月光
月明かりの夜道。
身を裂くような冷たい風の中、松太朗はほろ酔い気分で織りの歩調に合わせてゆっくりと歩いていた。
遠くからは、火の用心の見廻りの声が聞こえる。
「今日は、すみませんでした」
うつむき加減の織りは、ぽつりと呟く。
松太朗は、きょとんと織りを見下ろした。
「何がだ?」
織りは、気まずそうに俯いたまま、草履が砂を払いながら進むのを見ていた。松太朗は、フラフラと千鳥足のまま織りを見下ろし首を傾げる。
織りは、キュッと眉間にしわを寄せたまま、ポツリポツリと話す。
「食事の用意もままならず・・・。松太朗さま、きっとお恥ずかしい思いをされただろうし・・・」
織りは歩みを止めた。
そして松太朗をスッと見上げる。
松太朗は、おやっと数歩進んだ所で止まった。そして織りを振り返る。
「それに・・・。あの・・・ご覧になったのでしょう?その・・・厨房で・・・・・・」
今にも泣きそうな顔で、織りは松太朗に言う。
「・・・・・・」
それまで、フラフラして目をとろんとさせていた松太朗は、スッと目を細めて織りを見返した。織りは、その瞳に耐えかねまたも俯く。
松太朗は、しばらく黙っていたが、シュルリと袖を翻してまた歩き始める。
「しょ・・・松太朗さまっ」
慌てて、織りも後を追う。
松太朗に追いついたものの、織りはもう松太朗と面を向かわせる勇気もなく、結局彼の後ろからのそのそと付いて歩いた。
(怒ってらっしゃるのかした・・・。やはり言わない方が良かったのかしら・・・)
今にも泣きそうな思いで、織りは松太朗の背中を見つめた。
その気配に気づいたのか否か・・・。松太朗が振り返る。そして、スッと袖から手を出して織りに差し出す。
「何の事かは分からんが、早く帰らねば風邪をひくぞ」
わざととぼけてくれている。
それが分かると、余計に織りは松太朗への罪悪感が募った。
織は、きゅっと、口元を結び、眉間にも深いシワを寄せ、苦渋の表情で松太朗を見つめ返す。
「織り殿が、そのように苦しむ必要もあるまい。」
低く静かにそう言う松太朗は、泣かば強引に織りの手を引いた。
握られた手が痛い。しかし、それを訴えることもできず、引きずられるようにしながら、織りは松太朗について行く。
「お…お待ちになって…。松太朗様っ…!」
非難がましく言う織りの声に、松太朗は振り向きもせず、ずんずん歩みを進める。
月の明るい夜だ。
青白い光の下で、松太朗の漆黒の髪が風になびく。それを目で追いながら、織りは続けた。
「松太朗様、わたくしやましい気持ちなど微塵もございません。清介さんとは、幼い頃に何度か道場でお相手をしたようですけれども、わたくし、覚えておりませんの。それに、最近だって……っ。」
松太朗の反応も分からぬまま、織りは弁解していた。すると、突然、松太朗がぴたりと歩みを止める。
「……しょ…松太朗様…あのぉ」
恐る恐る、織りは声をかける。
松太朗が、振り向く。
その顔を見て、織りははっと息を飲んだ。
こんな松太朗の顔を見るのは初めてだった。
眉をひそめ、苦しそうに顔をしかめている。
「しょ…松太朗様…」
どこか体の調子が悪いのですか?
織りがそう尋ねようと、一歩踏み込んだと同時だった。
「きゃっ…っ…」
松太朗は、おもむろに織りの肩をつかむと、強引にその肩を引き、反対の手で織りの頭手を添えたかと思うと、自分の方へと近づけ、そのまま己の唇と、織りのそれを重ねた。
織りの見開いた瞳には、松太朗の肩越しに月が浮かんでいるのが見えた。
月の周りに、大きく光の輪をまとった…、傘をさした月だった。
(明日は雨なのね…)
そんなことを考えながら、心をどこかへ放ってしまった。