天然
「松太朗さま」
穏やかな明るい声に松太朗が振り返れる。
質素な着物に身を包んでいるものの、若さ故と元来持ち合わせた明朗快活な性から、自然とそれが表情にあらわれ、それは内側からにじみでる華やかさになっている。彼女が笑えばそこは花畑のように明るくなる。
そんな妻を松太朗はすっかり気に入り可愛がっていた。
しかし、その天真爛漫さと無邪気さ、そしてあまりに彼女を纏う雰囲気が透明で清潔であるため、初夜以来、手を出せずにいる。
それはさておき、松太朗は愛しい妻の姿に自然と笑みをこぼした。
「…うっ…」
松太朗が向ける、あまりに眩しい微笑みに、声をかけた妻-織りは思わず小さく呻き目を瞑った。
松太朗の心の奥底にある織りへの気持ちになど気づかぬ当の本人は、この美しすぎる夫に振り回されてばかりだ、と常々頬を膨らませていた。(松太朗にとってはそんな織りの表情や仕草も可愛らしくて仕方がないのだが・・・。)
「織り殿、目にゴミでも?」
そんな天然ボケっぷりを発揮しながら、松太朗は織りに近づく。
松太朗が美男子であるが故の嫉妬を受けぬ理由はこれであった。
松太朗のこのボケっぷりである。この美しい貴公子然とした男は次男坊であるがための、のんびりした性格と物事に捕らわれない無欲さ、そしてテンポのずれた性格をしている。
これが松太朗の愛される本当の所以であろう。
自分より頭一つ分小さい織りの顔を覗くために、松太朗はかがんだ。
「どれ、見てやろう。織り殿、顔を上げて」
頭にそっと手を置き、織りに上を向くように言う松太朗に、織りは心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしていた。
こ…これは、初夜以来の、接吻を交わすチャンス…。
織りは目にゴミが入ったことにして上を向く。
薄目で松太朗を見上げると、見慣れてはいるものの相変わらず側にあることに慣れない彼の美しい顔が、すぐ近くにあった。
(しょ…松太朗さま…)
少女らしく頬を赤らめた織りは自らの心臓が飛び出すのを押さえるかのように、胸に手を当てた。
そして心なしか唇を尖らせる。
「織り殿」
松太朗の低くも高くもない、心地よい声が聞こえたかと思うと、左手が織りの肩を支え、右手はそっと頬に触れられた。
彼女を呼びかける声音は相変わらず優しく柔らかい―まるで今日の縁側のように心地よいものだ。
松太朗の気配がすぐ側にある。
目を閉じてしまっているのでその距離感がつかめず、逆にそれが織りの胸を高ぶらせた。
いつくるかいつくるか、と待つ時間が歯がゆくもあり、くすぐったくもある。
ふと、松太朗の長い前髪だと思うものが、織りの額に触れた。
(あぁ…近くにっ…)
久しぶりに松太朗を近くに感じて、織りは最早血圧が最高潮に上がりきっていた。
ふっ…
松太朗の息が、織りの睫を揺らす。
(ひゃあぁぁっ)
織りは失神寸前だった。
「取れた」
目頭から目尻にかけて、松太朗の指の腹が沿う。そして軽やかな声とともに、織りに触れていた両手が離れていく。
「へ?」
ぱちっと音がしそうなくらいの勢いで、織りが目を開けると、そこには満面の笑みを浮かべた松太朗がいた。
「睫、取れましたよ」
織りの下瞼に付いていた睫を取ってやり、松太朗は頗る機嫌がよかった。
(ま・・・睫?)
「あ…ありがとうございます…」
拍子抜けした織りが脱力したように呟く。
松太朗は「いえいえ」と答えながら、う~んと庭に向かって伸びをした。
ただそれだけの気怠い午後の風景が、何とも雅な様に見えるのは松太朗のせいである。
肩から力の抜けた織りは、そんな松太朗の姿を見ながらいつもの如く、胸をもやもやさせた。
(なんだか…いつもわたくしばかりドキドキしてるわ…)
天然の夫をもつ幼妻は、彼の見ていないスキに、ぷっと膨れっ面をしてみせた。