【星詠】
「なぜだろうなぁ?」
首筋から松太朗の声が体を伝って聞こえてくる。
「なにゆえ、古の歌に星を詠んだものは少ないのであろう?」
普段の織りならば、
「そうなんですか?松太朗さまはお歌の教養もおありでステキですわね」
などと、目をハートにして呑気に感心しそうだが…。
何やら高尚なことを言っている松太朗は、織りの着物の襟から右手をスルリと滑り込ませて、その手に吸いつくようにしっとりとした彼女の肌を楽しんでいた。左手は、しっかりと織りの腰を抱き寄せている。
織りはくすぐったさと、恥ずかしさからきゅっと目を閉じた。
「消えてしまいそうだ…」
織りの首筋に唇をあてながら、松太朗はささやく。
その言葉を感じながら、織りはうっすらと目を開けて、自分の首筋に顔をうずめる松太朗を見た。
「この輝く星ぼしも、今にも消えてしまいそうなほど儚く美しいのに、我ら先祖は夜に月見しかしておらんようだな…」
背後から、妻を足でしっかりと自分に引き寄せ、あいた左手は織りの手を取る。
「それに、強がっていてもかようにか弱いおなごを見て、それを歌にせんとはな」
指を絡めて手を合わせても、織りの手はすっぽりと松太朗の手がつつんでしまう。
歌の教養など幼少のころからほとんど受けていない織りは、これがたとえ普通の状況であったとしても「松太朗さま、何だか分らないけれど素敵ですわ」としか答えられなかっただろう。
それが、このような状況ともなれば、受け答えはおろか、もはや松太朗の声など己の盆踊りでも踊れそうなくらい勢いのある心臓の音と血液が台風の際の川の流れのように激しく流れる音で、まったく聞こえていない。
ヒヤリとする空気に少し我に返る。
いつの間にか、織りの着物の襟はゆったりとはだけられていた。
そのため、松太朗の手は先ほどよりも自由に肌の上を滑る。そして、時にはその感触を楽しんだ。
「しょ…松太朗さま…」
絡められた手と反対の手で、自分を好きに行き来する松太朗の手を掴むが、何にもならない。
「か弱いものだな…」
「や…」
松太朗が囁きながら織りの耳たぶを噛む。
松太朗の手と唇に意識が集中してしまう。
睦月とはよく言ったもので、空気はこんなにも冷たく皮膚を裂いてしまいそうなのに、織りの体は熱を帯びてくる。そして、松太朗の手も心地よく温かい。
襟から滑り込ませた手に力が入る。
「きゃ…松太朗さま…あ」
酒よりも、甘い甘い、織りの声。
織りはうっすらと唇を開けて呼吸をした。
すばらしい早業というか…目敏いというか。
織りの一瞬の隙に、松太朗は織りの顎をとらえ、そのまま強引に唇を捉えた。
うっすらと開く織りの瞳には、キラキラと輝くちいさな星が、小さく開いた戸口越しに見えた。
夫婦がこのように睦みあう状況になる前まで、グイっと時間は遡る。
一月も半ば過ぎ、仕事も世間も大分落ち着いたある休日。織りと松太朗は、久しぶりに水村の道場を訪ね、新年のあいさつをしていた。
奥に通された二人は、お年賀とも手土産ともつかない代物を水村に手渡し、談笑していた。
「ただ今戻りました」
しばらくすると、玄関から少年よりも低い、成人男性より澄んだ声が、道場に響く。
あら、と織りが声の方を振り返る。
水村は「帰ってきましね」と独り語散ると、よっこいせ、と相変わらず年不相応の声とともに立ち上がった。
「今の声は…?」
織りが、口元に笑みを浮かべて聞くと、湯呑みを茶棚からもう一つ取り出した水村が苦笑した。
「清介ですよ。実はしばらくうちに居候することになりましてね。お使いに出てもらっていたのです」
「左様でございますか。では、賑やかなお正月になったのですね」
ニッコリと微笑みながら言う織りに、水村も細い目を更に細めて「ええ」と笑いながら頷いた。
「稽古始は大きな催し物のようなものですからね。清介に準備を手伝ってもらったので助かりましたよ」
(…いいように使っておるのだろうなぁ…)
水村の腹黒い笑みを見ながら、松太朗は胸中でそうツッコミ茶をすする。
「先生!只今帰りましてございます」
勢いよくふすまを開け、清介の分の茶を入れていた水村に元気に声をかけるが、すぐにその場に膝をついた。
「し…失礼致した!」
確か、初めて(実は幼いころに面識があったらしいのだが覚えていない)会ったときも、勘違いをして織りに同じように謝っていた。
「清介、頭を上げてこちらへ来なさい。織り殿たちからお土産をもらいましたよ」
客人が織りであると告げられた清介は、輝く笑顔をたたえて、パッと顔を上げ、織りを見た。
が、すぐにその横に控える麗人に気づく。
「清介さん、明けましておめでとうございます。今年はご都合が合えば、一度手合わせ願いますわ」
清介に丁寧に手をつく織りに、清介は慌ててこうべを垂れる。
「あ…いや。おめでとう存じます。俺でよければ、いつでも手合わせ致しますよ」
そう言いながら、清介は再び麗人ー松太朗を見た。
「お付きの方ですか?」
松太朗を手で示し、清介は訪ねる。
織りの家、成山家と言えば、外様とは言えなかなかの御家柄。お付きの人がいても何もおかしくはない。一つだけおかしいのは、お付きにしては、主人と並んで…いや心なしか前に出て座っていることだけである。
織りは、清介の言葉に目をパチクリさせた。
水村は面白そうに目を細める。
そして…
「挨拶が遅れて申し訳ない。 何やら妻が世話になっているようだな。松太朗と申す」
松太朗は、不敵な笑みを口元に浮かべて清介の目をとらえてそう自己紹介した。
まだ、慣れない織りが、わずかに頬を染める。
居候の顔を見て、水村は眉根を寄せ、吹き出すのをこらえる。
そして。
清介は目をマン丸くしたまますっかり固まってしまった。
「え………えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?!?!?!?まさか…え!?お…織りさん、嫁がれたのですか!?いつです!?!?!?」
解放されたように突然叫びだした清介は、ずいと織りに詰め寄る。
織りは鼓膜が破れてしまうのではないかと、清介の渾身の、悲鳴にも似た言葉に、肩をすくめながらもはにかんだ。
「あの…昨年の9月に…」
その言葉に、清介は言葉を失った。
と、いうことは、先日再開したときには、とっくに嫁に行っていたということか。しかも、相手は、この綺麗な顔面の持ち主。
清介は、信じられない…と、夫婦をそれぞれ見ながらふるふる首を振った。
「な…なぜ…。織りさん、キツネがタヌキに化かされておるのではないだろうか。でなければ、このような絵巻物の中から飛び出したような殿方が…」
清介は、最後まで言わなかった。
いささかムッとする織りをよそに、松太朗は清介の言うことの意味が分らず小首を傾げる。
「はははは。なんだ、清介。お前、やたらと織り殿に気のある話ぶりをすると思ったら…。新年早々失恋をしてしまったなぁ。はははは」
腹を抱えんばかりに、水村は清介の肩に手を乗せて無神経にもそういった。
「きっ…気のある話ぶりなど…!!何を申しておられるのだ!?」
松太朗は、本気で狼狽する清介を見て、無表情を保った。しかし、眉が不機嫌そうに跳ねたのは、本人も、周りの人間も気づかなかった。