立春
立春からもうずいぶん経つというのに、空気はキンと研ぎ澄まされている。道場の掃除をすると、指はかじかむし、足の裏は床の冷たさで痛くすら感じる。しかし、庭に目をやると、柊南天が鮮やかに咲いているのだから、思わず頬がゆるんでしまう。
別に普段から花を愛でるわけではないのだが、寒い中に凛と立つ姿はある女性を思い出した。女性といっても、彼女はまだ自分と年が変わらないはずだから、今年18になるはずだ。容姿だけを見れば、まだまだ娘のようにしている。だが、彼女はもう娘ではないのだ。自分がいない間に嫁いでしまい、奥方になってしまったのだから……。
清介は、ふと掃除の手を止めて先日訪ねてきた織りたちのことを思い出していた。
貧乏美形侍に嫁いだ織りは、いまだに竈で火をおこすこともできなかった。包丁を持つ手はたどたどしく、とても見ていられない。思わず包丁の使い方の手ほどきをしてしまった。背後から包み込んだ織りは、清介の思い出のなかのそれよりもずっと小さく、面食らってしまった。
こんなにも、彼女は小さかっただろうか?幼いころの思い出の中の彼女はじゃじゃ馬で、決してこんなに小さい女の子ではなかったはずだ。しかし、思い出の中同様、彼女の手には娘とは思えないマメがあった。
(胸が苦しい……)
締め付けられるように、胸が苦しかった。うまく呼吸をすることができない。
おかしいのだ。剣の間合いを取るとき、呼吸を整える。踏み込むとき、上手に息を吐いてかかっていく。武士にとって、呼吸はとても大事なのだ。なのに……。織りを思うと不思議な温かい気持ちになる。とても優しい気持ちになるのだ。しかし、そのすぐあとに彼女の夫である松太朗の姿を思い出してしまう。すると、ぎゅっと胸が苦しくなるのだ。さらに松太朗夫婦のことを思い出すと、それはまるで重い石か何かを乗せられているかのように呼吸すらできなくなってしまうのだ。
どこかに駈け出したくなるような、思いっきり叫びたい気持ちにかられるものの、どこに駈け出せばよいのだろう。何と叫べばよいのだろう。
清介は、自分のこの気持ちを持て余していた。
「おやぁ。またボーっとして」
なかなか掃除から戻ってこない清介を心配した水村は、道場で雑巾をかけながら庭を眺めて呆けている愛弟子を見つけ、呆れた声音で呟いた。
失恋した愛弟子で従兄弟に、しばし休息のつもりで今まではあまり言わないようにしていた。しかし、放っておくと清介は箒を持ったまま、あるいは竹刀を持ったまま、はたまた箸を持ったまま。ひどいときには、着替えながらも焦点の合わない目で呆けていた。
(まぁ、初恋だから仕方がないのかもしれないが…。あの年で、これは…)
清介だって、織りと年齢が変わらないのだから、妻を娶ってもおかしくはない。それなのに、初恋とはいえ、恋に敗れたからと、こんなにも呆けていては、先が思いやられる…。
(どうしたものか…)
うぅむ、と悩ましげに目を閉じて眉間にしわを寄せた水村は、顎に手を当てて小首を傾げた。
いろいろと思案を巡らせていたおかげであろう。
「あ…!」
パチリと目をあけた水村は足早に自室に向かった。
(あれがいい!)
パンっと障子を勢いよく開けた水村は、机上の回覧を取り上げた。昨日隣のおヨネばあさんが持ってきた近所の回覧に、町内のご案内が載っていたはずだ。
「これで、少しは気がまぎれるだろう」
回覧を片手に水村はニヤニヤとした。