やかま子爵令嬢は、愛しの婚約者さまにお淑やかだと思われたい!
私は、静かでお淑やかな子爵令嬢ゾフィー。
そして今、婚約者のフィンさまが訪ねてくるのを待っていた。
私と同じく、落ち着いていて控えめな方だ。
でも私は、一つ彼に隠し事をしている。
本当の私はとてもとても、それはとても――うるさい。
『やかま子爵令嬢は、愛しの婚約者さまにお淑やかだと思われたい!』
フィンさまと婚約したのは、三ヶ月ほど前のことだった。
毎週お茶やデートに誘ってくださって、今日も新しいカフェに一緒に行く予定だ。
鏡の前に座って、前髪の隙間をきれいに整える。
私はフィンさまが大好きだ。
ミルクティーに砂糖を三つも入れるところがかわいい。
笑うと胸がくすぐられるような気持ちになる。
エスコートが完璧でかっこいい。
思い出すだけで好きがあふれてくる。
「お嬢さま、フィンさまがお迎えにいらっしゃいました」
扉を叩く音がして、私は勢いよく立ち上がった。
部屋を出ると、侍女のリンが待っていた。
「ああ、リン、どうしよう。ドキドキしてきたわ。ねえ、なんだっけ、あのおまじない」
玄関へ向かいながら、リンに話しかけた。
「Tを書いて三回飲み込めばよいのです」
「それよそれ! ところでなんでTなの? AとかBじゃだめなの?」
「存じ上げません。さあお嬢さま、早く飲み込んでお靴を履き替えてください」
お気に入りの白い靴に履き替えながら、私は話を続けた。
「ねえ、このリボン変じゃない? 赤と青で迷ったんだけど、やっぱり青の方が良かったかしら? ドレスが緑だから、赤だとなんだかクリスマスみたいじゃない?」
「とてもお似合いですよ。私とのおしゃべりはいいのでフィンさまのところへ」
リンに腕を掴まれて、私は玄関の向こうに放り出された。
顔を上げると、門の方からフィンさまが歩いてきていた。
「こんにちは、ゾフィー」
今日は暖かいですね。
庭でお花が咲いたんです。
そのジャケットは新しいものですか?
フィンさまの優しい雰囲気に茶色がとってもお似合いです。
好き。
「こんにちは、フィンさま」
頭に浮かんだ言葉を封じて、それだけ返した。
今日もしゃべりすぎないように気を付けなければ。
初めてデートした日、ついついしゃべりすぎてフィンさまをビックリさせてしまった。
「行こうか」
「はい」
差し出された手を取って、馬車に乗り込んだ。
それだけで心臓がドキドキして、顔が熱くなった。
* * *
カフェに着くと、新しいこともあって店の前に列ができていた。
「少し待ちそうだね。大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
待っているのは五、六人ぐらいだ。
三十人ぐらい並んでくれていれば、フィンさまともっと一緒にいられたのに。
「僕が待っているから、馬車にいるといい」
「いいえ、ダメです!」
「でも、日差しが強いだろう」
いいんです。
太陽の光ごときに私は負けません。
フィンさまへの愛の方が、もっとホカホカでアツアツなんです。
だから一緒に待たせてください。
「日傘がありますので。フィンさまも一緒にどうぞ」
「わかった。辛くなったら、すぐ言うんだよ」
ああ、優しさの権化、思いやりの塊、気配り王!
私はなんて素敵な人と婚約したのだろう。
幸せを噛みしめながら、最後尾に並んだ。
日傘を開くと、フィンさまは黙って私の手からそれを取って、持ってくれた。
私は陰になるが、フィンさまの身体は半分以上日差しにさらされていた。
さりげなく身を寄せて、フィンさまの傘を持つ腕を押しやった。
上手く傘が傾いたが、私に日差しが当たると、フィンさまはすぐに傘を戻してしまった。
「どうしたんだ?」
優しい。
好き。
「なんでもありませんわ。フィンさまは、今日は何が食べたい気分ですか?」
「僕はミルクティーがあれば何でもいいよ。それよりゾフィーは何が食べたいんだ?」
「えっと……」
チラシに載っていたりんごのタルトがおいしそうでしたわ。
ああ、でも木の実が入ったテリーヌも食べたいのです。
それとカヌレと、シフォンケーキと……。
そうだ、フィンさまと――。
「半分こ……」
「何を半分こしたいんだ?」
私はハッとして口を手でふさいだ。
しまった、思考が漏れ出た。
私のやかましさは、決して知られてはならない。
図書館で借りた本に、世の男性の大半はお淑やかな令嬢がお好みだと書いてあった。
フィンさまのためなら、こんなもの墓場まで持っていく。
「ゾフィー?」
「え、ええっと……お紅茶……?」
「紅茶は半分にできないんじゃないか?」
「そ、そうですわよね!」
ほほほと笑って、話を上手くごまかした。
その後はあっという間に順番が回ってきた。
店内に入った途端、甘い焼き菓子の香りが鼻腔に広がった。
「わあ、かわいい……」
席へ案内してもらっている途中、ショーケースに並んだきれいな菓子に惹かれ、思わず中を覗き込んだ。
あれがりんごのタルトだろうか。
テリーヌも艶やかでおいしそうだ。
食い入るように見ていると、視界の端でフィンさまも立ち止まった。
「ゾフィー、おいで」
おいで??????
