疾走
袖の細い胴着に襷がけした清介は、出発の合図を今か今かと待っていた。
(駄目だ…。みな、俺より速い気がして落ち着かん…)
地下足袋に法被姿の者、袴を帯紐にはさみ、素足でいる者…。さまざまな若い衆が河原に集まる中、清介はキョロキョロとしながら、落ち着かずに手足をブラブラさせてみせていた。
どうも、回りの者が自分よりもずっと速く走るように思えてならない。そもそも、これに参加することを決めてからも、特にこれに向けての鍛錬を積んだわけではない。
だからこそ、自信がもてず落ち着かないのだ。
(こんなことなら、もう少しきちんと準備をするんだった…)
いまさらになって怖気づく自分自身に気づき、パンと清介は己の頬を叩いた。
(いかん…俺は走り終わって、道場で織りさんの飯を食うんだ!)
清介は己を奮い立たせた。
しばらくすると、あれほど騒がしかったあたりが、徐々に静寂に包まれ始める。
亀のように首を伸ばして回りの目線の先へと目をやる。あまり上背のある方ではない清介には見えなかったのだが、どうやら出発の合図を出す大店の主人がおごそかに現れたようである。
「おやぁ。そろそろ始まるようですねぇ」
「うむ」
土手で数馬の店のうどんを立ち食いしていた水村は、河原の方へと目をやった。同じようにそばを頬張る松太朗もそちらに目をやって頷いた。
「こりゃぁ、こんだけいたら自分ンとこの町のモンなんか、見わけもつかねぇぜ」
頬をポリポリと掻きながら数馬は苦笑交じりに言う。
その言葉に、水村も苦笑するしかない。
確かに、これでは清介を見つけることなどできるだろうか…。
「まぁ、清介が一番最初か一番最後を走ってくれれば見つけやすいのですがねぇ…」
などと、清介に言った言葉を繰り返した。
「……」
隣では横目に河原を見つめながら松太朗が呑気に器に残ったそばつゆまでズルズルっと飲み干していた。
「では…皆の者、いくぞ!よーーーーい」
出発を任されている大店の主人は、先端に真っ赤な布を取り付けた竹刀を大きく振りかざす。そして
「出陣―――――!!!!」
戦場での武将よろしく、声と同時に竹刀を振り下ろした。
それを合図に、一斉に河原の男たちが我先にと野太い声を上げながら駈け出す。
「わっ!わ、わ、わ!」
清介はその流れに半ば押されるようにして出発する。走り出したものの、後ろから走ってくる人々に押されながらよろめきながらの走りとなり、あっという間に後方へとやられてしまう。
「い…いかん…!」
慌てて前方を行く人々の背を追う。
(こ…こんなみっともない姿、見られたくない…!)
道場の門下生に、水村に、そして、織りと松太朗に…。
清介は袴をたくし上げると、力強く踏み込み走り始めた。
「ん?あれは…」
ちゅるっとうどんを吸い上げた水村は、どんぶりを持ったまま河原の方を見て細い目を見開いて見せた。
「うむ…どうやら清介殿、出遅れたらしいな…」
懐に腕を突っ込み、片方の手は楊枝をもって歯につまったネギを取っている松太朗がいたく冷静に清介の姿を見つけ感情のこもらない声で言った。
「はははぁ。こりゃぁ清介、分かりやすい!」
再び目を細めた水村は、ニコニコと言う。
「さぁ、じゃあ先回りをして励ましましょうかね」
ふどんのどんぶりと勘定を置いて、言う水村に先に勘定を済ませていた松太朗が続く。
「じゃあな。松太朗」
数馬が二人の背に向けて声をかける。
参加者が走り去った河原は、しばしの静かな時間が戻った。まだ冷たい風にのって、遠くから地響きとともに、黄色い歓声が聞こえてきていた。
「あら、もう走ってこられるみたいですね」
汁物の味見をしていた茜が、遠くから聞こえる歓声に気づき、厨房から顔を出し外の様子をうかがう。
すると、道場の入口には、すでに応援と思われる若い女たちが色めきだって陣取っていた。
「織りさま、わたくしたちも外に出てみましょうか」
炊き上がった白米を、不恰好なおにぎりに握っていた織りが、額に汗を浮かべて茜の方を見る。
「そ…そうね。でも、清介さん、そんなにすぐ走ってくるかしら」
どうも、清介には水村のような俊敏さを感じない。きっと手合わせをしたら自分の方が勝つに決まっている。
織りは眉をピクリと上げると、そんなことを考えながら少し冷やかすような笑みを浮かべて言った。
それを見た茜が、眉を顰めた。
「んまぁ、なんてイジワルなお顔をなさるのかしら!」
「むぅぅ」
織りは、忠義者の女中の非難がましい言葉に、低く唸った。