夫婦
松太朗は遠慮して夕方帰ろうとしたのだが、結局利玖に捕まってしまった。
曰わく
「一人で帰ってもお寂しいでしょうしご飯もありませんでしょう。せっかくですから、うちに泊まってらしてね」
ということだ。
織りは久しぶりの自室の真ん中にちょこんと座った。
3ヶ月前までここで毎日暮らしていたのに、何だか懐かしい。
松太朗は、織りの文机の上にある彼女の愛読書、兵法をパラパラ捲った。
「不思議なものだなぁ…」
本に目を落としたままの松太朗が呟く。
「何がでございます?」
ぐるぅり天井から床から眺めていた織りは、松太朗の姿に目を留めて首を傾げる。
松太朗は織り代わりにぐるぅり部屋を見回した。
「初めて来た家で…織り殿の家族の中にいるというのに、落ち着くなぁと思ってな」
織りは松太朗の言葉にきょとんとする。
「織り殿の匂いに慣れてしまったのだろうな」
思えば3ヶ月、毎日一緒にいて同じ部屋で寝食を共にして来たことを実感し、松太朗は微笑む。
織りの実家が、一気に華やぐような微笑みだ。
松太朗は腰を上げ織りの正面に腰を下ろす。そして自分の両手で織りの手を包み込むように取る。
「ど…どうしたのです!?」
松太朗の仕草があまり優雅で、織りは小さく震えた。
松太朗はそんな織りに気づかず、柔らかく滑らかな手の甲の感触を楽しむように、指の腹でさすりながら言う。
「まだ3ヶ月しか経っておらんのだなぁ…。もそっと長い時間を共に過ごしたような気持ちだ」
「でも、あっと言う間の3ヶ月でしたわ」
あっと言う間だから、まだ松太朗さまに慣れませんのね、と織りは胸中で呟く。
松太朗は、織りの言葉に「それもそうだなぁ…」と答えると、ふっと笑った。
そして、やはり指の腹で織りの手の甲をさすりながら続けた。
その表情はとても柔らかい。
「さっきも言ったが…毎日が楽しいのだ。今までの…織りのいない生活は、もう考えられんな…」
松太朗はまたゾクっとするような妖艶な瞳で、織りを見返し言った。
織りは松太朗に包まれた手から一気に熱が上がってきたかのようだった。
(お…織りって呼び捨てにされましたわ…)
家柄、両親姉にしか呼び捨てにされたがない織りは、松太朗の何気ないそれに、じぃぃんと感慨深く目を閉じた。
松太朗に所有されているような不思議な胸の疼きを感じる。
「織り殿はどんな幼少期を過ごしたんだ?」
(元に戻った…)
「わたくしは、お転婆でした」
先ほどの心地よい胸の疼きが一気に冷め、織りは残念に思いつつも、いつもより饒舌な松太朗に少し、嬉しく思ってもいた。
松太朗は、織りの答えに苦笑する。
お転婆であることは容易に想像がつくし、今も大して変わらない。松太朗は、丁寧に聞いていくことにした。
「うん、どんな風だった?」
「そうですわねぇ…」
織りの答えは、織り自身のようだった。
端的であちこちに話しが跳ぶ。そして遠回りして具体的に全貌が見えてくる。
年頃の娘らしく、よく笑い、よく喋り、身振り手振りで一生懸命。
松太朗は、慣れた部屋にいるせいか素顔を見せて話す織りの言葉や仕草に、1つひとつにニコニコとしながら相槌をうち、会話を楽しんだ。
誰かの過去をこんなにも聞いてみたいと思ったのも初めてだ。
そして、こうやって終わりの見えない会話を楽しむのも…。
こんな毎日が今では日常となり、織りと過ごす日常が愛おしくて仕方なかった。
織りがいるだけで、こんなにも世の中が明るくなるものかと思う。
織りがいるだけで毎日に張り合いがでて、生きる意味を感じるのかと、松太朗は目の前にいる少女の存在の大きさを、改めて感じていた。
「松太朗さまは?」
突如、織りはそう聞き返した。
松太朗はん?と柔らかい微笑みを妻に向ける。
いつもなら、目眩まし!?と、まるで仇を目の前にしているような思いにすら駆られる織りであったが、今日は違った。
素直に松太朗の柔らな微笑みも、妖艶な仕草も受け入れられる。
変に気張らずに済み、楽だった。
これが松太朗さまの仰る夫婦らしさかしら?
などと考えてみる。
そして松太朗が織りにしたように、織りもまた、松太朗の話しをニコニコと相槌をうちながら聞いていた。