理解が追いつかず、私は身を屈めたまま顔だけをフィンさまの方へ向けた。
「食べたいのはわかるが、席にいこう」
「は、はい!」
私は慌ててフィンさまのそばに戻った。
食いしん坊だと思われてしまっただろうか。
このままでは、「やかましい女」から「やかましい食いしん坊」に進化しかねない。
早々に印象を修正しなければ。
そう意気込んで、私は席に座った。
「こちらがメニューになります。お決まりになりましたら、お呼びください」
店員はお辞儀をして立ち去った。
メニューには、おいしそうな名前がズラリと並んでいた。
思わずゴクリと生唾を飲み込んだが、そっとメニューをフィンさまの方へ向けた。
「私は……レモンティーをお願いします」
「それだけでいいの?」
「はい」
「りんごのタルトがおすすめと書いてあるよ」
「そうですわね」
フィンさまは、何も言わずにこちらを見つめていた。
エメラルドのような深緑の瞳に射貫かれて、私は固まった。
「……いらないの?」
メニューを私の方へ戻して、フィンさまは言った。
ショーケースに並んだタルトを思い出して、口の中に唾液が滲んできた。
ダメだ。
ここで欲求に負けては、進化待ったなしだ。
「りんごのタルトだよ」
「では……りんごのタルトもいただきます」
勝てなかった。
しかし食欲に負けたのではない。
フィンさまの美しい瞳に負けたのだ。
「他はいいの?」
「わ、私、小食なのでそんなに食べられませんわ」
「これは?」
フィンさまはカヌレの絵を指さした。
私はブンブンと首を横に振った。
「ではこれ」
「いりません」
「こっちはどうだい?」
フィンさまが示したのは、テリーヌだった。
先ほどのショーケースにもあったチョコレートケーキだ。
食べたいです、フィンさま。
あのツヤツヤのケーキを、一緒に。
あわよくば半分こもしたいです。
あーんだってさせてほしいです。
止まらぬ欲求に、私は唇を噛みしめた。
フィンさまはメニューを机の端に寄せると、優しい笑みを浮かべた。
「僕はこのテリーヌをもらおうかな」
「え?」
「ダメか?」
「いえ、ダメじゃありません!」
「よかった」
そう言って、フィンさまは近くの店員を呼んだ。
注文を伝えると、まもなく飲み物が運ばれてきた。
フィンさまはいつものように、ミルクティーにお砂糖を三つ入れた。
「フィンさまは甘いものがお好きですね」
「うん、好きだ」
命に関わる一撃を食らって、私はしばし呼吸を忘れていた。
ティーカップを手にすると、フィンさまは優雅に紅茶を飲んだ。
「飲まないの?」
「の、飲みます」
促されてレモンティーをすすったが、心臓がうるさくてそれどころではなかった。
お話ししたいことはたくさんあるのに、言葉が引っ込んでしまった。
無言のままソワソワしていると、店員がケーキを運んできた。
助かった。
「こちら、りんごのタルトとテリーヌになります」
ショーケースで見た、キラキラのケーキが机に置かれていく。
身を乗り出して、皿の動きを目で追った。
「おいしそう……」
「おいしそうだね」
フィンさまはカトラリーケースからフォークを取って、差し出してくれた。
お礼を言って受け取り、タルトを見据えた。
戦いの時間だ。
マナー教室では、一口はスプーンやフォークの三分の二と教えられる。
けれど、もっと小さくすれば、それだけ長くフィンさまと一緒にいられる。
でも、せっかくのタルトだし、もう少し大胆に味わいたい気持ちもある。
一口目だけは、フィンさまの隙をついて大口でいこう。
そう思って、視線だけでフィンさまの様子を窺うと、ニコニコと私を見ていた。
「……いただきますわ」
「うん、どうぞ」
作戦変更。
まずは淑女アピールだ。
タルトの端をフォークで取って、口に運んだ。
「んーっ……」
おいしい。
りんごの甘みと爽やかな香りが広がっていく。
ゆっくりと味わっていると、フィンさまはテリーヌをナイフで切りながら言った。
「ゾフィーは食べるのが好きだな」
