しかし、それを通り過ぎたときに、小さく「にゃぁ」猫の鳴き声が聞こえたときには驚いて振り向いた。走って戻ってくる僕に気付いて、子供たちは散り散りになって逃げていく。そこには、さっきの子供たちに苛められたであろう綺麗な白猫が丸まっているだけだった。
あの子だ。
「大丈夫か?」
優しく抱き上げて、子供たちの去った方向を見る。けれど、もう姿はなかった。いまさら追いかけてもしかたがないし、この子を早く飼い主の元に届けなくては。優しく撫でてやると、弱々しく「にゃぁ」と鳴いた。
「早く気付けなくてごめんな」
さっきの子供たちに対する怒りよりも、今この子をこの手で抱いていることに緊張して手が震えていた。でも、僕は人間であり、この子は猫だ。悲しいけれど、これが運命ってやつだね。
隣の家のチャイムを鳴らすときは、さらに緊張した。なんていったって、昔の飼い主の娘さんだからね。今家にいるかも分からないし。
しばらくして「はーい」と優しげな声が聞こえ、ドアがガチャっと開けられた。老婦は僕の顔を見て「あら」と驚き、傷ついたこの子をみて「まあ」とさらに驚いた。
「あちらの道で見つけて・・・。怪我をしていたようなので」
あえて、子供に苛められていたとは言わなかった。彼女が傷つきそうだったので。
「どうぞ、あがってください」
礼を言ってあの子を引き取ると、老婦は僕にそう言った。「そんな邪魔になりますから」と断ろうとしたら、「いえいえ、ちゃんとお礼をしなくちゃ。マリリンの分もね」と言われてしまった。
そうか、この子はマリリンって言うのか。可愛い名前だな。
「おじゃまします」
温かみのある、綺麗で可愛らしい家だった。リビングでソファーに座って待たされていると、マリリンは隣にやってきて、丸くなった。
ドキドキしながら背中を撫でていると、「お待たせしました」と老婦がティーポットとティーカップを持ってやって来た。緊張して「はいいい!!」とか叫んでしまって、笑われてしまった。
ふと顔を上げて、老婦は僕の顔をじーっと見てきた。ドキドキしながら紅茶を飲む。
「あなた・・・。どこかでお会いしたかしら?」
ぶふぉっと紅茶を吹いた。勢いよく噴出さなかったおかげで周りを汚さずにすんだが、心臓が今までにないほどドクンドクンと音をたてていた。
まさか、ね。あのときはまだ小さかったし、それに、猫だったし。
「ああ、そういえば、近所の方でしたね。お隣のマンションの」
「あ、はい。そうです」
どうやら近所で見かけたことがあったらしい。平常心を取り戻しつつ、残りの紅茶を飲み干した。そのときマリリンと目が合い、向こうはパッと目を逸らしてしまった。その動作がなんだか人間らしくて、自然と笑みが零れてくる。
「マリリンちゃん、ていうんですか?」
「そうなの。息子が猫が好きで・・・」
そこからは長かった。お子さんの小さいころの話、大人になって、どこの会社に勤めているのか。マリリンの母親、マリリンが仔猫だったころの話など、いろいろ話してくれた。どれも、退屈な話だったけれど、マリリンのときだけは、少し真剣に聞いていた。
マリリンの話が続いてる。僕は思い切って聞いてみた。
「マリリンは、もう何歳くらいになるんですか?」
すると老婦は少し悲しそうな顔をして、
「12歳くらいかしら・・・。私もこの子もおんなじくらいお婆ちゃんになったわね」
優しくマリリンの頭を撫でていた。
猫はだいたい10年くらいしか生きない。もうマリリンはそんな年だったのか。家でシャワーを浴びながら考えていると、よけいにマリリンを苛めていたあの子供たちに腹が立ってきた。風呂から出ていつもマリリンを眺めていた窓の傍に立つ。
もう辺りは真っ暗で、お隣さんはカーテンが閉まっていた。そりゃそうだな。そう思って窓から離れようとしたとき、向こうで何かがカーテンを持ち上げていた。
マリリンだった。カーテンを小さな頭で持ち上げて、窓との間に顔を覗かせる。そしてスッと見上げた。その方向はまるで、
「僕のことを見てるみたいじゃないか」
声に出して言ったあと、おかしくて笑った。自信過剰もいいとこだ。だいたいマリリンは猫、僕は人間。猫はどうしたって猫であって、人間はいつまでも人間だ。
じゃあ、猫の記憶を持った僕は、いったいなんなんだろう・・・。
それからというもの、毎日毎日僕はマリリンのことだけを考えていた。マリリンの今までのこと、そして、これからの残された時間。それは僕にはどうすることもできない、どうしようもない事なんだ。所詮猫は人間の十分の一ぐらいしか生きられない。分かっていても、悲しい。マリリンにはもう、あまり時間が残っていない。
そんななか、僕は一つ決めたことがあった。
「こんにちは」
仕事の休みの日、早く終わった日、とりあえず、時間があるときはなるべくマリリンに会いに行くことにした。今まで会っていなかった時間を帳消しにできるわけではないが、少しでもマリリンのそばにいたかった。
「いつもありがとうね」
ちょっとした手土産を持っていけば、すぐに老人夫婦とも仲良くなった。そんなことを続けているうちに、もう3年も時が経っていた。
マリリンも、15歳だ。
「こんにちは」
いつものように茶菓子や果物などを渡せば、老婦は笑って僕を家の中に入れてくれた。マリリンのことばかり考えている僕だけれど、もしも老夫婦の迷惑になっているようならとても心苦しい。そのことを伝えてみると、
「迷惑だなんて、思っていませんよ。まるで息子が帰ってきたようで、二人して喜んでいます。」
