落涙
茜が出て行ってどのくらい経ったのだろう。
しばらくは、茜が洗濯する音や掃除をしている気配がしていたのだが、今はしんと静かだ。
ぎゅるる・・・
とお腹が鳴った。
織りは、もぞもぞと起き出して、冷えてしまったお粥に手を伸ばす。
鍋に入ったお粥には、ちょこんと真っ赤な梅干しが乗っかっている。織りが大好きな茜の漬けた梅干しだ。
そして、小鉢にそれをよそって食べる。
ほのかに温かいお粥は、塩加減もばっちりだ。
茜は誰よりも織りの舌を知っている。
だから、いつも料理の塩梅は完璧なのだ。
そんな茜の優しさに、また織りは涙が出てきてた。
「そうだわ・・・」
いつまでも、このように部屋でウジウジしていても仕方がない。
織りは、早々とお粥をかき込み、胴着に着替える。そして、いそいそと竹刀を取り出した。
「茜」
茜の部屋へ行くと、彼女は針仕事をしていた。
「まぁ、織りさま。まさか道場にお出かけになるのですか?」
織りの姿を見て、目を丸くした茜は声を荒げる。
織りは、泣きはらした目を細くする。
そして、ええ、と答えた。
「体調は戻りました。ああやっておとなしく寝ているのは、やっぱりわたくしの性に合わないわ。ちょっと水村さまに稽古をつけてもらって来るから」
「では、わたくしもお供いたしましょう」
茜は、針山に針を戻して着物に落ちた糸くずを払う。
今朝の織りの状況を見れば当然のことであった。
しかし、織りは「大丈夫」と、立ち上がろうとした茜を止める。
そして、もう一度言う。
「大丈夫よ。昼過ぎには帰るから」
茜はまだ何か言いたげだったが、織りは構わず踵を返す。
そして、足早に家を出た。
織りが道場を訪ねるのは半月ぶりだった。
やって来た織りを見て、水村もぎょっとする。
細い目が、一瞬大きく見開いた。
だが、すぐにいつもの顔に戻る。そして苦笑を浮かべて
「また、えらく暗い表情で来ましたね~」
と言った。
織りは苦虫を噛んだような表情で、短く「お久しぶりです」と言う。
とりあえず中に通そうと、水村は弟子にお茶を準備するよう命じる。
「水村さま、そんなお気遣いいりませんわっ。わたくし、練習をしに参ったのです」
慌てて織りが言うと、水村はふっと微笑む。
「美味しいお饅頭を朝からもらったんですよ」
朝から饅頭!?と思ったのだが、織りは何も言わずにおいた。
とにかく体を動かして、さっさとこのモヤモヤをどうかしたい。
「どのみち、一旦休憩するつもりでしたから」
そう言いながら、水村はさっさと奥へ行ってしまう。
仕方なく織りもあとに続いた。
水村の部屋に通された織りは、二人で縁側にすわってお茶を啜った。
「このお饅頭を持ってきた方も、久しぶりに来られたんですよ」
ふかふかの饅頭を見下ろしながら、織りは首を傾げる。
「わたくしも存じ上げている方ですか?」
かぷっと饅頭に食らいついた水村も首を傾げた。そしてモグモグしながら考える。
ほんのり梅の爽やかな香りが口に広がる。
漉し餡だが、梅の風味がする、実に爽やかな饅頭だった。
「う~ん…顔は見たことがあるかも知れませが…。あちらは織り殿をご存知と思いますよ。私の道場に武家の娘なんてあなたくらいしか来ないからね」
若い師範代は、にっこりと笑う。
織りは、口元だけ上げて笑うと、ふぅっと溜め息を吐いて俯いた。
「やっぱりおかしいですわよね。武家の…しかも嫁入りした娘が道場通いだなんて…」
水村は、おやと織りを見返した。
随分(織りにしては)思い詰めた表情でやってかたものだから、心配はしたのだが…。
「やはり…茜のような娘が嫁御なら、よいのでしょうか?」
「あっ…茜殿!?」
水村はぎょっとした。
大方、嫁としての不甲斐なさに気づき、松太朗に対して申し訳なくなったのだろう、と思っていた。
まさか茜の名を出すとは…。
水村も茜とは顔見知りだ。織りが幼い頃は彼女がお迎え役だったのである。
「二人が…わたくしのいない間に、手と手を取り合い、見つめ合っていたのでございます」
言いながら織りは声を震わせた。
水村は、生唾を飲み込む。
「二人とも大好きな…そして大切な家族なのです。胸の中がそわそわしてモヤモヤして居ても立ってもいられないし、ちゃんと知りたいのに…二人を前にすると言葉が出てこないのです」
織りはそう一気に話すと、ポロポロ涙をこぼし始めた。