雑念
大会の日は冷え込んだ分、晴天だった。
競技に参加するものは、河原の広場に集められており、誰がどの町内から出ているのかは、襷の色で区別してある。
「これは…初めての試みなのに、ずいぶんと人が集まりましたねぇ」
「こんなにこの界隈には人がおったのですねぇ」
人ごみに埋もれるようにいるのは、嬉々として目を輝かせる水村と、不安げに眉を下げる清介である。二人は道場からここまで出てきたのだが、ほかの道場の生徒たちが見当たらず、辺りをきょろきょろと見回していたのだ。そして、この人の多さにいつもは冷静の水村も、どこか少年のようにわくわくしていた。
ちなみに、水村の道場は八町内で緑色の襷が配布された。
清介が参加する長距離を走る競技は、この場から土手まで上がり参加する町内の通りを走り、河原に帰ってくることになっている。
「まぁ、清介。思いっきり走ってきなさい。途中でご町内の皆様も応援しておられるからね」
懐に襷をしまいながら緊張からか、そわそわと落ち着かない清介に、水村は楽しげな笑顔を向けて言った。
「はぁ…。それを思うと、今朝も胃が痛くなりました…」
そんなことを言いながら、実際に清介はきゅっと胃が締め付けられるように痛むのを感じた。
「はっはっは~。なぁに、これだけの人がいるのですから、私ですらお前が走っている姿を見つけられるか分からないよ。だから、分かるように、最初か、最後を走っておいで」
「なんちゅぅことを言うのですか…」
軽やかな笑い声を上げながら、水村が冗談なのか本気なのか分からないことを言うのに、清介は呆れたように返す。
その時だった。
「水村様ぁ!おはようございます~!」
「おや…」
声がする方を見れば、土手の上から織りが自分たちを見つけて手を振っている。それを織りの横にいた茜が「はしたない!」ととがめ、反対隣りからは松太朗が「場をわきまえないか…」とたしなめる。
「おっ…織りさん!?」
最近の不調の原因、織りを見つけた清介は、一気に心臓が飛び跳ねるように踊りだしたのを自覚する。まだ走っていないというのに、もはや走り終えた後のごとく、心拍が上がり、息切れまでする。
「も…もう、茜殿も来られたのか!?」
茜に密かに仄かな恋心を抱いている水村も、織りの隣に茜の姿を見つけ、年甲斐もなく心臓が飛び跳ねたのを感じた。そんな二人にかまわず、織りたちは人ごみをかき分けながらやってくる。
この人ごみの中でも、松太朗は頭一つ分飛び出しているのでどこにいるのか分かった。そして、松太朗の姿を見た参加者たちは、歓声や熱い溜息を洩らし、老若男女問わずに彼の姿を目で追った。何人かは、有難いものを見た、目の保養だとばかりに松太朗を拝んでいる。
そうこうしている内に、水村のもとに来た織りは、目を爛々と輝かせている。
「水村さま!見学に参りましたわ。もし、人手が必要とあらば、道場の生徒として、わたくしが助っ人致しますゆえ、いつでも仰ってくださいませね!」
キュッとこぶしを握り、水村を見つめて言う織りの首根っこを松太朗がつかみ、自分の後ろに下がらせる。
「助太刀もご遠慮願うぞ」
「そうですよ、奥方様は、わたくしと一緒に水村様の道場で炊き出しの準備をせねばならないのですから、そんな暇はございません!」
外出先であるため、珍しく「奥方様」などと織りを呼んだ茜は、いつも通り自分の主人にぴしゃりと言いつける。すると、水村は細い目を心なしかキリリと開き、茜たちに便乗するように織りに言う。
「左様!貴女は奥方らしく道場で炊き出しの準備をしていなさい」
大人たちに叱られた織りは、面白くないとプッと膨れて見せる。
その一部始終を清介は黙って見ていた。
正月以来、久しぶりに織りに会うので気恥ずかしい。ましてやあの日、自分は胸の秘めたる思いを織りに伝えたようなものである。もちろん、それに織りが気づいているかどうかは分からない。しかし、あの日はあの後普通を装うのに精一杯で、織りがどんな様子でいたか、松太朗がどうしていたのか覚えていないのだ。
だから、今日も務めて普通を装う。
「織りさんは怒られてばかりおるなぁ。昔から、織りさんはいつも誰かに怒られている」
いつも通り、憎まれ口をたたいてみた。
そして、チラリと織りを見る。
織りは、一瞬きょとんとしたようだった。そして、織り自身はチラリと松太朗を伺うように一瞬見上げ、松太朗が特別表情を変えていないことを確認すると、ほっとしたように表情を緩めた。
そして、松太朗の後ろから、清介に向ってベッと舌を出す。
「相変らずの減らず口ですわっ。いつまで、そんな生意気な口が利けますかしらね」
織りも、いつもと変わらず清介に憎まれ口をたたいた。
織りも清介も、お互いがそうやって普通にできることに安心した。
松太朗は、自分の後ろにいる織りを振り返る。
「織り、お前は茜と一緒に水村殿の道場に行って来い。そして、しっかりとお勤めを果たすのだぞ」
互いに憎まれ口を叩きあう清介と織りが何となく面白くない。
いつかのように、男女の微妙な空気を纏っているわけでも、イロコイにかかわるような会話をしているわけでも、親密な距離にいるわけでもない。間には自分もいるのだ。
(嫉妬しているのだろうか…)
そんな思いを自覚しながら、松太朗は夫らしく織りに言いつけた。
それが、織りにとっての自分の存在を誇示するやり方として一番いいように思ったのだ。
(あら、珍しいこと…)
松太朗の思いに気づいたらしい茜が織りの手を引いた。
「さ、松太朗の奥方として、そして水村様の弟子として恥ずかしくない炊き出しをいたしますよ」
「あ…茜殿、宜しく頼みますね!」
浮かれたように言う水村の横では、清介が安堵の表情を一変させどこか悲し気にうつむいた。
「水村様、わたくしが!しっかり準備いたしますわ」
織りが、元気に言いながら、茜に手を引かれ戻っていく。
それをぼんやりと見ていた、清介に、
「あ、清介さん!みっともない走りはなさってはダメですよ!清介さんの恥は、わたくしたち門下生の恥、ですからね」
織りがニッと笑いながら声をかけた。
清介は目をぱちくりさせる。
「清介の恥は、道場の恥だからねぇ。それは、お前と同じように弟子である織り殿の恥でもあるのだよ」
清介の肩にポンと手を置いた水村がニッコリと笑った。それが、すごく、心地よく感じた。