そう言ってもらったのは、とても嬉しかった。
「マリリン」
マリリンはソファーの上で丸くなっていた。呼びかけると、だるそうに顔をこっちに向けてくる。
「マリリン、元気がないですね・・・」
「そうね・・・。前はあなたが呼んであげると、すぐに寄り添っていったのに」
前のマリリンは名前を呼ぶとすぐに寄って来て、頭を足にこすり付けたりして甘えてきたのに。最近は起き上がるのも大変そうだ。
「もう、年だものね・・・」
老婦が呟いた言葉に、胸が締め付けたれた。マリリンはもう15歳だ。猫にしては十分すぎるほど生きた。限界がきてるんだ。
その日の帰り道は重い足取りだった。マリリンが死んでしまう。なのに自分はなんの思いも告げられない。告げたところでなんになる?猫だから、にゃあとしか話せない。
「ああもう!!」
家に帰ると叫んだ。猫に生まれていたときは人間に恋なんてしたこと無かった。なんで人間に生まれた僕は、猫なんかを好きになったんだろう。前世の記憶なんて無ければ、猫のときの思い出なんてなかったら、僕はちゃんとした人間になれていたのに。思いを誰にも伝えることのできない、こんな苦しい恋なんて、しなくてすんだのに・・・・・・。
その夜は、よく眠れなかった。眠ろうと目を瞑るとマリリンのことが浮かび、ようやく寝れたと思ったら、昔の猫だったころの夢で起こされる。今の僕にとっては、悪夢のようだった。そうしてまたマリリンを思い出し、人間に生まれ変わらせた神様を恨んだ。
結局目覚めは最悪。今日は会社も休みなので、朝からマリリンを訪ねに行くことにした。お土産に老人夫婦が好きなケーキを買っていき、自分が猫のころ好きであった魚の缶詰を一個買ってマリリンの家に行った。
「こんにちはー」
でてきた老婦に笑顔で言うと、彼女が真っ先にこう言った。
「マリリンがいないの」
ケーキの箱を落とすところだった。一瞬何も考えられなくなったが、すぐに気を取り直して老婦にケーキと缶詰を渡し、「マリリンを探してきます」と言ってすぐに出て行ってしまった。
どこに行ったかなんて全然分からなかったが、少し思い当たる場所があった。
まぁ、猫の勘ってやつさ。
やっぱりマリリンはそこにいた。滅多に人は通らない、木々の茂った暗い森。そこの一本の木の根元で、マリリンは丸くなっていた。
「マリリン!おばあさんが心配してるよ。早く家に帰ろう」
けれど、一目見ればもうマリリンは動ける体じゃないことはわかった。きっと僕がマリリンを連れてどんなに早く走っても、きっと着いたころには死んでしまっている。
今は、丁度人がいない。それに、滅多に人が来ない場所だ。
マリリンはもう、死んでしまいそうで。
「マリリン。聞いてほしいことがあるんだ」
今しかないと思った。これがきっと最初で最後のチャンスだ。
「きっと他の人が聞いたら、僕は変人に思われるかもしれないけれど、どうしても、君に伝えたくて・・・」
緊張する、おかしいことは分かっているさ。でも、マリリンは猫、僕はやっぱり、猫なんだ。
「君が好きだ。一目見たときから、君のことが好きだった。僕はおかしな人間かもしれないけれど、猫の心を持った人間なんだ」
思い切り大きな声で言ったつもりだったが、口から出た言葉は弱々しかった。
突然突風が吹いてきて、落ち葉や砂を撒き散らした。僕は慌てて目を覆った。
すると―――
「ありがとう」
目の前にはとても綺麗な女の人が立っていた。僕はそれを、まるで小さな猫になったかのように下から見上げていた。その子は僕に目線を合わせるように少しかがんで、僕の頭を優しく撫でた。
「ありがとう、優しい人。私もあなたが好きでした。初めて見たときから好きでした。私は人間の心を持った猫です。最後に、あなたに会えてよかった」
気付いたらもうお昼になっていた。マリリンに触れるとすでに冷たくなっていた。僕はマリリンを抱えて涙を堪えながら走った。さっきのが夢か幻か、はたまた真実か。僕にはそんなことは考えられなかった。
ドアを開けた老婦は僕の顔を見ると、寂しげに微笑んだ。
「見つけたときには、もう死んでしまってました。すみません。もっと早く見つけていれば・・・」
老婦はマリリンを受け取ると、小さな声で「ありがとう」と言って、静かにドアを閉めた。僕はすぐに家に帰った。涙が止まらなかった。
その日はすぐに寝てしまった。そして、また猫のころの夢を見た。僕は一人ぼっちで道を歩いていると、そのすぐ先に、マリリンがいた。
「マリリン!」
猫の言葉なのか人間の言葉なのか、よくわからないけれどそう叫んでマリリンのもとへ走った。すると、どんどん僕は四足歩行から二足歩行に変わり、人間になっていった。
なんだ。夢の中でも、僕は人間の皮を被った猫なのか。
すると、さっきまで背を向けていたマリリンがゆっくりと振り返る。そして、僕のほうを向いたときにはさっきの女の人の姿になっていた。
「マリリン・・・」
驚いて足を止めると、マリリンはゆっくりと僕のほうに近づいてきた。そっと僕の手を握ると、
「これで、やっとあなたと話ができる・・・」
優しい目で僕を見上げてきた。僕も、強く握り返す。
一晩では語りつくせないほど、いろいろな話をした。猫だったときのこと、人間になったときのこと。君を思い続けた何年間・・・。マリリンは全てを聞いて、そして語ってくれた。
これはきっとマリリンとの最後の日なんだ。神様が僕たちに与えてくれたんだ。
このときばかりは、僕も神様に心の底から感謝した。