初見
織りは水村の部屋に通されていた。
こざっぱりしている。
織りは棚にある本を眺めた。
兵法書から哲学書、物語から医学書まである。
雑読者であるらしい。
とりあえず適当に手を伸ばしてみた。
「先生、お茶を煎れましたよ」
「っ!?」
突然、部屋の襖が開けられたので織りはビックリと肩を震わせて、手にした本を取り落とした。
相手も床に膝をついたまま、織りを見上げてぽかんとと目を丸めている。
「あ…あの、わたくし道場に通ってる者で、水村さまとは幼い頃から存じあげてて…その…決して怪しい者ではございませんし」
あたふたと身振り手ぶりで言ってみたものの、それがかえって怪しい。
男は勘違いをしたのだろう。
うっすらと顔を赤らめると「し…失礼致した」とか言いながら、襖を閉める。
「お…お待ち下さいませっ。わたくし本当にただのいち弟子に過ぎませんのよ!」
慌てて襖にかじりつくと、恐る恐る開き、先ほどの男と目があった。
「あの、ちょっと、休ませて頂いている、だけなのです。本当に」
一言一句噛みしめるように織りが言う。
男は真剣な眼差しの織りをしばし見つめていたが、ぷっと吹き出した。
「早とちりをしてしまったようですね」
「早とちりでございます」
「で、先生はどちらに?」
「水村さまは、昼の稽古に行かれました」
そうか…と呟くと、男は湯呑みの載った盆とお茶請けの羊羹を見下ろして、ちょいと頬をかいた。
ぐぅぅっと腹が鳴る。
「…おや」
自分と変わらないくらいであろう男は、織りを見てぱちくりと瞬きをする。
織りは真っ赤になって俯いた。
「あの…お昼…まだだったものですから…」
男は遠慮がちに盆を差し出す。
織りは気まずそうに俯くばかりでいた。
「私は吾妻清介といいます。3年ほど前までこちらに通っていたのですが、しばらく丁稚奉公に上がっていたので留守にしていたのですが、一週間くらい前に戻って来たのですよ」
男―吾妻清介は、織りを安心させようと言葉を紡いだ。
織りはおずおずと湯呑みに手を伸ばす。
「そうでございましたか」
「あなたは、成山家の織りさまでしょう?」
羊羹を口に運びかけた織りは、目も口もあんぐりさせて清介を見た。
清介はニッコリと微笑む。松太朗のように妖艶でも美しくもない。ただ爽やかで、少年らしさを残すあどけないものだ。
「あなたはご存じないでしょうが、この道場ではあなたを知らぬ者はおりませんよ」
溌剌と言う清介に、織りは空腹なども忘れた。
どこかで聞いた言葉だ。
「えっと…」
「通っていた頃は、何度か一緒に稽古をつけてもらってるんですよ、私たち」
「えぇっと…」
「女がてらに竹刀を振り回す武家の娘なんて、あなたくらいですから」
そうだ。
さっき饅頭を食べながら水村が言っていたのだ。
「しばらく見ない間にずいぶんとお美しくなられたのですね」
「おっ……!!!」
まさか松太朗以外に、こんなことをサラリと言う人間がいるだなんて…。
織りは真っ赤になって、陸に上がった魚よろしく口をパクパクさせた。
それを見た清介がケラケラと笑う。そして続けた。
「まさか、まだ通っていらっしゃるとは思いませんでしたよ」
織りは真っ赤になって、ぷっと膨れた。
「松太朗殿」
呼びかけられた声に、松太朗はゆっくりと目を開く。
すると澄んだ青空と一緒に相変わらず細い目の水村がこちらを覗き込んでいた。
気づかなかったが、いつの間にか稽古が始まり、竹刀のぶつかり合う音とともに、若い男たちの雄々しい声も聞こえる。
水村も相手をしてきたのだろう。
上気した頬に、一筋の汗が光る。
「あ…寝ていたのか…」ゆっくりと体を起こした松太朗が、肩を鳴らす。固い床に寝ていたので、体が痛い。
「一緒にやりませんか?」
「えっ…」
水村の言葉に、松太朗は頬をひきつらせる。
本当にしばらく、竹刀すら握っていないのだ。
「いやぁ…俺は…」「まぁまぁ。奥方が頑張っておるのに、旦那様がそんなでは、家も大切な人も守れませんよ」
はっはっは~と水村は軽やかに笑うが、「先生」と呼ばれてそちらへ行ってしまう。
残された松太朗は、稽古の音を聞きながら考える。
(うむ…。確かにこれではいかなんなぁ)
松太朗は意を決して立ち上がると、道場へ足を向けた。
「水村殿」
松太朗の呼びかけに、道場にいた猛者たちが、一斉にそちらを向く。
「おや、どうされました?」
「俺も、一汗流そうと思ってな。やはり女一人守れなければ、家族を守っていくことも出来ん」
ニッ笑う松太朗に、猛者たちは頬を赤らめる。
いつもの爽やかな美しい微笑みではなく、愛しい者を思う妖艶で、それでいて力強さを感じさせる、浮世絵の中の役者のような笑いであった。
(こんな風に微笑まれて、あの織り殿が平静を保てるわけはないな…)
呆れるやら感心するやら…。
水村は胸中で独りごちた。