悪戯
「そういえば・・・」
織りが声をかけた時に、自分の膝からぴょんと飛び降りてしまったメダカの行方を目で探していた松太朗だったが、気ままな猫の姿はどこにもなかった。
そして、相変わらずのふくれっ面をした織りを向く。
その瞬間に織りは、条件反射のごとくピンと背筋を伸ばし、表情も整える。
「俺に何か用事があったのではないか?」
「あっ」
煮え切らない思いでいた織りも、はたと思い出し、目を大きくする。
そして、つっと松太朗に近寄り見上げた。
「そうでしたわ。あの、実は実家から使いが来て、顔をだすようにと母からの伝言を受けてしまって・・・」
「うむ…」
「ですから、少しの間だけ出かけてこようと思うのですが、よろしいですか?」
申し訳なさそうに言う織りの言葉に、なにやら松太朗は顎に手を当てて考えただした。
「泊まりがけで行かれるのか?」
「いえいえ、夕方には帰ります」
松太朗の問いに、織りは目を丸くしたまま手をふって否定する。
結婚してから、実家に帰るということだけでも気が引けるのに、まさか泊まりがけで帰るなどとんでもない。
織りにもこのくらいの一般常識は備わっていた。
「では俺もお供しよう」
唐突に松太朗はそう言って織りを振り向くとニッコリ笑った。
「・・・・・・・・・えっ」
なぜ!?
一体どういう風の吹き回しですか!?
と尋ねたかったのだが、とっさの事に頭が回らなくなったのと、相変わらずの松太朗のステキ笑顔に、織りは言葉を詰まらせてしまう。
そんな織りに気づかず、松太朗は名案だとばかりに長い指をピンと立てて言う。
「思えば婚儀以来、義母上には挨拶も行っていないし、行ってご機嫌を伺おう」
「そ…そうですわね」
松太朗さまと実家に!?
織りは嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちになった。
かっこよく、優しい旦那様を実家でお披露目できることは嬉しい。
しかし、破瓜後に両親きょうだいに会うのは気恥ずかしい。それに何より、その破瓜をした相手の天然のボケっぷりが実家でどのように映るか。
そして、その天然ボケっぷりを発揮させ、松太朗が織りにとって都合の悪いことを言いかねない。
また、両親も自分に都合の悪いことを松太朗に言いかねない。
いろいろな事を考えた織りには、静かにそう答えるのがやっとだった。
「やはり女親はご心配召されるであろう。織り殿の元気な顔を俺ばかりが独り占めするわけにもゆかぬし、織り殿も夫のグチを聞いてもらわねばならぬし
はははっと、鈴を鳴らしたように笑う松太朗に、織りはぶんぶんと首を振った。
「ぐ…グチだなんてとんでもございませんわっ。松太朗さまは織りには勿体無いくらいのダンナさまです」
勢いに任せてそう言う織りは、胸中で
(眩しさと、どぎまぎさせられること以外は…)
とだけ付け足した。
あまりに首を激しく振りながら言う織りを見て、松太朗はまた鈴を鳴らした。
そしてふわりと織りの頭に、自分の手を乗せる。
「逆であろう。俺には勿体無いくらいの妻だ」
ボッと織りが真っ赤になる。
それを見た松太朗はニヤリと笑う。
織りのこうやって照れる姿を見ると可愛らしくて、たまにからかいたくなるのだ。
浮世離れしたダンナ様は、そうやって奥さんをいぢめる男らしい気持ちをたまに持ち合わせるらしかった。
松太朗は妖艶な表情で頭に載せた手をそのまま頬に滑らせた。
「こんな可愛らしい妻を頂いたことをしっかりと感謝せねばなるまい」
そう言うと、また手を滑らせそっと顎を持ち上げる。
「かっ…!?」
松太朗が自分のことを可愛らしいなどと言うのは初めてだった。
それにこんな妖艶な表情でそんな殺し文句を言うだなんて。
「織り殿」
松太朗は、低く名を呼ぶとゆっくりと顔を近づけてきた。
顎を捕まれたままの織りは完全にパニック状態だった。
先ほどの余韻があり、ましてや完全に気を抜いた状態だったため、全く心の準備ができていない。
「しょしょしょうたろうさまぁ~」
焦点も合わないほどに、松太朗の顔が近づいた時、織りはたまらず情けない声を出していた。
首まで赤くして松太朗を見上げると、いたずらっ子のような目をした松太朗がいる。
織りはカァっと茹で蛸のように真っ赤になった。
そして、ポカポカと小さな拳で松太朗の腕や胸を叩く。
「もうっ!!!松太朗さま、またわたくしをからかったのですね!!」
織りがキンキン声で叫ぶが、松太朗は気にせず笑い飛ばす。
「からかったのではない。夫婦なのだから別によいではないか」
「ふ・・・夫婦ですけれども、織りには心の準備が必要なのです」
「では、常に準備をしておくがよい。いつ俺がまた手を出すとも分からんぞ」
そして、縁側にある草履に足を通すと、「ははははは」と笑いながら、そのまま家庭菜園の方へと向かってしまった。
「もう!!松太朗さまなんか知りません~」