男心
「松太朗殿」
織りが自分を忘れて帰ってしまったと鼻息を荒くしてあた松太朗を、水村が呼びかけた。
「これは織り殿の忘れ物です」
そう言って渡したのは竹刀と袱紗だった。
松太朗は、なぜ袱紗?と、中を確認する。
すると見慣れたものが表れ、松太朗は青ざめる。
「今日は、嫁いでから初めて稽古に出てこられたのだが…。やぁ見違えました」
今度は本当に閉じている目元を緩ませて、水村は青ざめる松太朗に気づかず続ける。
「お美しくなられたし、すっかり女心まで芽生えられておる。全部松太朗殿のおかげだ」
最初、道場に顔を出した織りを見て言葉を失った。
すっかり垢抜けて、立派な女性になっていた。
黙っていれば、織りはもう姫君ではなく、奥方である。
「まぁ、相変わらず落ち着きはないが…。しかし、先ほど嬉しそうにその文を見せてくれて。聞けば後朝の歌だと言うので…本当に驚きました」
幼い頃から見ていた織りが、成長し、嫁いで女になり、奥方然とした表情を見せるようになった。
娘の幸せを素直に喜べないような複雑な思いが、水村にはあったのだが、松太朗を見て安心した。
少し………
いや、だいぶん天然ではあるようだが、彼ならば織りを幸せにしてくれる。
織りが愛おしくて仕方ないのだろう。それが手に取るように分かる。それは、水村としては複雑に腹立たしさもありはするのだが・・・。
何にせよ、松太朗は織りを大切にしてくれると分かった。
「松太朗殿…」
松太朗と向き合い、娘を送り出す気分になっていた。
しかし、そんな水村の肩を松太朗は青筋を立てた表情で掴んだ。
「えっ…あれ?」
「忘れて下され…」
絞り出すような松太朗の声に、水村は戸惑った。
「しょ…松太朗殿…何を…????」
「頼む…この後朝の歌のこと、忘れて下され………。これは………俺の一生の恥だぁ…!だからっ……」
朝昼晩 共にある人 いることぞ 嬉しきことは 何にも変わらず
何の捻りも裏読みもない。松太朗の生涯で一番の駄作(自称)である歌をまさか他人に見られているとも知らず、松太朗は絶望に暮れた。
そんなことに必死になる松太朗を見て、呆けていた水村は、次の瞬間には高らかに笑いとばした。
「笑い事ではないのだ…!」
「ははは…誰にも…言わぬ。ご安心めされよ。…くくっ」
似た者夫婦ではないか。
水村は思った。
「松太朗殿の名誉の為に申し上げるが、織り殿はその歌をしっかりと胸に抱き、頬を染めて私に自慢してこられたのですよ」
「……こんな歌を…?」
「織り殿は、本当に松太朗殿を好いておるのですよ」
にっこりと微笑む水村に、松太朗は顔を赤らめた。
(青くなったり赤くなったり…忙しい御仁だ。)
「恐らく今、『いつになったら松太朗さまはわたくしに追いついて来られるのかしら』と織り殿は不安げに待っておるはずた。早くせねば、次は『もうっ!松太朗さまなんて知らない』とご機嫌を損ねるだろう」
わざと声を高くして織りの声を真似ようとする水村に、松太朗は苦笑した。なんだかムキになるのも、バカバカしくなったのだ。
そう思うと力が抜け、ふっと笑い踵を返した。
「全く似ておられぬぞ」
わざとそう言って松太朗も駆け出す。
その後ろ姿を見送り、水村はん~っと伸びをした。