昔話
幼いころから男勝りな織りは、花や書を教える利玖の目を盗んでは、しょっちゅう水村の道場へと足を運んでいた。
『織り殿、そなたが身につけなければならんのは、竹刀の振り回し方ではなく、針や裁ちばさみの使い方ですぞ』
わざわざ自分の分のお八つまで持参する織りは、道場の縁側にちょこんと座り、饅頭を頬張りながら、水村の父親である師範の言葉を右から左に聞き流していた。
『泰平のこの時代、男の武芸とて嗜み程度になってきておるのだ。姫のそなたがそのようなモノ身につけても一銭の価値もありませんぞ』
手についた餡子まで綺麗に舌で舐め取った幼い織りは、唇を尖らした。
『水村先生、わたくしはお花や書は嫌いなのでございます。それに、こんなタイヘイの世ですもの。きっと、おなごも殿方も、同じように暮らせる日が来ますわ』
甲高くたどたどしい口調で、織りはよくそんなことを言っていた。
『なんとまぁ……』
師範が目を丸くして織りを見る。
そこへ、ハタハタハタと、土をせわしなく蹴る音がしたかと思うと、織りほどではない甲高い声が響いた。
『また来ておったのか、このバカ女!やい!俺が相手になるからかかって来い』
声の主は、まだ前髪も下ろしたまま、太ってはいないが、年端もいかない幼い少年らしく、肩から手首までくびれがほとんど見当たらない、ふっくらした腕を織りに翳した。
師範はこめかみを人差し指で、グリグリ押しながらため息を吐く。
『清介、口を慎みなさい』
『なんでだよ、おじ上!こんなじゃじゃ馬、ここいらでギャフンと言わせるんだ』
静かな声で諭す師範に、幼い清介は織りのようなキンキン声で勇む。
織りは、パタンと縁側から降りるときゅっと清介を見返した。
『じゃじゃ馬とは失礼な!』
『おまえがじゃじゃ馬じゃなければ、暴れ馬か!?』
『ンまぁ!!なんて減らず口なのでしょう…!!』
織りは真っ赤になって、鼻息を荒くする。
清介はフフンと、勝ち誇ったように腕組をして顎を反る。ほとんど身長の変わらない幼い二人であるため、清介が織りを見下ろすようにするには、こうするしかなかった。
『わたくしをナメてかかると怪我しますわよ』
ズイっと右足を突き出し、こちらも今にも喧嘩をせんばかりに勇みこむ。
『お前こそ、やめるってンなら今のうちだぞ!』
同じようにズイと右足を摺りだした清介も、負けじと答える。
そんな二人を見ながら、お茶を淹れて来た息子とともに、師範はこめかみを相変わらずグリグリと押さえていた。
『父上、弟子はもう少し選ばれた方がよいのではないですか?』
『宗佑…。そうは言うが、選んでおられるほど、うちの道場も儲かっちゃいないんだよ』
宗佑―つまり現在織りたちの前にいる師範代の名である―は、父の俯き顔を横目で盗み見る。
(武士道云々偉そうなことを言っても、やはり利潤あってのものダネなのだな…)
まだ元服して間もない若い師範代は、道場運営と武士道という微妙な掛け合いの、大人の世界を垣間見てしまったのだった。
そうしている内に、幼い二人は、掴みあいの喧嘩を始めてしまった。
『あぁぁ…こら、清介、織り殿、やめないか!』
宗佑が慌てて二人をひきはがす。
幼い割に力強く、なかなかお互いの着物を離そうとしない。
『はなせ、兄さま!今日こそはこのじゃじゃ馬に痛い目見せねば!!」
『清介、男がおなごに手を出すのは感心ならんぞ』
織りの着物と髪の毛を離さない清介に、宗佑はやんわりと言い諭す。
しかし、清介はその手をゆるめない。
実は、今まで何度か手合わせをしているが、まだ織りにきちんと勝ったことがないのだ。 とはいえ、織りが特別強いわけでも、清介が弱いわけでもない。
一重に運だ。
清介の、運、が悪いのだ。
『じゃじゃ馬じゃじゃ馬と、バカの一つ覚えのように!』
『ぬぅぅぅ!!よくそんな憎まれ口を』
ムキになる清介のプニ腕とやはり着物をつかんだまま、織りも負けじと言い返す。
喧々囂々。
『自業自得だな』
道場の奥にある、水村家居住地の一室で、幼い二人は宗佑の手当てを受けていた。
『ジゴウジトクって何ですの?』
ムッとした表情のまま、首と鎖骨に引っかき傷を受けた織りは、宗佑を見上げた。
宗佑は、フッと鼻で笑う。
『自業自得も分らぬ子どもが、一著前に喧嘩をしたのですか』
『子ども相手に、偉そうに言ってどうするのだ』
ほっぺたを思いっきりつねられ真っ赤になって、足には織りが蹴りを入れたため打撲の青あざをつけている清介は、宗佑そっくりの表情で、大人げないと、首を振ってみせる。
そんな清介を見て、宗佑はチョンと彼の青あざを指で押す。
『~~~~~っっ!!』
痛みで声も上げられず悶絶する清介を横目に、宗佑は織りの手当てを続ける。
そんな澄まし面の宗佑を見ながら、織りはゾッとしながら彼を見やった。
『あぁぁぁ。どうするつもりです、清介。お前の傷がもとで織り殿が嫁に行き遅れでもしたら』
織りは、良家の令嬢である、と、宗佑は幼い清介に教える。
幼い清介や織りには、身分云々など、遠い世界の話だった。
悶絶の表情から、清介はゆっくりと顔を上げる。
織りもきょとんとして、宗佑を見上げた。
『責任、とるんですか?』
真面目な面持ちで、宗佑が二人に言う。
『ふ…ふん!行き遅れたら、俺のとこに来ればいいだろう』
『そしたら、毎日清介は、織り殿に蹴られますよ』
『わたくし、そんなに悪いことばっかりしませんわ!セイスケが、わたくしを怒らせなければ、仲良くできますもの!』
自分の言っていることが、どえらいことだとも知らず言う清介に、宗佑が憐れむような表情で言ってやる。その言葉に、織りも幼さゆえの受け答えをする。
『織りが俺の家来になれば、いつでもヨメに来ていいぞ!』
『バカ言うんじゃないわよ!誰がセイスケの家来になるものですか!あなたこそ、わたくしの言うこと聞かないと、ヨメに来てあげませんわよ!』
訳も分らず『嫁にくる・来ない」と話す二人の言葉を聞きながら、薬箱を片づける宗佑がぼんやりと言う。
『今の二人の言葉は、大人になっても私が覚えておいてやりますよ』
十数年経つが、織りの鎖骨には、引っかき傷がうっすらと残っている。
それは、織り本人はすっかり忘れていた。
松太朗も数回、織りが着替えている時に目にしたが、たいして気にもしていなかった。
「懐かしいですねぇ」
水村宗佑師範代は、のほほんとお茶をすすりながら言う。
清介と織りは、自分たちも覚えていない幼いころの話に、恥ずかしさから顔を真っ赤にした。
蚊帳の外の松太朗はいささか面白くない表情でその話を聞き、二人を盗み見た。
「まぁ、子どもの頃の話です。今日は、ゆっくりその話でもしましょう。今晩はうちでご飯を食べて行きなさい」
ね。とニッコリ笑う水村に、織りと清介は、勢いよくフルフルと首を振った。
松太朗だけは、聞いてみたい気もしていたのだが…。