母子
徳暁と松太朗はまだ二人で酒を交わしていたので、織りは先に風呂を済ませた。
檜の風呂釜は、織りが幼い頃から変わらず瑞々しく爽やかな香りに包まれている。
腕も脚も十分伸ばせるそこは、贅沢の極みだった。
口まで湯船に浸かった織りは、プクンプンクと水泡を作りながら息を吐く。
1日が慌ただしく過ぎて、地に足がつかないが、こうして一人で静かな湯船に浸かっていると、じわりじわりと現実に戻ってくる。
そして、こうして一人でいると、まるで松太朗との新婚の日々が夢のようにも思われた。
(実際、一族総出でキツネにでもつままれているんじゃないかしら)
ゆっくりお湯を顔にかけながらそう思う。
でなければ、あんな麗人が自分を溺愛しているなんて些か腑に落ちない。
(変なかんじだわ…)
ホカホカの身体に着流しを纏い、しっとり濡れた髪を背中に流して部屋に戻る。
そこには先客がいた。
襖を開けた織りは一瞬固まる。
「またお前はそんな格好で。風邪をひきますよ」
「お母さま…何をしておいでなのです?」
織りの部屋には、すでに二人分の布団がひいてあり、その脇には利玖が座っていた。
「まぁ、ここに座りなさい」
そう言って利玖は、織りを自分の正面に座るよう指示した。
お説教かしら…と織りは苦虫を潰したような顔をする。
久しぶりに会った娘の、武家の妻としての至らぬところを、目敏い母が見つけたに違いない。
織りは気まずく腰を下ろす。
これまた幼い頃から変わらず、織りは肩を竦めて上目遣いに利玖を見た。イタズラが見つかった時のような表情は、今も変わらない。
利玖はじっと織りを見つめる。そしてすっと綿入れを織りの膝頭に滑らせた。
織りはそれを見下ろし、きょとんとする。
「若い二人が、婚儀を機に家を出てやっていくのは大変でしょう。これからは寒くなるのだから、風邪をひかぬよう頑張りなさい」
織りは渡された綿入れを手にとり、利玖とそれとを見比べながら驚いたように目を丸くしていた。
「松太朗さまの分は、お父さまより丈と袖を長くしといたから多分大丈夫でしょう」
織りには、彼女が好きな桃色と山吹色の小紋を。松太朗のものは濃紺に朱糸で刺し子がしてあるものを。
利玖はふっと柔らかく微笑んだ。
「松太朗さまにしっかりとお仕えするのです。あんなに寛大でお前を可愛がってくれるダンナさまなんて後にも先にも松太朗さまだけです」
「…お母さま…」
母の優しさに、織りは目を潤ませる。
利玖が織りを呼んだのは、心配ばかりの娘がどんなすごしているか見たかったからだ。そして、この綿入れを渡したかったのだ。
「辛いことがあっても逃げ出さずに踏ん張りなさい。それが武家の妻の勤めです」
「はい、お母さま」
母子はそっくりの表情で微笑み合う。
そして
「でもお母さま聞いて下さい。松太朗さまってばちっとも女心を分かって下さいませんのよっ」
相変わらずの甲高い声で、織りは眉根を寄せて頬を膨らませた。
利玖は娘の言葉に眉を顰めた。
「そんなの。お父さまで慣れているでしょう」
「お父さまに女心を分かって頂こうだなんて思ったことございません」
唇を尖らす織りに、ピンと指を立てて利玖は噛みしめるように続ける。
「いいこと、織り。お父さまのような朴念仁もつまりません。しかし、松太朗殿のような見目麗しい殿方は、勝手に娘たちが寄ってくるもの。女心なぞ考える必要もなく女道楽ができるのです」
女道楽!?と織りが目を吊り上げる。
「殿方とは、都合よく甲斐性だなんだと大義名分を掲げては己の好きに生きていくのです。お父さまを見ていれば分かるでしょう」
呆れ果てたように利玖は言う。
娘には分からぬ夫婦のシビアな事情があるようだが、ここは知らぬフリをする。
「松太朗さまに飽きられぬよう、夜のお勤めも頑張りなさい」
「…なんと…」
まさか実母から夜伽に励めなどと言われるなんて思ってもいなかった。
恥ずかしがりながらも、織りは実母に現実を伝えていた。
利玖は、目をひん剥いて織りに教え諭す。
それから松太朗が戻ってくるまでの間、本人以上に危機感を抱いている利玖は、織りが耳を塞ぎたくなるような講話を切々としていった。