フォークを取り落としそうになった。
完璧な三分の二だったのに、食いしん坊に進化してしまった。
「そ、そんなこと――」
「いつも幸せそうに食べてくれるから、僕も嬉しいよ」
「え?」
フィンさまは言いながら、ご自分の皿をスッとこちらに寄せた。
そして切り分けたテリーヌを半分、私の皿に載せた。
「フィ、フィンさま!?」
「これなら半分こできると思ったんだが、いらない?」
「い、いります! あ、あの、私のタルトも……」
「もらっていいの? 実は僕も食べてみたかったんだ」
急いでナイフを取ってタルトに刃を入れると、パイ生地がボロボロになってしまった。
謝りながらお皿に載せたが、フィンさまは嬉しそうに口元をほころばせていた。
* * *
お茶を終えて店を出ると、日が落ちてきて、空がオレンジ色になっていた。
気温も和らいで、風が気持ちよかった。
「帰ろうか」
帰りたくないです。
フィンさまと一緒にいたいです。
手を繋いで歩いて、公園で夕日を見て、それから――。
「……はい」
「馬車は向こうの路地で待たせてあるから、行こう」
私はうなずいて、フィンさまの腕に手を添えた。
少し歩くと、すぐに馬車が見えてきてしまった。
もっとたくさん、おしゃべりしたかった。
フィンさまのことをいっぱい知りたい。
フィンさまの好きなもの、好きなこと、嬉しいこと。
馬車の手前まで来た時、ふとフィンさまが足を止めた。
「フィンさま?」
「やっぱり、もう少し歩かない?」
「え?」
あまりに都合のよい展開に私は自分の口を手で覆った。
「あの、もしかして私、何か言いましたか?」
気づかぬうちに、妄想があふれ出ていたかもしれない。
恥ずかしい。
やかましい妄想食いしん坊に到達してしまう。
「何も。せっかく夕日がきれいだから、見たいと思っただけだよ」
フィンさまは、腕に添えていた私の手をそっと外した。
そして改めて、手を差し伸べてくれた。
「付き合ってくれるかい?」
「はい、ぜひ」
フィンさまの手を取ると、大きな手がギュッと握り返してくれた。
路地を抜けて、川沿いの道を二人で歩く。
心臓がうるさくて、話したかったことが全部吹き飛んだ。
「今日は楽しめた?」
「は、はい! それはもう、とても!」
フィンさまに話しかけられて、私はドギマギした。
とにかくこの喜びを伝えたくて、懸命に言葉を紡いだ。
「タルトもテリーヌもとってもおいしかったです。りんごは甘くて爽やかで、テリーヌはしっとり濃厚で、フィンさまと半分こできたお陰で違う味が楽しめました。ああ、それからカヌレもおいしそうでした。私、カヌレを食べたことがなくて、どうにかして一度カヌレを食べてみたいんです」
息継ぎを忘れていて、話し終わった途端に大きく息を吸った。
同時にハッとした。
恐る恐るフィンさまの顔を見ると、穏やかに笑ってくれた。
「カヌレか。僕も食べたことがないな」
「フィンさまもですか?」
フィンさまの笑顔が嬉しくて、心によぎった不安がぶっ飛んだ。
「中はもちもちだけど、表面はとっても硬いそうです。焼いているのに、どうして中だけもちもちにできるのか、私とても不思議なんです。ブリュレと同じように作っているのでしょうか? ああ、でも、気を付けないと歯が折れてしまうんです」
「歯が?」
「はい。私のおじいさまが、カヌレを食べて歯を折ってしまったんです。それも前歯を。それ以来、うちではカヌレが禁止されていて……おじいさまがその名前を聞くとひどく怯えてしまうから、家では口にも出せないんです」
「そんなに硬いのか……」
ちょうど大きな橋に差し掛かって、フィンさまは話を続けながら、私の手をそちらに引いてくれた。
「でも……おじいさまには申し訳ないけど、やっぱり食べてみたいんです」
レンガ造りの橋は少し歩きにくかった。
ヨロヨロしていると、フィンさまが背中に手を添えてくれた。
好き。
言葉が浮かんですぐ、私は素早く口を押さえた。
声に出ていないだろうか。
心配になって横目でチラリとフィンさまを見ると、その口元が悪戯っぽく上がった。
