【春霞】
まだまだ朝方は冷え込む。それでも清介は薄暗いうちから目を覚ました。しかし、温かい布団と違い、まだまだ外気は冷たく目覚めた清介の顔を冷たく刺す。思わず、まだしばし布団の中に温まっていようかと目を閉じた。
しかし、外からかすかに聞こえる足音に、今度はパッチリと目を覚ます。そして、すぐに布団を上げ、身支度を整えると寝起きとは思えぬ速さで外に出た。
やはり外はまだ薄暗く、部屋の中よりずっと冷える。しかし、そんなことはどうでもよかった。清介の目の前では、水村がすでに竹ぼうきをもって、庭の掃除を始めていたのだから。
「おや、清介。おはよう。今日は早いな」
細い目を更に細くして、水村が涼しげな声で顔を引きつらせる清介に声をかけた。
「す……すみません!先生!それは、俺がします!先生はどうぞ、中に入ってください」
そう言って、水村からほうきを奪う。
水村はそうかい、と優しく微笑むと素直に清介にほうきを渡して、中へ入っていった。その姿を見ながら、清介はこっそり胸をなでおろす。
居候させてもらっているというのに、水村の方が先に起きて家のことをしているだなんて、情けない。特に帰ってきて、寒さが増すごとに清介の起きる時間は遅くなっていき、水村に任せっきりだった。そのたびに「すみません!」と反省してはいるのだが、なかなか心地よい布団の誘惑に勝てない。それを知ってか知らずか、水村は変わらず「気にすることはないよ」と優しく言い、清介を責めることはしなかった。
(あれは、新手の責めの方法なのだろうか……。精神的な攻撃かもしれない……)
そんな穿った考えさえ頭をよぎる。
ほうきを持って突っ立っていた清介の耳に、雨戸が明けられる音が入ってきた。
水村が一枚ずつ引き戸を引いている。かと思うと、たらいを持ってきて、水拭きを始めてしまった。
「せ……先生!そんなの、俺がしますぅ!!!」
何から何まで自分の先をいく師匠を恨めしく思いながら、清介は半ば涙声で朝日の昇り始めた外で叫んでいた。
「織りさま、そろそろ起きませんか」
「んうぅ……」
部屋の障子の前で膝をついた茜が静かな感情のこもらない声で、中の布団で高鼾の主人に言う。ごそごそと身動きをとる音はするのだが、それ以外には何も聞こえないので、起きちゃいないのだろう。
「織りさま、もう朝餉のお時間でございます」
「ん″~」
再び声をかけてみるが、やはり生返事を返すばかりでである。
「なんだ、まだ寝ているのか」
突如、茜の背後で朝にふさわしい、さわやかで心地よい声が降りかかる。しかし、そんなことに茜が動じるはずもなく、彼女は振り向きもせずに「はい」と答えた。
「しょうがないな……」
そう言ってこの家の主は障子を開ける。中では布団に完全にくるまっている織りが布団越しにその存在だけ示していた。障子をあけたことで外の冷たい空気が入ってきたからか、さらに小さくなって布団にくるまろうとする。それを見た茜が「まぁ!!」と情けないやら呆れたやらの声を上げた。朝の似合うこの家の主、今日も無駄に輝いている松太朗も、目を丸くしている。そして、ポリポリと頭を掻きながらつぶやいた。
「昨夜はそんなに遅くまで起こしていたつもりも、激しくしたつもりもないのだがなぁ……」
朝からのセクハラ発言に、茜は表情も変えずに「はぁ……」とだけ答えておく。松太朗は、布団のそばまで行くと恐る恐る、というようにそっと布団をあけた。
「起こしてくるから、茜は向こうで待っていていいぞ」
織りを覗き込んだ松太朗は、茜を振かえりにっこりと微笑みそういった。茜も一礼をしてその場を音もなく去る。
すると、ほんの一時後、
「きゃああああああああ!」
と、いう絹を裂くような声が聞こえたかと思うと、
「ははははは!」
という松太朗の笑い声が聞こえた。どうせ、また松太朗が織りが驚くようないたずらをしたのだろう。
「お膳の準備をしましょ」
茜は独りごちった。
朝餉の席に現れた織りは、一切松太朗とは目を合わさずうつむいてチビチビとご飯を食べる。松太朗はそんな織りを上機嫌で見つめながら、最後の茶を啜った。
「うむ、今日は昼には帰ってくるからな」
「承知いたしました」
忙しい時期を過ぎたらしく、松太朗も最近は帰りがとっても早い。
もっと働いてきてください!そしてたくさんの禄を貰ってきてください。
そんな心の声を、茜は飲み込む。
「帰ったら、今日は和馬のところへ遊びに行こうか。よいであろう、織り?」
湯呑を片手に、さも嬉しそうに言う。
「はぁ……」
織りは疲れたように返事を返した。
「では、それまでに家のことは頼むぞ」
そう言うと、松太朗は「ごちそうさま」と手を合わせて席を立つ。慌てて、織りも残りのご飯を詰め込み、松太朗の後を追った。
「行ってらっしゃいませ」
そう玄関で指をつく姿も、ずいぶん奥方らしくなってきた。もちろん、その一片を見れば、だが……。
「うむ、行ってくる」
奥方に見送られる主の姿もそれらしい。
婚儀を済ませて半年以上が過ぎた今、やっと、それらしく所帯を構えた風にはなった。
「さ、織りさま。今からわたくしと一緒にお掃除とお洗濯をいたしますよ」
見送りを済ませたのち、茜が織りに厳しく言う。
「わかっていますわよ……」
渋々立ち上がるが、足がだるくて仕方がない。
(松太朗さまのせいですわ、こんな……)
重たい体を意識すると、同時に昨夜の情事も思い出してしまった。
二度目の初夜以来、松太朗も何かが吹っ切れたかのように夜伽を積極的に求めるようになってきた。もちろんこれが普通の夫婦の相方なのだろうが…。織りはいまだに慣れないし、生娘のように毎回恥じらいながらいる。
そんな二人の様子に気づいている茜は、情事の翌日はどんなに織りが朝寝坊をしようと怒ったりはしない。上機嫌でいるわけでもないが、満足げだ。
(跡継ぎがお生まれになるのも、時間の問題ね)
胸中でそうつぶやきながら、織りには奥方として身に着けていなければならないことを、姑のようにして叩き込んでいる。
朝寝坊を許されるのも、あと少しだけであった。




