【大晦日】
「まだ目標が達成できん…」
明日の昼前には実家に帰る茜は、おせち料理の準備で夕飯の片付けをした後も慌ただしく働いていた。
織りは先に湯浴み中だ。
そのスキに、松太朗は茜にうなだれたまま告げた。
茜は一端手を止めて松太朗を振り返ると、またそのまま料理仕込みに戻る。
「左様でございますか」
「なぜ、自分の妻と接吻するのにこんな悩まねばならんのだ…」
うなだれたままの松太朗は、沈んだ声で呟く。
「来年の夏前には、松太朗さまたちにも甥御さまか姪御さまができますのにね」
淡白な茜の言葉に、松太朗はチラリと目を上げる。
「絹さまか」
「つわりも大分落ち着いてこられたそうですよ」
織りの姉である絹は、嫁いで1年余りでやっと子宝に恵まれた。
松太朗の兄も、まだ子宝には恵まれておらず、初めての身内の子どもだ。
「ややか…。俺たちには出来んだろうな…当分。子どもは嫌いではないのだがなぁ…」
またもやうなだれたまま、松太朗はブツブツと呟く。
茜は、作っていたこぶ締めの干瓢を置くと、くるりと振り返った。
そして極上の笑みを浮かべる。
「じゃあ、一気にややまでおつくりになればよろしいではないですか」
忠義者の女中は、訝しい気な目を挙げる松太朗に続けた。
「織り様に、ややが欲しいと言ってしまえばよいではないですか」
「いや…そんなすぐは…」
「そうすれば、接吻どころか、褥も共にできますし、2度目の『初夜』も迎えられますし、万々歳じゃございませんか」
ヨロヨロと頼りなく、茜の突っ走った発言を制そうとした松太朗だが、万々歳な茜の提案に、いつの間にか顎に手を当てて、得意の「うむ…」で考え込んでいた。
「順を追うのも大切ですが、あの方に順を追ってやっていては、ややなんか出来るに至る頃には、松太朗さまはご隠居を控えるような御年になってますわ。一気に行く方がお二人のためですわよっ」
ニッコリと力強く微笑み、きゅっと拳を握りしめた。
いつの間にか、松太朗も輝く瞳で茜を見つめた。茜でなければ、一瞬で松太朗に恋してしまいそうな、美しい顔だ。絵巻物の光源氏でもここまで美しい瞳ではなかったはずだ。
しかし、相手は茜。そんなモノには心揺るぐはずもない。
「確かにそうだな…。うむ…。よし。計画変更だ。一気に織りに迫ろう」
意気込む松太朗に、茜は一つ入れ知恵した。
「女は雰囲気に弱いものですわよ」
大晦日を明日に控え、世の中は慌ただしく動いていた。
どんよりと鉛色の空からは、今にも雪が降りそうだ。
茜は、おせち料理をある程度作り終えて、しばしの暇をとって家族の元に帰っている。
松太朗は今日が仕事納めで、昼過ぎには帰ってくるはずだ。
それまでに織りは掃除を済ませておきたかった。
タライに沸かしたお湯をはり、拭き仕事に精を出す織りは、殆ど家事などしたことない。竹刀と箸しか握らない織りの手は真っ赤になっている。
開け放った戸から冷たい風が吹き込む度に、織りはブルッと身震いした。
「さっさと終わらせてしまいましょ…」
そう独りごちると、あっと言う間にぬるま湯になったタライで雑巾を絞る。
濡れた手に冷たい風が当たり、織りはまた一つ身震いした。
そしてふと外を見る。
「あらぁ…」
織りは顔をほころばせると、開け放った戸に近づく。
今朝は冷え込むと思っていたが、とうとう雪が降り始めた。
今年は暖冬ではあったらしく、これが初雪だ。
「積もるかしらぁ…」
茜がいない、一人で家のことをせねばならない、挙げ句に嫁入りして初めての正月。
重い気分でいた数日だったが、それを払拭するような初雪に、織りは年甲斐もなく心を踊らせた。
「ふふ…晴暁も気づいているかしら」
毎年姉弟で、庭に積もった雪で遊んでいた。
今年はできそうにないが…。
襷をつけたまま、織りはすっと手を伸ばした。
フワリフワリと雪が舞い、織りの手の中で溶けてしまう。
「見てるこっちが寒々しい」
「えっ…」
背後から呆れたような、しかし優しい声が聞こえたかと思い振り返ると、いつの間にか松太朗が帰ってきていた。
「松太朗さま、いつの間に…」
「一応ただいま、とは言ったが…掃除をしておったから気づかんだったのだろう」
気にすることじゃない、と松太朗は微笑む。
織りは「すみません」と呟くと、こちらもニコリと笑う。
そしてまた雪に手を伸ばした。
「初雪ですわっ。積もりますかしら」
声を弾ませる妻を微笑ましく見ていた松太朗は「そうだなぁ…」と言いながら、こちらもスッと腕を伸ばした。
ただし。
織りの手を下から掬い上げるように。
そして、反対の手は織りの腰に回して抱き寄せた。
「しょ…松太朗さまっ…?」
「そんな恰好でいたら、風邪をひくぞ」
下から重なってくる松太朗の手は、いつの間にか織りのそれと絡めていた。
大きな手に包まれた織りの赤い手にも、一気に血が巡りだす。
「わ…わたくし、まだ掃除が終わっておりませんので…」
「うむ…。そのようだな」
松太朗は、絡めた手を持ち上げ、織りの肩越しに自分の唇を寄せて、はぁっと白い息で暖めてやる。
ついでにそのまま唇を、織りの柔らかい掌に当てた。
「しょ…松太朗さまっ…!雑巾を絞った手でございます」
恥ずかしい気持ちより先に織りの頭を掠めたのは、松太朗に取られている方とは反対に持つ雑巾のことだった。
新年に向けて、新しく卸した端切れではあるが…。これでもう畳を拭き上げたのだ…。
織りが恐る恐る振り返ると、僅かに青筋をたてた松太朗がいた。
「…すみません…」
思わず織りは謝っていた。元はといえば、松太朗が思いがけない行動を起こすのがいけないのだが…。
松太朗は何も言わずに織りを見下ろす。
茜に、今年中に起きている織りと接吻を交わしてみせる、と宣言した。
ついでに宣言したその日から同衾する予定だったが、織りの早とちりのせいで流れて…今も別々の布団で寝ている。
(ちと、焦ってしまったか…。…いや、しかし、明日で今年も終わるしなぁ…。十代の子どもでもあるまいし。何故、俺は接吻ごときでこんなにも悩んでおるのだ…。しかも相手は自分の妻だというのに…)
むうぅっ。と唸る松太朗を側で見上げて織りはどうしよう…と思う。
(ヤバいわ…。こんなに眉間に皺を寄せて唸ってらっしゃる…。怒らせてしまったかしら…)
未だに自分の腰に腕を回す松太朗の腕に触れようとしたのだが、片手は松太朗がしっかりと握っているし、もう片方はしっかりと雑巾を握っている。
「松太朗さま…」
仕方なく、呼びかける。
「お口なおしと申しますか、お茶にしませんか?」
松太朗はチラリと織りを見下ろした。
「織り殿、今日は寒いし、そろそろ同じ布団で寝ないか」
考えごとをしていた松太朗は、ダイレクトに織りに聞いた。
冷静に妻を見下ろす男と、驚愕の表情で夫を見上げる女。
松太朗と織りの年末攻防戦が今、幕を開けた。
かも、しれない。