「じゃあ今度、二人で食べよう。誰にも内緒だ」
「う゛っ」
太い杭を胸に刺されたような衝撃を受けた。
私が吸血鬼なら死んでいるところだ。
胸をさすりながら、私は「はい」と答えるので精一杯だった。
「ゾフィー、船がいるよ」
橋の右側を、一隻の船がゆったりと進んでいた。
日が暮れかけて少し暗い川を、立ち止まって二人で覗き込んだ。
「フィンさまは船に乗ったことはありますか?」
「何度かあるよ。ゾフィーは?」
「私もあります。おじいさまの家に行くときは、いつも船を使うんです。初めて乗ったときは船酔いがひどくて、ずっとお母さまに介抱されていましたわ。今はもう平気ですが、船旅の前は――」
そこまで言って、ハッとした。
しゃべりすぎた。
フィンさまが優しくて、歯止めが利かなくなっている。
「前は?」
私の顔を覗き込んで、フィンさまは首を傾げた。
翠緑の瞳に見つめられると、私は何も隠せなくなってしまう。
「前は……食べ過ぎないように気を付けていて……」
「うん、それで?」
フィンさまは優しく私を促した。
柔らかくて、少し丸い、大好きな声で。
「続きを聞かせてくれないの?」
その声がわずかに、沈んだような気がした。
私は欄干に置いていた手を離して、フィンさまの手にそっと触れた。
「あの……私のおしゃべり、うるさくはありませんか?」
顔を見る勇気がなくて、船のあげる水しぶきを見ながら聞いた。
横目に、フィンさまがこちらに視線を向けたのがわかった。
「うるさいなんて、一度も思ったことはないよ。僕は君の話を聞いているのが好きだ」
その答えに、私は思わず顔を上げた。
フィンさまは、船がいたのと反対側に視線を向けていた。
「ああ、見て、ゾフィー。きれいだよ」
視線の先を辿ると、水辺の街並みが見渡せた。
茜雲がまばらに空に広がり、合間から射す夕日が水面を輝かせた。
「わあ……きれい……」
「あっちへ行ってみよう」
ちょうど川へせり出した展望台のような場所があったので、二人で並んで立った。
フィンさまは景色に釘づけだった。
それをいいことに、私はずっとフィンさまの横顔を見つめていた。
フィンさまはお淑やかなご令嬢がお好みではないのですか?
食いしん坊でもいいんですか?
もっともっと、おしゃべりしてもいいですか?
そんなこと聞かなくても、フィンさまはきっと全部受け入れてくれる。
「どうしたの?」
私の視線に気づいて、フィンさまが微笑んだ。
涼しい風が吹いて、私の髪をなびかせた。
その風に背中を押されるようにして、口からポロリと言葉が零れ落ちた。
「……好き」
「僕も好きだよ」
幻聴だろうか。
ついに妄想癖が一線を超えてしまった。
それ以前に、私は何かとんでもないことを口走った気がする。
目をかっぴらいたまま固まっていると、フィンさまは数回まばたきをした。
「……そんなに変なことを言った?」
「い、いいい言ってません! あれ? 今のは幻聴じゃないのですか? フィンさまなんとおっしゃいましたか?」
「僕はゾフィーが好きだ」
これは夢なのだろうか?
フィンさまが私を好きだと言ってくれた。
それもなんだか、すごくロマンチックな場所で。
手を繋いで、夕日を見て、告白されてしまった。
嬉しさのあまり目眩がしてきた。
追い打ちをかけるように後ろから風が吹いて、足がよろめいた。
「おっと、大丈夫?」
フィンさまに抱きとめられて、息が止まった。
良い匂いがした。
お日さまの下で干したシーツのような、温かい匂いだった。
「もう死んでもいい……」
「やだよ、僕を置いて死なないでくれ」
フィンさまは寂しそうに言うと、私の肩をギュッと抱き寄せた。
とどめの一撃だった。
「長生きします……」
あとはもう、フィンさまの良い匂いを堪能することしかできなかった。
お読みいただきありがとうございました。
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